見知らぬおじさんと、日本一周。
エアコンは壊れ、道に迷って、ちょっと泣いた。
でも、たぶん今が、青春だった。
第一章:泡立つビール、沈む声
東京の路地裏にある、名前もさして覚えていない居酒屋。カウンター席だけの小さな店で、小田は一人でビールを飲んでいた。
「ビールひとつ」
隣に腰掛けた男は、小田より少し大柄で、短く刈り上げた髪が生え際で微妙な戦いを繰り広げていた。ジャケットを脱ぐと、その下のシャツには薄いシミがあった。仕事帰りだろう。
「はい、どうぞ」
店主がビールを注ぐと、男はグラスを軽く上げてから一気に半分を飲み干した。
「ふぅっ」
その息は、どこか日々を生きる男の疲れを含んだものだった。小田は黙って自分のビールを少しずつ飲んでいた。
「いや〜、やっと一段落したよ」
こちらに話しかけているわけでもなく、独り言のような言葉に、小田は少しだけ顔を向けた。お互い四十代半ば、髪は薄くなり始め、目尻には確かに刻まれた時間が見える。しかし、どこか年齢を超えて若々しさを残している顔立ちだった。
「何か一段落したんですか?」
小田は、珍しく自分から話しかけた。
「ああ、息子の大学の手続きがね」
「お子さん、大学生になるんですか」
「ああ、まぁ…なんとかね」
男は苦笑いを浮かべた。
「おたくも?」
「いえ、うちは娘が二年目です」
「へぇ〜」
会話が自然に続いた。藤本と名乗った男は、個人で技術関係の仕事をしていると言った。小田は自分が美容院を経営していることを話した。子どもの話、仕事の話、そして次第に過去の話へと流れていく。二人のビールはいつの間にか三杯目を数えていた。
「そういえば」と藤本は言った。「昔からずっと日本一周してみたいと思ってたんだよな」
「日本一周?車で?」
「そう。でもなかなか時間が取れなくてさ」
「僕も考えたことあります。でも車持ってないから」
藤本は少し目を輝かせた。
「俺、仕事用のミニバン持ってるよ。そんな大したことはないけど」
「いいなぁ」
「小田さんって美容院…休み取れるの?」
「今は大丈夫ですよ。スタッフも育ってきたし」
「じゃあさ」
藤本は冗談めかして言った。
「行こうよ。日本一周」
小田は笑った。「冗談でしょう」
藤本も笑った。「冗談だよ…」
お互いの笑顔には、どこか同じ諦めが混じっていた。大人になった子を持つ親として、夢を追いかけるには遅すぎる年齢だという諦め。でも、そこには同時に、何かを始めるには決して遅くないという小さな希望も混じっていた。
「でも」と藤本は言った。「マジでやったらどうなるかな」
「えっ?」
「だって、考えてみてよ。子どもたちはもう大きいし」
藤本はスマホを取り出し、GoogleMapを開いた。
「大まかに見ると、一周するのに…何日くらいかかるかな」
「無理でしょう」
「無理って言うな。計算してみようよ」
「いや、でも…」
小田は首を振りながらも、藤本の画面を覗き込んでいた。
「例えばさ、東京から時計回りで…」
二人は、ふざけ半分で日本地図を指でなぞった。九州まで下りて、日本海側を上り、北海道を回って太平洋側を下る。
「時間かければ、一ヶ月もあれば余裕だな」
「そんなに休めないですよ」
「じゃあ一カ月弱!」
「それは絶対無理です」
「三週間!」
小田はそれなりに悩んでから頭を掻いた。「まあ…期間全然減ってないじゃないですか。」
「おっ、そこ譲ったね?」
二人は顔を見合わせて笑った。
「でも冗談ですよね?」
「まあね」
藤本はビールを飲み干した。
「でも、面白そうじゃない?今日初めて会ったおじさんが二人で、日本一周って」
小田は考え込むように口元に手を当てた。
「確かに…」
「だめ?」
「いえ…」
「じゃあ、メールアドレス交換しておこうよ。もしやるなら連絡取れるように」
「はは、そうですね」
お互いのスマホを取り出し、アドレスを交換した。藤本篤史。小田啓介。年齢も同じ四十八歳。
「それじゃ」と藤本は言った。「また連絡するよ」
「はい」
小田は、これで終わりだと思っていた。偶然隣り合った男との、酔いに任せた会話。きっと朝になれば忘れているだろう。
