朝の光が差し込む台所で、恒夫は今日も卵を焼いていた。
音のないフライパンと、新聞をめくる妻の手だけが動いている。
何も不満はない──けれど何かが、少しだけ足りない気がした。
第一章 朝の時間
山田恒夫（やまだつねお）は卵の殻を軽く叩き、ひびを入れた。六十八歳になった今でも、朝食の目玉焼きを作るのは彼の役目だった。キッチンの窓から差し込む朝の光が、白いフライパンを温かく照らしている。
「今日も良い天気ね」
妻の千恵子が新聞を広げながら言った。結婚して四十二年、毎朝のこの時間が何より安らぎだった。定年退職してから三年、規則正しい生活を送っている。それでも、恒夫の心のどこかに、名前のつけられない物足りなさがあった。
「そうだな。散歩日和だ」
フライパンに卵を落としながら答える。黄身が完璧な円を描いて広がっていく。これまでの人生も、こうして丁寧に積み重ねてきたつもりだった。何度かの転職を経験したが、最終的には小さな商社で経理の仕事に落ち着き、安定した生活を築くことができた。娘の真由美も立派に成人し、孫の太郎とさくらは月に二度は遊びに来る。
何一つ不満はないはずなのに、何かが足りない。
「お父さん、何か新しいことでも始めてみたら？ゴルフとか、絵画教室とか」
先日、真由美がそう言った時、恒夫は答えに窮した。新しいこと。それが何なのか、自分でもわからなかった。ゴルフは昔から興味がないし、絵を描く才能があるとも思えない。
「はい、お疲れさま」
千恵子に目玉焼きを渡しながら、恒夫は小さくため息をついた。
第二章 公園での出会い
午後の散歩中、恒夫は近所の桜ヶ丘公園を通りかかった。平日の昼間、公園には数人の子供たちが遊んでいる。学校から帰ってきたばかりなのだろう、ランドセルが滑り台の下に置いてある。
「おじいちゃん、一緒にサッカーしない？」
突然声をかけられて振り返ると、小学生くらいの男の子が立っていた。人懐っこい笑顔を浮かべ、白いサッカーボールを抱えている。
「僕は健太。あっちが妹のみか」
少し離れたベンチに座っている女の子を指す。みかは恥ずかしそうに手を振った。
「健太君というのか。僕はおじいちゃんじゃなくて、山田のおじさんだよ」
「山田おじさん、サッカー得意？」
「昔は少しやったことがあるけれど、もう年だからなあ」
「大丈夫だよ！ゆっくりやろう」
健太の屈託のない笑顔に押し切られて、気がつくと恒夫は子供たちとボールを蹴っていた。最初はぎこちなかったが、だんだん体が思い出してくる。学生時代、部活動ではないものの、友人たちとよくサッカーをしたものだった。
「山田おじさん、上手だね！」
息を切らせながら健太が言った。久しぶりに体を動かすと、心地よい疲労感が広がった。何より、子供たちの無邪気な笑い声が心を軽くした。
「また明日も来る？」
健太の無邪気な質問に、恒夫は頷いていた。家に帰る足取りが、いつもより軽やかだった。
第三章 交流が深まって
翌日から、恒夫の日課に公園での時間が加わった。健太ともう一人の男の子ゆうき、そして妹のみかと過ごす時間は、思いのほか楽しかった。
「山田おじさんって、お仕事何してたの？」
ある日、ベンチで休憩している時に健太が尋ねた。
「いろいろな会社で働いていたんだ。最後は小さな会社の事務をしていた」
「すごーい。お父さんみたい」
子供たちの素直な反応が嬉しかった。現役時代は、自分の仕事に特別な誇りを感じることは少なかった。転職を重ねたことを、どこか負い目に感じていた部分もある。でも子供たちには、そんな複雑な事情は関係ない。
「山田おじさん、僕たちと遊んでくれるから好き」
みかの言葉に、恒夫の胸が温かくなった。この子たちにとって、自分は単純に「一緒に遊んでくれる大人」なのだ。
「今度、家に千恵子おばさんのお菓子、持ってきてもいいかな？」
「やったー！おばさんにも会いたい」
子供たちの歓声を聞きながら、恒夫は久しぶりに心から笑っていた。家に帰ると、千恵子に公園での出来事を報告するのが楽しみになった。
「お父さん、とても楽しそうね」
千恵子は微笑みながら聞いてくれた。
「子供たちといると、昔のことを思い出すんだ。自分が子供だった頃や、真由美が小さかった時のこと」
「いいことじゃない。お父さんにも新しい生きがいができたのね」
第四章 別れと手紙
しかし、楽しい時間は長く続かなかった。ある日、健太が泣きそうな顔でやってきた。
「山田おじさん、僕たち来週、お引越しするの」
お父さんの転勤で、隣の県の町に行くのだという。みかも寂しそうにうつむいている。ゆうきも珍しく黙り込んでいた。
