こちらの内容は、とても重く、暗いテーマを含んでいます。
もし途中で読むのがつらくなった場合は、無理をせず、途中で中止してください。
月曜日の夜、家の灯りは暖かく見えるのに、そこに帰る足取りは重かった。
愛する家族のために積み上げてきた努力が、たった一言で崩れ去ることを、僕はまだ知らなかった。
これは、誰も死ななかった殺人の話である。
序章:月曜日の夜、家の灯りの下で
電車のドアが開く音が、平日の夜十時過ぎを告げている。
僕は人波に押し流されながら、改札を抜けた。月曜日の疲れが既に肩にのしかかっている。今日はリモートワークではなく出社日だったから、満員電車に揺られての往復だった。
駅から家までの道のりを歩きながら、僕は無意識に携帯を確認する。妻からのメッセージはない。娘の写真もない。いつものことだった。
角を曲がると、我が家の灯りが見えた。二階建ての一軒家。住宅ローンは三十五年。頭金を貯めるために、僕は二十代のほとんどを仕事に捧げた。結婚してからも、昇進のために資格を取り、英語を勉強し、休日も自己啓発に時間を費やした。
年収は一千万円を超えた。
その数字を口にするとき、僕はまだ誇らしい気持ちになれた。同世代の中では恵まれている方だろう。でも、なぜだろう。家に帰るたびに、胸の奥で何かが軋む音がする。
玄関の鍵を開けると、いつものように家は静まり返っていた。
「ただいま」
僕の声だけが玄関に響く。返事はない。
靴を揃えて脱ぎ、リビングに向かう。妻の美咲はソファに座り、スマートフォンの画面を見つめていた。画面からは薄いブルーの光が彼女の顔を照らしている。
「お疲れさま」
僕が声をかけると、美咲は視線を上げずに「お疲れさま」と返した。機械的な返答。いつものことだった。
リビングは完璧に片付いている。掃除機の跡がカーペットに残り、テーブルには塵一つない。洗濯物も丁寧に畳まれ、クローゼットにしまわれているのが分かる。美咲の家事は完璧だった。掃除と洗濯に関しては、本当に完璧だった。
ただ、キッチンからは何の匂いもしなかった。
僕はネクタイを緩めながら、娘の姿を探した。三歳になったばかりの咲良。最近は「パパ」と呼んでくれるようになった。
その時、二階から泣き声が聞こえてきた。
「咲良、泣いてるね」
僕が言うと、美咲は画面から目を離さずに「うん」とだけ答えた。
泣き声は続いている。だんだん激しくなっている。
「見に行こうか?」
「疲れてる」
美咲の返答は簡潔だった。
僕は階段を上がった。娘の部屋のドアを開けると、咲良がベッドの上で泣いていた。顔は真っ赤で、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっている。
「咲良、どうしたの?」
僕が近づくと、娘は小さな手を伸ばしてきた。抱き上げると、僕のシャツに顔を埋めて泣き続けた。
「パパ…」
その小さな声が、僕の胸を締めつけた。
娘を抱いたまま、僕は階下に降りた。美咲はまだスマートフォンを見ている。
「お腹空いてるのかも」僕が言った。
「さっきおやつあげたから大丈夫」
「でも泣いてるよ」
「子供は泣くもんだから」
美咲の声に感情はなかった。まるで天気予報を読み上げるような、事務的な口調だった。
僕は娘を抱いたまま、キッチンに向かった。冷蔵庫を開ける。中には材料らしきものがいくつか入っているが、何を作ったらいいのか分からない。僕は料理が得意ではなかった。
「ご飯、どうしよう?」
リビングから美咲の声が聞こえた。
「コンビニで何か買ってきて」
僕は娘を抱いたまま、その場に立ち尽くした。
月曜日の夜。家の灯りの下で。僕たち家族は、同じ空間にいるのに、それぞれが孤島にいるような気がした。
第一章:理想の家庭、壊れた現実
結婚したのは五年前だった。
美咲と出会ったのは、会社の取引先のパーティーだった。彼女は受付の仕事をしていて、きちんとした身だしなみと丁寧な言葉遣いが印象的だった。美人というよりは、清潔感のある整った顔立ち。僕は一目で彼女に惹かれた。