しかし翌朝、スマホに通知が入った。
「考えたら、マジでやれそうな気がしてきた。どう?」
小田は呆れながらも、微笑んだ。
第二章:準備は、おじさん流
「あなた、正気?」
妻の美香は、夫が突然持ち出した「日本一周」の話に眉をひそめた。
「まあ聞いてよ」
小田は自分でも信じられない気持ちで、昨夜のことを説明した。偶然隣り合った男性と意気投合し、冗談から始まった日本一周の計画が少しずつ現実味を帯びていることを。
「だってあなた、車も持ってないじゃない」
「相手の藤本さんが持ってるんだよ。仕事用のミニバンを使うって」
「見知らぬ人と?」
「会ってみたら分かるよ。変な人じゃないから」
美香は頭を抱えた。「まあでも…子どもたちはもう手がかからないし、店もスタッフに任せられるなら…」
「えっ?」
「ダメだと思ってた?」
「いや、そりゃ…」
美香は少し笑った。
「あなたが『行きたい』って言うことが珍しいから。いつも慎重派なのに」
「僕だって…たまには冒険したいよ」
その言葉に、自分でも驚いた。
翌日、藤本から連絡があった。
「家族に話した?」
「ええ。意外と反対されなかったです」
「俺もだ。『行ってきな』って。呆れてたけどね」
「でも本当にやるんですか?」
「やろうよ。いつか来るかもしれない『そのうち』より、今あるチャンスの方がいいじゃん」
二人はカフェで待ち合わせた。お互いに持ってきた地図を広げる。
「まず、予算をどうするか」と小田。計画の細部を詰めていく。
「保険はどうする?」
「道中の宿は?」
「食事は?」
「レンタカーとかの方がいいんじゃない?」
「いや、それだと高くつく。俺の車で十分」
藤本の車は決して新しくはなく、仕事で使っている15年落ちのミニバン。でも整備はしっかりしていると言う。
「3週間…」
小田は手帳に旅程を書き込んでいった。
「これくらいのペースなら、無理なく回れるよね」
「うん、でも無理はしないこと」
「そうだな。それが一つ目のルールだ」と藤本。「無理をしない」
「二つ目は?」
「怒らない」
小田は笑った。「それは難しそう」
「まあ、何かあったら言い合うだろうけど、根に持たないってことで」
「分かりました。で、三つ目は?」
藤本は微笑んだ。「すべて笑い話にする」
「ん?」
「この旅で起きることは、全部笑い話にしようってこと。失敗も、トラブルも、全部」
小田は頷いた。「それ、いいですね」
「だろ?これでオッケーだな」
二人は改めて、グーグルマップを開いた。半信半疑ながらも、日本一周の計画は現実のものになりつつあった。
「ねえ、これって『おじさんの冒険』だよね」
「おっさんの旅か…」
「いや、もっと良い言い方があるでしょ」
考えた末、小田が言った。「『おじさん旅』…略して『OJT』とか?」
「それ、いいな!」藤本は膝を叩いて笑った。
「冗談ですよ」
「いや、マジでいい。『OJT』。それでいこう」
こうして、二人のおじさんの旅は、正式に始まることになった。
第三章:エアコン壊れた、静岡の午後
出発の朝、藤本の車が小田の家に到着した。
「これが噂の仕事車か」
小田は白いミニバンを見て言った。十五年落ちとはいえ、意外とキレイ。そして中は予想以上に清潔だった。
「掃除したの?」
「ああ、一応ね」藤本は照れたように答えた。
荷物を積み込み、妻に見送られて出発する。奇妙な高揚感が二人を包んでいた。
「マジでやるんだな、これ」
「後悔してます?」
「いや」藤本は微笑んだ。「むしろ、ワクワクしてる」
東京を出て、東名高速に乗る。初日の目的地は静岡。そこから九州へ向かう予定だ。
「エアコン、効かなすぎじゃない?」
小田が言うと、藤本はエアコンの温度を調整しようとした。しかし、ボタンを押してもファンの音が変わらない。
「あれ?」
さらにいくつかのボタンを試すが、反応がない。
「壊れた?」
「いや、さっきまで…」
藤本は困惑した表情を浮かべた。
「ちょっと、サービスエリアで見てみよう」
