短編小説|きっと大丈夫だ

人は誰でも、立ち止まる瞬間がある。
前に進むことが怖くなって、自分という存在が宙に浮いているような感覚に襲われる時が。
でも、そんな時こそ、ささやかな言葉や風の匂いが、思いがけない力をくれるものなのかもしれない。


第1章:いつもの席、いつものメニュー

海沿いの小さな町に佇むカフェ「カモメ堂」の扉を開けると、潮風に混じってコーヒーの香りが鼻をくすぐった。佐藤遥は昨日と同じようにカウンター席に座り、窓の外を眺めた。

変わらない景色だった。穏やかな午後の海、遠くに見える江ノ島、行き交う人々の声。すべてが昨日と同じなのに、遥の心だけが昨日とは違っていた。

「いつものブレンドで?」

店主の青山慶が、いつものように静かな声で尋ねた。三十五歳の慶は無駄な言葉を使わない人だったが、その短い言葉の中に不思議な温かさがあった。

「はい、お願いします」

遥は努めて明るく答えたが、自分の声がどこかぎこちないと気づいた。昨日の午後、三年間働いた派遣先から契約終了を告げられた。理由は「業務縮小のため」という、遥個人とは関係のないものだったが、それでも胸の奥に小さな棘が刺さったようだった。

「何もしてないのに疲れてる」

遥は心の中でつぶやいた。今日は金曜日で、本来なら仕事をしているはずの時間だった。でも午前中からずっと部屋にいると息が詰まりそうになって、気がつくとこの店に来ていた。

「あら、今日もいらしたのね」

聞き慣れた声に振り返ると、常連客の森佳代が笑顔で手を振っていた。六十二歳の佳代は元保育士で、いつも明るくて快活だった。遥は小さく会釈した。

「お疲れさま。今日はお休み?」

佳代がカウンターの隣の席に座りながら尋ねた。遥は少し躊躇してから答えた。

「実は、昨日で契約が終わったんです」

「あら、そうなの」

佳代は驚いた様子もなく、むしろほっとしたような表情を浮かべた。

「私なんて、ずっと何にもできてないわよ。退職してからもう三年も経つのに、毎日がお休みみたいなもの」

佳代の軽やかな言い方に、遥は思わず口元が緩んだ。同じ"何もしていない"状態でも、佳代に言われると罪悪感がやわらいだ。

慶がコーヒーを運んできて、遥の前にそっと置いた。湯気が立ち上る様子を見ていると、心が少しだけ軽くなった気がした。

「立ち止まるのも悪くないわよ」

佳代が窓の外を見ながら言った。

「歩き続けてばかりいると、大切なものを見落としちゃうから」

遥はコーヒーカップを両手で包み込んだ。まだ熱かったが、その温かさが手のひらから心まで伝わってくるようだった。

外では夕方の光が海面にきらめいていた。カモメが一羽、店の前を横切って飛んでいく。遥は深く息を吸った。潮の匂いと、コーヒーの香りと、どこか懐かしい午後の匂い。

「ありがとうございます」

遥が小さく言うと、佳代は首をかしげた。

「何が?」

「なんとなく、です」

遥は初めて、本当の笑顔を浮かべることができた。

第2章:過去の場所、今の場所

翌日の土曜日、遥は再びカモメ堂を訪れた。平日と違って店内には数組の客がいたが、カウンターの端の席は空いていた。慶は相変わらず静かに作業をしていて、遥を見つけると軽く頷いた。

「今日もブレンド?」

「はい」

遥がコーヒーを待っていると、慶が棚の奥から古い本を数冊取り出した。

「余ってる本なんだけど、よかったら持ってく?」

慶は遥の前に本を並べた。料理本、小説、そして一冊の児童書。表紙が少し色褪せた『ふしぎな図書館』という本だった。

「この本、懐かしいです」

遥は児童書を手に取った。

「小学生の時、何度も読み返しました」

「持ってって。どうせ置く場所もないし」

慶の言葉に甘えて、遥は三冊とも受け取った。特に児童書を見ていると、子供の頃の記憶がよみがえってきた。

家に帰ると、遥は『ふしぎな図書館』を開いた。主人公は本が大好きな女の子で、図書館で働く司書さんに憧れる物語だった。ページをめくりながら、遥は自分も同じような夢を持っていたことを思い出した。

「将来は図書館の先生になりたい」

小学校の卒業文集に、確かにそう書いた。でもいつの間にか、その夢は心の奥にしまい込んでしまっていた。大学では経済学を学び、就職してからは事務仕事ばかり。本に囲まれた仕事をしたいという気持ちは、いつしか忘れていた。

翌日の日曜日、遥は久しぶりに町の図書館を訪れた。子供の頃によく通った場所は、今も変わらず静かで、本の匂いがした。児童書コーナーを歩いていると、掲示板にボランティア募集のチラシが貼ってあるのが目に入った。

「読み聞かせボランティア募集」
「図書整理ボランティア募集」
「初心者歓迎・研修あり」

遥は足を止めた。胸の奥で何かがざわめいているのを感じた。でも、一歩踏み出すことができずに、その場に立ち尽くしていた。

「私に務まるだろうか」
「また途中で投げ出してしまうのではないか」

さまざまな不安が頭をよぎった。結局、その日は何もせずに図書館を後にした。

夕方、カモメ堂に寄ると、佳代がいつもの席に座っていた。

「あら、今日は図書館にいたでしょう」

佳代の言葉に、遥は驚いた。

「どうしてわかるんですか?」

「本の匂いがするもの。それに、なんだか考え事をしてる顔してる」

佳代は微笑んだ。

「何か見つかった?」

遥は少し迷ってから、ボランティアのことを話した。佳代は熱心に聞いていたが、遥が不安を口にすると、優しく首を振った。

「完璧じゃなくていいのよ。私だって保育士になったばかりの頃は、子供たちが泣いてばかりで、毎日が不安だった」

佳代は遠くを見るような目をした。

「でも、それでも子供たちは私を必要としてくれたの。上手じゃなくても、一生懸命やってる人を、みんな見ていてくれるのよ」

遥は佳代の言葉を心の中で繰り返した。上手じゃなくても、一生懸命やる。それだけで十分なのかもしれない。

第3章:風が吹いた日

月曜日の午後、急に激しい雨が降り始めた。遥は雨宿りのつもりでカモメ堂に入ったが、雨は一時間ほどで止んだ。雨上がりの空は驚くほど澄んでいて、海の向こうまで見渡すことができた。