交際期間は二年。その間、美咲は僕にとって理想の女性だった。部屋はいつも完璧に整理整頓されていて、待ち合わせの時間は必ず守る。服装も髪型も、いつも完璧だった。
「君と一緒にいると安心する」
僕はよくそう言った。美咲は微笑んで「ありがとう」と答えてくれた。
結婚式は小さなものだった。美咲の両親は離婚していて、母親だけが出席した。美咲の母親は、娘によく似た整った女性だったが、どこか疲れたような表情をしていた。
「美咲は真面目な子ですから、きっと良い奥さんになります」
母親はそう言ったが、その声には何か諦めのようなものが混じっていた気がした。でも、僕は幸せだった。美咲と家庭を築ける喜びで胸がいっぱいだった。
新婚生活は順調だった。
僕は仕事に打ち込み、美咲は家を完璧に管理してくれた。料理は外食かお惣菜が多かったが、僕は気にしなかった。「君は掃除が上手だから」と言うと、美咲は嬉しそうにしていた。
一年後、咲良が生まれた。
妊娠中、美咲は体調管理を完璧にこなした。病院の指示は全て守り、栄養バランスも計算して食事を摂った。出産も予定日通りだった。
「美咲らしいね」
僕はそう言って笑った。
でも、産後から少しずつ、何かが変わり始めた。
美咲は育児に戸惑っていた。赤ん坊の泣き声に対してどう反応したらいいのか分からない様子だった。授乳やおむつ替えは時間通りにきちんとやるのに、咲良が泣いても抱っこしようとしない。
「赤ちゃんは泣くものだから」
美咲はよくそう言った。間違いではないが、何か冷たく感じた。
僕は育児休暇を取ることにした。会社には内緒で、有給休暇を使って一ヶ月間家にいた。その間、美咲の育児を見ていて、僕は違和感を覚えるようになった。
美咲は赤ちゃんに対して愛情がないわけではない。でも、泣いている咲良を見ても表情が変わらない。まるで、感情的な反応の仕方が分からないような様子だった。
「疲れてるんだね」
僕はそう解釈することにした。
育児休暇が終わって仕事に復帰すると、僕は猛烈に働いた。昇進したい気持ちもあったが、何より家族のためにお金を稼がなければという使命感があった。
残業代、ボーナス、昇給。僕は全てを積み重ねていった。
美咲は働きたがらなかった。
「咲良が小さいうちは家にいたい」
最初はそう言っていた。でも、咲良が幼稚園に通うようになっても、美咲は働こうとしなかった。
「幼稚園の送り迎えがあるから」
「家事が忙しいから」
理由は色々あった。僕は反対しなかった。妻には家にいてもらいたいという気持ちもあったし、僕の収入で十分やっていけると思っていた。
でも、家計は徐々に厳しくなっていった。
美咲は金銭感覚がなかった。いや、正確に言うと、お金の計算ができなかった。
「今月、食費どのくらい使った?」
僕が聞くと、美咲は曖昧に答える。
「よく分からない。でも普通だと思う」
レシートを確認すると、食費だけで月に二十万円を超えていることもあった。でも、冷蔵庫には大した食材は入っていない。お惣菜やお弁当、コンビニでの買い物が多かった。
「もう少し計画的に買い物できないかな?」
僕が提案すると、美咲は困ったような顔をした。
「計画って、どうやって?」
本当に分からない様子だった。
僕は家計管理を全て引き受けることにした。美咲には食費と日用品費として月に十八万円を渡すことにした。住宅ローン、光熱費、医療費、保険料などは全て僕が管理する。
それでも、美咲は「足りない」と言った。
「何が足りないの?」
「ネイルとか、化粧品とか」
僕は美咲に月五万円のお小遣いを渡していた。それでも足りないと言う。
「もう少し節約できない?」
「私、節約してるよ」
美咲は本気でそう言った。彼女にとっては、それが節約だった。
僕の年収は一千万円を超えていた。客観的に見れば高収入だ。でも、家計は常に綱渡り状態だった。貯金はほとんどできない。娘の将来の教育費を考えると、不安で眠れない夜もあった。