次のサービスエリアで停車し、藤本は車のボンネットを開けた。小田はコンビニで飲み物を買ってきた。
「どう?」
「だめだ。完全に壊れてる」
「マジで?」
「これ、修理するとなると…」
藤本は額を拭った。「時間かかるな」
「旅の初日から」
「そうなんだよ…」
二人は顔を見合わせた。
「笑い話にしようって約束したよね?」小田が言った。
藤本は少し驚いたような表情をした後、笑い出した。
「そうだった。すべて笑い話だ」
「エアコンなしで行きますか?」
「選択肢あるかな?」
こうして二人は、真夏の日本一周を、エアコンなしで始めることになった。
静岡に着いたのは午後三時過ぎ。車内は蒸し暑く、二人とも汗だくだった。
「どこか寄りますか?」
「まずは涼しいところがいい」
道の駅に立ち寄り、冷えた飲み物で喉を潤した。
「こんな感じでずっと行くのか…」小田はため息をついた。
「まあ、北海道に着く頃には涼しくなってるさ」
「たどり着けばね」
テーブルの上には、冷やしトマトが置かれていた。二人で分け合って食べる。
「ところでさ」と藤本。「小田さんって、若い頃どんな夢持ってた?」
「え?」
「急に聞くけど」
小田は少し考えてから答えた。
「実は…音楽やりたかったんだ」
「へえ!バンド?」
「うん。大学時代にギターやってて」
「今もやるの?」
「いや、全然」小田は首を振った。「美容師になって、それから店持って…気がついたらこの年齢」
「分かるよ」
藤本も何か言いかけて、やめた。
「あなたは?」と小田。
「俺か…」藤本は遠くを見るように目を細めた。「大きな会社で働きたかったかな。でも、怪我したり、家族の事情があったりで…」
「今の仕事は?」
「悪くないよ。自由だし、食べていける」
小田は頷いた。
「結局…今さらだよね」小田が言った。
「でも」と藤本。「今さらでも、やってみたいことはあるんだ」
「日本一周とか?」
「そう。小さいけど、こういうこと」
静岡の午後は、二人のおじさんに過去と現在を考えさせた。そして不思議と、未来についても。
第四章:ケンカ未遂と手作りステッカー
「だから、ここで曲がればよかったんだって」
「いや、その先だよ」
「地図見てよ」
「見てるよ!」
車内の空気が少し重くなった。鹿児島に向かう途中、ナビの操作ミスで遠回りすることになった。
「そもそもナビの設定が…」
「ごめん、俺が悪かった」
藤本が急に謝ったので、小田は言葉に詰まった。
「いや…こっちこそ」
車は無言のまま走り続けた。しばらくして、藤本が口を開いた。
「お腹すいたな」
「うん…」
「何か食べたい?」
「何でもいいよ」
また無言。そして、小田が思い切って言った。
「すみません、さっきは…」
「いや、約束したじゃん。怒らないって」
「でも…」
「笑い話にしよう」藤本は微笑んだ。「『おじさんたち、ナビが読めずに迷走』って」
小田も少し笑った。「長い旅だし、これからもあるかもね」
「あるだろうね。だからこそ、約束が大事なんだ」
その夜、二人は小さな食堂で夕食を取った。
「この店、美味しいね」
「うん、地元の人しか知らなさそう」
「こういう発見があるから、旅はいいよね」
「そうですね」
和解した二人は、食後にコンビニに立ち寄った。
「あ、ここステッカー作れるんだ」
藤本がプリント機を指さした。
「ステッカー?」
「ほら、車に貼るやつ」
「何を作るの?」
藤本はニヤリと笑った。「『OJT』」
「え?」
「『おじさん旅』の略だよ」
「冗談で言ったのに…」
「いいじゃん、記念に」
二人は機械の前に立ち、文字をデザインし始めた。「O.J.T.」と入力し、下に小さく「おじさん旅」と書いた。
「フォントは?」
「これかな」
「色は?」
「シンプルに黒で」
「背景は?」
「白じゃダサいかな…」
「青とか?」
「それいいね」
完成したステッカーは、思ったより小さかったが、確かに「O.J.T.」の文字が印刷されていた。
「これ、どこに貼る?」
「車のバンパーとか?」
「恥ずかしくない?」
「恥ずかしいけど、それがいいんじゃないの?」