「きれいね」

佳代が窓の外を見ながら言った。今日の佳代は、いつもより静かだった。

「遥ちゃん、立ち止まったっていいのよ」

佳代は遥を見つめて言った。

「人生って、ずっと歩き続けるものじゃないと思うの。疲れたら休んで、迷ったら考えて。歩きたくなったときに歩けばいい」

遥は佳代の言葉を聞きながら、外の景色を見つめていた。雨に洗われた街は、いつもより色鮮やかに見えた。

「私、今まで誰かの期待に応えることばかり考えていた気がします」

遥は初めて、自分の本当の気持ちを声に出した。

「親の期待、会社の期待、社会の期待。でも、自分が本当に何をしたいのか、わからなくなってしまって」

佳代は静かに頷いた。

「それでいいのよ。わからないときは、わからないって認めることから始まるもの」

雨上がりの風が店の中に吹き込んできた。海の匂いがして、どこか懐かしい気持ちになった。

「私、外に出てみます」

遥は立ち上がった。

「ちょっと風に当たってきます」

店の外に出ると、空気が澄んでいた。深く息を吸うと、肺の奥まで新鮮な空気が入ってきた。海から吹く風が頬をなで、髪をやさしく揺らした。

遥は小さく深呼吸した。そして、初めて自分自身に向かって言った。

「きっと大丈夫だ」

その言葉は風に乗って海の方へ飛んでいった。不思議と、本当にそんな気がした。

その夜、遥は図書館に電話をかけた。手が震えていたが、受話器を取った女性の声はとても普通で親しみやすかった。

「ボランティアの件でお電話いただき、ありがとうございます。まずは来週の説明会にいらしてください」

電話を切った後、遥は思わず笑ってしまった。こんなに簡単なことだったのかと。大きな一歩のように思えていたことが、実はとても小さな、当たり前の一歩だった。

遥は窓を開けて、夜の海風を感じた。潮の匂いと一緒に、新しい自分の匂いがしたような気がした。

第4章:はじまりのカレンダー

週末の午後、説明会と初回の研修を終えた遥は、軽やかな足取りでカモメ堂に向かった。ボランティアの研修は思っていたより楽しく、同じように本好きの人たちと出会えたことが嬉しかった。

店に入ると、慶がカウンターの後ろで小さな黒板に何かを書いているのが見えた。近づいてみると、常連客の近況を書いた「今週のみなさん」という欄があり、そこに新しい文字が加わっていた。

「遥さん:図書館ボランティアはじめました」

遥は驚いて慶を見た。

「どうして知ってるんですか?」

「佳代さんから聞いた。よかったね」

慶は相変わらず多くを語らなかったが、その短い言葉に温かさがあった。

「ありがとうございます」

遥はカウンターに座った。いつものブレンドコーヒーを注文すると、慶は黙って作り始めた。その後ろ姿を見ながら、この人もきっと何か大きな決断をして、今ここにいるのだろうと思った。

「遥ちゃん!」

佳代の声がして振り返ると、いつもの明るい笑顔があった。

「今日のあなた、ちょっと強そうね」

佳代は遥の隣に座った。

「そうですか?」

「うん。背筋がまっすぐになってる」

言われてみれば、確かに以前より姿勢が良くなっている気がした。何かに向かって歩き始めた実感があった。

慶がコーヒーを運んできた。湯気が立ち上る様子を見ていると、これまでの一週間のことが思い出された。立ち止まっていた時間、不安だった気持ち、そして小さな一歩を踏み出した瞬間。

海風がドアの隙間から吹き込んできた。潮の匂いと、コーヒーの香りと、新しい季節の匂い。すべてが混ざり合って、遥の心を軽やかにした。

「来週から、子供たちに読み聞かせをするんです」

遥は佳代に話した。

「初めてだから緊張しますけど、楽しみなんです」

「素敵ね。きっと子供たちも喜ぶわよ」

佳代の目が、やさしく笑っていた。

「あの時、本をくれてありがとうございました」

遥は慶に向かって言った。

「あの児童書を読み返したから、昔の夢を思い出せました」

慶は小さく頷いた。

「役に立ったなら良かった」

遥はコーヒーを一口飲んだ。苦味の向こうに、ほのかな甘さがあった。窓の外では夕方の光が海を照らしていて、カモメが数羽、空を舞っていた。

「うん」

遥はつぶやいた。

「きっと、大丈夫だと思う」

その言葉には確信はなかった。でも、たしかな希望があった。完璧でなくても、不安があっても、それでも前に進もうとする気持ち。それが一番大切なことなのかもしれない。

佳代が温かく微笑み、慶が静かに頷いた。そして遥は、初めて本当の意味で、自分の人生を歩き始めたような気がした。

海風が頬を撫でて、新しい季節の匂いを運んできた。遥は深く息を吸った。今度は迷いがなかった。

きっと大丈夫だ。

そう思える日が来たことが、何より嬉しかった。

おわり


最後まで読んで頂いて有難うございました。

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