それでも僕は文句を言わなかった。家族のために働くのが男の役目だと思っていたし、美咲が悪意を持ってやっているわけではないと分かっていた。
ただ、僕の心の中で、小さな亀裂が入り始めていた。
どんなに頑張っても、どんなに稼いでも、満足されることがない。僕の努力は認められることがない。
「もっと頑張らなければ」
僕はそう自分に言い聞かせた。
でも、心のどこかで疑問が湧いていた。
僕は何のために働いているのだろう。何のために頑張っているのだろう。
美咲は僕の努力を理解しているのだろうか。
その答えを知るのは、まだ先のことだった。
第二章:すれ違いの積み重ね
在宅勤務の日は、より鮮明に現実が見えた。
火曜日の朝、僕は自宅の書斎でパソコンに向かっていた。九時から重要な会議がある。クライアントとの契約更新の話し合いで、準備に三日かけた資料を使ってプレゼンテーションをする予定だった。
美咲は朝早くから掃除機をかけていた。リビング、廊下、階段。機械的で正確な音が家じゅうに響く。咲良はまだ寝ている時間だった。
九時になった。
僕はヘッドセットを装着し、会議に参加した。画面に同僚たちの顔が映る。
「おはようございます。それでは定刻になりましたので、会議を始めさせていただきます」
僕が話し始めた時、階下から咲良の泣き声が聞こえてきた。
最初は小さな泣き声だった。僕は気にせずプレゼンテーションを続けた。でも、泣き声はだんだん大きくなっていく。
「申し訳ございません、少々お待ちください」
僕はマイクをミュートにした。
美咲の声が聞こえる。
「うるさい」
ただ、それだけだった。
咲良の泣き声は続いている。美咲が何かしている気配はない。
僕はマイクのミュートを解除した。
「申し訳ございません。続けさせていただきます」
でも、泣き声は止まらない。画面の向こうで、同僚たちが困ったような表情をしているのが分かる。
十分後、咲良が僕の書斎のドアを開けて入ってきた。
「パパ…」
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、僕を見上げている。パジャマも濡れている。多分、おむつが汚れているのだろう。
「すみません、急用が入りまして。五分後に再開させていただけますでしょうか」
僕は会議を中断した。
咲良を抱き上げて、おむつを替えた。着替えもさせた。その間、美咲は階下で掃除機をかけ続けていた。
会議に戻ったとき、僕の集中力は完全に途切れていた。
プレゼンテーションは上手くいかなかった。資料の順番を間違え、数字も曖昧になった。クライアントからの質問にも的確に答えられなかった。
「田中さん、大丈夫ですか?」
上司に心配される始末だった。
会議が終わった後、僕は一人で書斎に残った。
咲良は僕の膝の上で、静かに絵本を見ている。美咲は一階で洗濯物を畳んでいる音がする。
なぜ、美咲は咲良が泣いても放置するのだろう。
なぜ、僕が仕事をしていることを理解してくれないのだろう。
僕は美咲に何度も説明した。在宅勤務の日でも、僕は会社にいるのと同じだと。重要な会議があることも伝えた。
でも、美咲は理解していないようだった。
「家にいるんだから、手伝えるでしょ?」
美咲はよくそう言った。
「仕事中だよ」
「でも家にいるじゃない」
この会話を何度繰り返したか分からない。
美咲にとって、家にいる=仕事をしていない、という等式が成り立っているようだった。どんなに説明しても、その認識は変わらなかった。
夜、咲良を寝かしつけた後、僕は美咲と話をした。
「今日の会議、大切だったんだ。咲良が泣いてても、少し待っててもらえないかな」
美咲は洗い物をしながら答えた。
「私だって疲れてるの」
「分かってるよ。でも—」
「あなたは家にいるんだから、子供の面倒見れるでしょ」
また同じことの繰り返しだった。
僕はため息をついた。
「僕だって疲れてるんだ」
「私の方が疲れてる」
美咲の声に感情はなかった。事実を述べているだけのような口調だった。
「君は家事だけでしょ?僕は仕事も育児も家計管理も全部やってる」