藤本は笑った。「この旅、ちょっと恥ずかしいことしようよ。普段できないことを」
小田は考え込んだ。「四十八歳で恥ずかしいこと、か…」
「そう。それが『おじさんの青春』」
二人は車に戻り、バンパーにステッカーを貼った。小さすぎて、近づかないと読めない。
「これで正式に『OJT』だね」
「はい、正式に」
小田は思った。この瞬間、自分たちは何かを始めたんだ。単なる旅行ではなく、新しい何かを。
第五章:沈む夕日と"あの頃の話"
能登半島の小さな港町。防波堤に腰掛けた二人は、缶ビールを片手に夕日を見ていた。
「きれいだな」
「うん…」
海に沈む太陽が、オレンジ色の光を水面に落としている。
「なんか、こういう時間って…」
「何?」
「人生考えちゃうよね」
小田は微笑んだ。「中年の特権かな」
藤本はビールを一口飲んだ。「ところでさ、さっき言ってた音楽の話…」
「ああ…」
「もう少し聞かせてよ」
小田は遠い目をした。
「大学の時にバンドやってて、それなりに…まあ、下手じゃなかったと思う」
「何のパート?」
「ギターとボーカル」
「へえ!歌うんだ」
「歌ってた、の間違いだよ」
「今は?」
「もう何年も触ってない」
藤本は不思議そうな顔をした。「なんで?」
「就職して、それから美容師になって…」
「美容師はどうして?」
「実は、音楽の道を諦めた時、何か形に残る仕事がしたくて。人の見た目を変えるって、目に見えるじゃない?」
藤本は頷いた。
「そういえば」と小田。「さっき言ってた怪我の話…」
藤本は少し表情を曇らせた。「ああ…」
「無理なら言わなくていいよ」
「いや…」藤本はビールを飲み干した。「大学時代にバイクでね、事故った」
「バイク事故?」
「そう。脚を怪我して…一時は歩けなくなるかもって」
「そんな大怪我だったの?」
「結局は回復したけど、就職活動の時期に重なっちゃって。当時付き合ってた彼女がずっと看病してくれて…今の妻なんだけど」
「そうなんだ…」
「彼女がいなきゃ、違う人生だったと思う」
二人は静かに次の缶ビールを開けた。
「なんか全部、"これじゃない方"の道を来ちゃったな」藤本がポツリと言った。
「そう思う?」
「いや…そうでもないのかな」
夕日が水平線に触れ、ゆっくりと沈んでいく。その光が二人の顔を赤く染めた。
「でも不思議だよね」と小田。「もし音楽を続けてたら、今頃何してたんだろう」
「売れてたかもよ?」
「いや、それはないない」
「分からないじゃん」
小田は笑った。「まあ、そうだけど」
「俺も会社員になってたら、今頃…」
「出世してた?」
「それはないない」藤本も笑った。
「でも…」と小田。「今の人生、悪くないよね」
「悪くない」
「子どももいるし、仕事もなんとかやってるし」
「そうだな」
夕日が完全に沈み、辺りが青い闇に包まれ始めた。
「不思議なもんだな」と藤本。「こうやって夕日を見てると、全部正解に思えてくる」
「そうだね…」
「あ、コンビニ寄ってかない?」
急に日常的な話題に戻った藤本に、小田は笑った。
「うん、寄ろう」
二人は立ち上がり、車に戻った。能登の夜は静かに更けていった。
第六章:定食屋のカツ丼と、いない子ども
青森の小さな港町。二人は地元の人に教えてもらった定食屋に入った。
「ここのカツ丼が美味しいらしいよ」
「へえ、楽しみだな」
店内は狭いが、清潔感があった。カウンター席と四人がけのテーブルが三つ。その一つには、地元の家族連れが座っていた。両親と四歳くらいの男の子。
「いらっしゃい」おかみさんが二人を出迎えた。「お二人さん?」
「はい」
「こちらへどうぞ」
カウンターに案内され、二人はカツ丼を注文した。
「わあい!とんかつ!」
隣のテーブルの男の子が喜ぶ声が聞こえた。小田は思わず微笑んだ。
「かわいいね」
「うん…」藤本も微笑んだが、どこか遠い目をしていた。
「どうしたの?」
「いや…」
男の子がトンカツを上手に箸で持ち上げようとして、床に落としてしまった。
「あっ…」
母親が慌てて拭き始める。
「大丈夫ですよ」と小田。「うちの子も小さい頃、よくこぼしてました」