「そうか。寂しくなるな」
恒夫も正直に自分の気持ちを伝えた。毎日が楽しみだったのに。この一ヶ月ほど、公園で過ごす時間が一日の中で最も充実した時間だった。
「でも、手紙書くね。山田おじさんも書いて」
「約束する」
「住所教えるから」
健太は小さなメモ帳に、丁寧に新しい住所を書いてくれた。
引越しの日、恒夫と千恵子は子供たちを見送った。お母さんに連れられて、大きなトラックに向かう三人の後ろ姿を見つめながら、恒夫は胸が締め付けられるような気持ちになった。手を振り続ける小さな影が見えなくなるまで、二人は立っていた。
それから二週間後、約束通り健太から手紙が届いた。新しい学校のこと、友達のこと、そして最後に「山田おじさんとまた遊びたい。今度は千恵子おばさんにも会いたいです」と書かれていた。
恒夫も丁寧に返事を書いた。文章を考えながら、自分が子供たちにどれだけ救われていたかを実感した。同時に、彼らがいなくなった今、また元の退屈な日常に戻ってしまうのかと思うと、やりきれない気持ちになった。
第五章 新しい挑戦
健太たちがいなくなった公園は寂しかった。それでも恒夫は散歩を続けた。滑り台やブランコを見るたびに、子供たちとの楽しい時間を思い出した。
ある日、公園の掲示板で「地域子ども見守りボランティア募集」の貼り紙を見つけた。
「どうかしら、お父さん」
千恵子に相談すると、彼女は優しく微笑んだ。
「いいと思うわ。健太君たちと過ごしているお父さん、とても楽しそうだったもの。きっと他の子供たちも、お父さんみたいな大人を待っているんじゃないかしら」
説明会に参加すると、同世代の人たちが十数人集まっていた。下校時間の見守り、公園での遊び相手、時には宿題の手伝いもするという。
「子供たちとの時間は、私たちにとっても宝物なんですよ。孫がいても、なかなか頻繁には会えませんからね」
ベテランボランティアの田中さんが話してくれた。
「最初は緊張しましたが、子供たちの方から声をかけてくれるようになって、今では毎日が楽しみなんです」
別の女性も体験談を聞かせてくれた。
恒夫は参加を決めた。健太たちから教わった「子供と過ごす喜び」を、今度は自分が他の子供たちに与えられるかもしれない。
第六章 新たな朝
それから半年が過ぎた。恒夫の生活は大きく変わった。週に三回の見守り活動、月に一度の公園清掃、そして時々、勉強を教えに子供たちの家を訪問する。毎日が充実していた。
今朝も、恒夫は卵を割って目玉焼きを作っている。しかし今日は特別だ。午後から健太と家族が遊びに来る予定になっている。夏休みを利用して、わざわざ訪ねてくれるのだ。
「お父さん、本当に変わったわね」
千恵子が新聞から顔を上げて言った。
「どんなふうに？」
「毎日がとても楽しそう。前とは違う輝きがある」
恒夫は卵をひっくり返しながら、自分でもその変化を感じていた。定年後の空虚感は、いつの間にか消えていた。代わりに、毎日が新鮮で、やりがいに満ちている。見守り活動で出会った子供たちとの時間、地域の人たちとの交流、そして何より、誰かの役に立っているという実感。
「今度、真由美にも会わせてあげたいな、ボランティアで知り合った子供たちを」
「きっと喜ぶわ。お父さんが生き生きしているのを見て、真由美も安心するでしょうね」
窓の外で鳥が鳴いている。新しい一日の始まりだった。六十八歳の恒夫にとって、まだまだ人生は続いている。そして今、それがとても嬉しかった。
フライパンの中で、黄身がきれいに固まった。完璧な目玉焼きの完成だ。でも今の恒夫には、完璧じゃなくても構わないという気持ちがあった。大切なのは、誰かのために何かをすること。そして、その中で自分も成長し続けることだった。
玄関のチャイムが鳴った。
「あ、もう来たのかしら」
時計を見ると、まだ約束の時間より一時間も早い。千恵子が玄関に向かうと、懐かしい声が聞こえてきた。
「千恵子おばさん！」
健太の声だった。恒夫は急いでエプロンを外して玄関に向かった。半年ぶりに会う健太は、少し背が伸びたように見えた。
「山田おじさん！」
恒夫は心から笑顔になった。そして思った。人生とは、こうして思いがけない贈り物をくれるものなのかもしれない。そしてその贈り物を、今度は自分が誰かに届けていくのだ。
恒夫は微笑みながら、今日という日を迎えた。
おわり
おわり
終わりに最後まで読んで頂いて有難うございました。
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