そう言った瞬間、僕は後悔した。
美咲の手が止まった。彼女は振り返ると、初めて見るような冷たい目で僕を見た。
「家事だけって何?私は完璧にやってるよ」
「そうだね。ごめん」
僕は謝った。実際、美咲の掃除と洗濯は完璧だった。でも、それだけだった。料理はしない。育児は最低限。家計管理もできない。
でも、それを言ったら喧嘩になる。僕はもう疲れていた。
その夜、僕は眠れなかった。
頭痛がした。肩も凝っていた。食欲もなかった。
最近、こんな症状が続いている。医者に行ったが、「ストレスでしょう」と言われただけだった。
ストレス。
その原因は分かっていた。でも、どうしたらいいのか分からなかった。
家族のために働いているのに、家族に理解されない。
努力すればするほど、孤独感が増していく。
美咲は悪い人ではない。嘘をつくわけでもない。浮気をするわけでもない。家は完璧に綺麗だし、咲良の身の回りの世話もちゃんとしている。
ただ、何かが決定的に違う。
僕の気持ちが伝わらない。僕の努力が理解されない。僕の疲れが認識されない。
まるで、違う言語を話している人と暮らしているような感覚だった。
同じ日本語を使っているのに、意味が通じない。同じ家に住んでいるのに、別世界にいるような気がする。
僕は天井を見つめながら、考えた。
このまま続けていけるのだろうか。
この生活に意味はあるのだろうか。
僕は何のために生きているのだろうか。
答えは見つからなかった。
ただ、心の奥で何かが確実に壊れていく音が聞こえた。
小さな音だったが、確実に響いていた。
第三章:言葉の凶器
それは再び月曜日の夜のことだった。
僕は出社から帰り、いつものように「ただいま」と声をかけた。返事はない。美咲はソファでスマートフォンを見ている。咲良は二階で泣いている。
この光景を見た回数を数えるのはやめた。もう慣れてしまった。
僕はネクタイを緩めながら、階上に向かった。咲良を抱き上げ、なだめてから、一緒に階下に降りた。
「お疲れさま」
僕が言うと、美咲は画面から目を離さずに「お疲れさま」と返した。
リビングには夕食の準備の形跡がない。キッチンからは何の匂いもしない。
「ご飯は?」
僕が聞くと、美咲は初めて顔を上げた。
「疲れてるから、何か買ってきて」
いつもの答えだった。
僕は咲良を抱いたまま、その場に立っていた。疲れていた。今日は特に長い一日だった。新しいプロジェクトの責任者に任命され、夜遅くまで資料を作成していた。
「今日は疲れてるから、簡単でいいから何か作ってもらえないかな」
僕が言うと、美咲は眉をひそめた。
「私だって疲れてるの。ずっと家事してたんだから」
「分かってる。でも僕も—」
「あなたは座ってるだけでしょ?私は一日中動き回ってるの」
美咲の声に苛立ちが混じっていた。
僕は何も言えなかった。確かに美咲は家事をしている。掃除も洗濯も完璧だ。でも、僕だって一日中働いている。家計のために、家族のために。
咲良が僕の胸で小さくすすり泣いた。お腹が空いているのだろう。
「分かった。コンビニで何か買ってくる」
僕がそう言うと、美咲は再びスマートフォンの画面に視線を戻した。
「ありがとう」
機械的な返答だった。
僕は咲良を抱いたまま玄関に向かった。靴を履きながら、咲良に話しかけた。
「パパと一緒にお買い物に行こうか」
咲良は小さくうなずいた。まだ涙の跡が残っている顔で、僕を見上げた。
「パパ」
その一言が、僕の胸を温めた。この子のためなら、何でもできる。そう思った。
コンビニまでの道のり、咲良は僕の肩に頭を預けていた。小さな体温が僕に伝わってくる。
「お弁当、どれがいい?」
コンビニで僕は咲良に聞いた。咲良は唐揚げ弁当を指差した。
「ママの分も買わなきゃね」
僕は美咲の分のお弁当も選んだ。咲良の分にはプリンも買った。
家に帰ると、美咲はまだソファに座っていた。
「買ってきたよ」
僕が袋を渡すと、美咲は中身を確認した。
「私、このお弁当嫌いなんだけど」
「え?」
「油っこいから」