「すみません…」と母親。
「いえいえ」
小田の言葉に、男の子は恥ずかしそうに微笑んだ。
「いくつ?」と小田。
「よんさい」
「四歳か、かわいいねえ」
男の子は嬉しそうに頷いた。
カツ丼が運ばれてきて、二人は食べ始めた。美味しかったが、藤本は何か考え事をしているようだった。
「どうしたの?さっきから」
「いや…なんでもない」
食事を終え、会計を済ませて外に出た二人。
「ちょっとトイレ行ってくる」と藤本。
「うん、俺は外で待ってるよ」
小田が外で待っていると、先ほどの家族も出てきた。母親が焦った表情で周りを見回している。
「どうかしましたか?」
「息子が…トイレに行くって言ったまま戻ってこなくて」
「えっ?」
父親も慌てた様子で店の中から出てきた。
「見つからない…」
「いつからいないんですか?」
「食事の後、十分くらい前…」
小田は周囲を見回した。小さな商店街のような通りだが、人通りは少ない。
「探しましょう。何色の服を着てましたっけ?」
「青いTシャツに、黒いズボン…」
小田はすぐに藤本に連絡した。
「藤本さん、大変なことになってる」
「何?」
状況を説明すると、藤本はすぐに戻ってきた。
「どこを探した?」
「店の中と、この通りの両側…」
「裏手は?」
四人で分担して探し始めた。十分、二十分…不安が募る。
「警察に連絡した方がいいですね」と小田。
母親はうなずいた。「主人が今…」
さらに三十分が過ぎた。警察も到着し、詳しい状況を聞き始めた。
一時間が経過した頃、藤本が定食屋の裏手にある倉庫を再度確認しに行った。
「もう一度見てみます」
小さな隙間があり、子どもなら入れそうな場所。藤本はしゃがんで覗き込んだ。
「ねえ、そこにいる?」
返事はない。でも、かすかにすすり泣く音が聞こえる。
「大丈夫だよ。出ておいで」
まだ返事がない。
「怖くない。みんな心配してるよ」
藤本は優しく声をかけ続けた。そして、ようやく小さな声が。
「こわい…」
「大丈夫。ここにいるよ」
藤本は手を差し伸べた。「掴まって」
少しずつ、青いTシャツの袖が見え、そして男の子の顔が現れた。
「よく出てきたね。偉い」
男の子を抱き上げた瞬間、藤本の目から涙があふれ出た。
「よかった…よかった…」
男の子を両親の元に連れていくと、母親は泣きながら抱きしめた。
「ありがとうございます!」
「どうして出てこなかったの?」と父親。
「みんなが、おこってるような気がした…」
男の子の言葉に、藤本はさらに涙を流した。大人たちの焦りが、子どもには怒りに見えたのだろう。
警察官も安堵の表情を浮かべ、必要な確認を終えると家族を見送った。
「藤本さん…」
小田は、まだ涙を流す藤本の肩に手を置いた。
「どうしたの?」
「昔…ウチのも…」
声が詰まる。
「息子さん?」
藤本はうなずいた。
「五歳の時、スーパーで。一瞬目を離した隙に…」
「迷子になったの?」
「うん。二時間見つからなくて…」
「でも、見つかったんでしょ?」
「ああ…」藤本は顔を上げた。「その時、俺が泣いたんだ。息子の前で」
「そっか…」
「男親が泣くなんて…って思われるかもしれないけど」
「いいんじゃない?」と小田。「それが本当の気持ちなら」
二人はしばらくそこに立っていた。夜の青森の空気が、少し冷たく感じた。
第七章:写真を撮るおじさん
北海道・富良野。旅の終点近くまで来ていた。
「ここからだと、あと三日で東京だね」
「うん…」
「早かったな」
「そうですね」
富良野の、花畑が一面に広がる景色を前に、二人は立っていた。小田はスマホを取り出した。
「写真撮ります?」
「ああ、そうだな」
おじさん二人が並んで自撮りをする。曇り空だったが、花畑の色鮮やかさは十分に伝わってきた。
「これ、妻に送っておこう」
「うん、こっちも」
スマホを操作する二人。その後、藤本は少し離れた場所の風景を撮り始めた。
「なに撮ってるの?」
「なんとなく…」
小田も同じように、何気ない風景を撮り始めた。花のアップ、道路、雲、通りがかった犬...