僕は困った。美咲の好みを完璧に把握しているわけではなかった。
「じゃあ、僕が食べるよ。君は何が食べたい?」
「別にいい。食べなくても」
美咲はそう言って、再びスマートフォンを見た。
僕は咲良と一緒にお弁当を食べた。咲良は嬉しそうにプリンを食べていた。その笑顔を見ていると、少し心が軽くなった。
食事が終わった後、僕は咲良をお風呂に入れた。歯磨きもして、パジャマに着替えさせた。絵本を読んで、寝かしつけた。
「おやすみ、咲良」
「おやすみ、パパ」
咲良は僕の頬にキスをしてくれた。
リビングに戻ると、美咲はまだソファにいた。テレビは消えている。部屋は静かだった。
僕は隣に座った。
「今日はありがとう」
僕が言うと、美咲は「何が?」と聞いた。
「家のこと。いつもありがとう」
美咲は少し考えてから答えた。
「当たり前のことしてるだけ」
「そうだね」
僕は微笑んだ。美咲も少し微笑み返してくれた。
しばらく静寂が続いた。
その時、咲良が二階から降りてきた。眠そうな目をこすりながら、美咲のところに歩いてきた。
「ママ」
咲良は美咲の膝の上に登ろうとした。
美咲は咲良を抱き上げた。珍しいことだった。
「どうしたの?」
「のど、かわいた」
咲良が小さな声で言った。
僕が立ち上がろうとした時、美咲が咲良に向かって言った。
「ウチは貧しくてごめんね」
時が止まった。
僕の頭の中で、何かが「バキッ」と音を立てて壊れた。
「え?」
僕は美咲を見た。美咲は咲良を見下ろしながら、もう一度言った。
「ママが働いてないから、ウチは貧しくてごめんね」
咲良は意味が分からない様子で、美咲を見上げていた。
僕の胸が激しく波打った。血の気が引いていくのが分かった。
「なんで、そんなこと言うの?」
僕の声が震えていた。
「だって、あなたがいつもお金がないって言うから」
美咲の声は平坦だった。まるで天気の話をしているようだった。
「僕はそんなこと言ってない」
「言ってるよ。節約しろとか、計画的に買い物しろとか」
「それは—」
「咲良に申し訳ないと思って」
美咲は咲良の頭を撫でながら言った。
「貧しくて、ごめんね」
その瞬間、僕の中で何かが決定的に壊れた。
年収一千万円。住宅ローンはあるが、客観的に見れば裕福な家庭だ。咲良に習い事をさせ、良い服を着せ、おもちゃも買ってあげている。
貧しい?
僕の努力は、美咲にとって「貧しさ」なのか。
僕が命を削って働いて稼いだお金で築いた生活が、「貧しい」のか。
三歳の娘に「貧しくてごめんね」と言うことが、美咲にとっては正当なのか。
僕は立ち上がった。足が震えていた。
「僕は、精一杯やってる」
声が出なかった。喉が詰まったような感覚だった。
美咲は僕を見上げた。その目に、理解の色は全くなかった。
「そうだけど、現実は現実だから」
現実。
僕の努力は、美咲にとって「現実」にならない。
どんなに働いても、どんなに稼いでも、それは「貧しさ」でしかない。
僕は何も言えなくなった。
咲良が美咲の膝の上で「ママ」と言った。
「大丈夫よ。パパが頑張ってくれてるから」
美咲はそう言って咲良を抱きしめた。
でも、さっき「貧しくてごめんね」と言ったのは美咲だった。
矛盾している。でも、美咲にとってはどちらも真実なのだろう。
僕は書斎に向かった。ドアを閉めて、椅子に座った。
机の上には、明日のプレゼンテーション資料が置いてある。来月の目標設定の書類もある。全て、家族のために。咲良の将来のために。
でも、僕の努力は「貧しさ」なのだ。
美咲にとって、僕は「貧しさ」の象徴なのだ。
僕は手で顔を覆った。
涙が出そうだった。でも、泣けなかった。
ただ、心の奥で何かが完全に壊れていく音だけが聞こえていた。
第四章:崩れゆく心
その夜、僕は机に向かったまま、何時間も動けなかった。
時計の針が十一時を過ぎても、十二時を過ぎても、僕はただその場に座っていた。パソコンの電源は入れていない。書類も読んでいない。ただ、虚空を見つめていた。