「何のために撮ってるんだろうね」と小田。「誰にも見せないかもしれないのに」
「記念だよ」と藤本。「いつか見返すかもしれないし」
「でも覚えてるよね、こういう景色」
「そりゃそうだけど…」
「不思議だな」と小田。「写真より記憶の方が大事なのに、写真を撮っちゃう」
藤本は笑った。「おじさんの性…?」
「かもね」
二人は歩き始めた。
「ねえ」と藤本。「来年も、どこか行く?」
「え?」
「また、どこか」
小田は驚いた顔をした。「まだ帰ってないのに?」
「いや、だって楽しいじゃん」
「そりゃそうだけど…」
「車が先に限界来るかもな」と藤本。冗談めかして言った。
「エアコンはもう限界来てますね」
「あはは、そうだった」
二人は笑いながら歩き続けた。小さな喫茶店を見つけ、中に入る。
「コーヒーください」
「二つで」
窓際の席に座り、外の景色を眺めながらコーヒーを待つ。
「なんか」と小田。
「何?」
「修学旅行の『あと』みたいな気分」
「ああ…」藤本は頷いた。「分かる」
「なんでだろう」
「たぶん、『終わり』が見えてきたからじゃない?」
「そうかも」
「でも修学旅行って、終わった後も友達は友達だったじゃん」
「そりゃそうだけど」
「俺たちも、そうだよ」
その言葉に、小田は少し驚いた。そういえば、この三週間で藤本とは確かに友達になっていた。それも、長年の友人のような気安さを感じる関係に。
「そうだね」
コーヒーが運ばれてきた。二人は黙ってそれを飲んだ。
「写真、撮ろうか」
「え?ここで?」
「うん。二人で」
小田は店員に頼み、二人でテーブルに向かい合って座った写真を撮ってもらった。写真を見ると、二人とも少し疲れた顔をしていたが、どこか満足そうでもあった。
「いい写真だね」
「うん…」
「この旅、記録より記憶だな」
「その通りです」
第八章:またな
東京が近づいていた。いよいよ旅の終わりが見えてきた。
「あと一時間くらいかな」
「うん…」
「早かったな、三週間」
「そうですね」
二人は黙って車窓の景色を見ていた。
「ねえ」と小田。
「何?」
「結局、何が変わった?」
「どういう意味?」
「この旅で」
藤本は考え込んだ。「何も変わらねえ。でも、それでいい」
「そう思う?」
「うん。変える必要なんてなかったんだよ」
小田は頷いた。
「いやでも」と藤本。「少しは変わったかな」
「何が?」
「たとえば…妻との関係とか」
「へえ?」
「この三週間、毎日電話してたじゃん。これまでそんなことなかった」
「確かに…」
「あと、久しぶりに『やりたい』って気持ちで何かをやり遂げた」
「それは確かに変わったね」
東京の外郭環状線に入った。もうすぐ終点だ。
「これ全部"前フリ"ってことにしようぜ」と藤本が突然言った。
「前フリ?」
「うん。これからの人生の」
「おじさんの青春の前フリ、か」
「そう。まだまだこれからだよ」
小田は笑った。「それ、いいですね」
「だろ?」
首都高に入り、小田の家が近づいてきた。
「で、来年はどこ行く?」
「まだ決めてないよ」
「考えとこう」
「はい」
家の前に車が停まった。小田は荷物を降ろした。
「じゃあ」
「うん」
二人は向き合った。何を言えばいいのか、少し戸惑う。
「これで旅は終わりだけど」と藤本。
「うん…」
「でも、旅だけじゃないよね」
「そうだね」
「またな、小田」
藤本が手を差し出した。小田はそれを握り、小さく笑った。
「またな」
そして家の中に入った。妻が出迎えてくれた。
「おかえり。どうだった?」
「うん…いろいろあった」
「楽しかった?」
「うん、楽しかった」
「良かったね」
その夜、小田は旅の写真を整理していた。富良野の花畑、能登の夕日、静岡の道の駅…そして藤本との自撮り写真。
「何見てるの?」と妻。
「旅の写真」
「へえ、見せて」
小田はスマホを渡した。
「この人が藤本さん?」
「うん」
「楽しそうね」
「そうかな」
「うん。久しぶりに見る表情だもの」
その言葉に、小田は少し驚いた。自分でも気づかなかった変化を、妻は感じ取っていたのだ。
翌日、小田はまたあの居酒屋に行った。特に待ち合わせをしたわけではない。でも、なんとなく行きたくなった。
店に入ると、カウンター席に見慣れた後ろ姿があった。
「よう」と藤本。
「あれ?」と小田。「何で?」
「なんとなく」
「俺もなんとなく」
二人は顔を見合わせて笑った。
日常が戻ってきた。でも、何かが確かに変わっていた。それは目に見えないけれど、確かに存在する変化。
旅が終わった時の「またな」という言葉の距離感。
それは近すぎず、遠すぎず。おじさんたちにとって、ちょうどいい距離だった。
それが心地よかった。
おわり
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