美咲は咲良を寝かしつけた後、いつものようにソファに戻った。テレビをつけて、バラエティ番組を見ている。笑い声が階下から聞こえてくる。
「貧しくてごめんね」
美咲の言葉が、僕の頭の中で何度も繰り返された。
僕は本当に貧しいのだろうか。
年収一千万円。これは日本人の平均年収の二倍以上だ。統計的に見れば、上位数パーセントに入る。
でも、美咲にとってはそれは「貧しさ」なのだ。
僕の努力は、評価されない。
僕の疲れは、理解されない。
僕の存在は、「貧しさ」の原因なのだ。
午前一時になった。美咲の足音が階段を上がってくる。寝室に向かう音だ。
僕に声をかけることはなかった。いつものことだった。
午前二時。
僕はまだ椅子に座っていた。体が冷えていた。でも、動く気力がなかった。
考えた。
僕は何のために生きているのだろう。
家族のため?でも、家族は僕を必要としていない。いや、お金は必要としているが、僕という人間は必要としていない。
僕がいなくなっても、生命保険が下りれば、美咲と咲良は今より豊かに暮らせるかもしれない。
その時、ふと気づいた。
僕は死ぬことを考えている。
でも、それは積極的な死への願望ではなかった。ただ、存在しないことへの憧れのようなものだった。
消えてしまいたい。
責任からも、重圧からも、この理解されない苦しみからも、全て解放されたい。
午前三時。
僕は書斎から出て、リビングに向かった。美咲が夜食べなかったお弁当が、テーブルの上に残っている。
僕はそれを食べた。冷えていて、味がしなかった。
その時、咲良が階段を降りてきた。
「パパ?」
小さな声で僕を呼んだ。
「どうしたの?」
「のど、かわいた」
僕は咲良に水を持ってきてあげた。咲良は僕の膝の上に座って、ゆっくりと水を飲んだ。
「パパ、お仕事がんばってるね」
咲良が突然そう言った。
僕は驚いた。
「どうして?」
「いつも疲れてるから」
三歳の子供にも、僕の疲れは見えているのだ。
「ありがとう、咲良」
僕は咲良を抱きしめた。この子だけは、僕を理解してくれている。この子だけは、僕を必要としてくれている。
「パパ、だいすき」
咲良が耳元で囁いた。
その瞬間、僕の胸に温かいものが流れた。
生きる理由を見つけた気がした。
咲良を寝室に連れて行き、ベッドに寝かせた。美咲は既に深い眠りについている。
僕は再び書斎に戻った。
でも、もう虚空を見つめることはなかった。咲良の「だいすき」が、僕の心に小さな光を灯していた。
そうだ。僕には咲良がいる。
この子のためなら、何でもできる。
美咲に理解されなくても、評価されなくても、咲良がいる限り僕は頑張れる。
でも、その光は小さく、か細いものだった。
そして、もうすぐそれさえも奪われることを、僕はまだ知らなかった。
翌朝、僕は普段通りに起きて、普段通りに仕事に向かった。
美咲は「おはよう」と言った。僕も「おはよう」と返した。
何事もなかったように、日常が続いていく。
でも、僕の心は確実に変わっていた。何かが壊れていた。修復不可能なほどに。
それでも、僕は歩き続けるしかなかった。
家族のために。
咲良のために。
自分自身の存在意義のために。
最終章:僕を殺した君の言葉
それから一週間が過ぎた。
僕は普段通りに働き、普段通りに家に帰った。美咲との会話は必要最小限に留めた。咲良との時間だけが、僕にとっての救いだった。
再び月曜日の夜。
いつものように僕は家に帰った。いつものように美咲はソファでスマートフォンを見ていた。いつものように咲良は二階で泣いていた。
でも、今日の僕は何かが違っていた。
咲良を抱き上げて、階下に降りた時、僕は美咲に言った。
「僕、疲れた」
美咲は画面から目を上げた。
「お疲れさま」
いつもの機械的な返答だった。
「そうじゃなくて」僕は続けた。「心が、疲れた」
美咲は困ったような顔をした。
「風邪?」
「心の話だよ」
「よく分からない」
美咲は本当に分からない様子だった。僕の「心が疲れた」という言葉が、彼女には理解できないのだ。
僕は何も言えなくなった。
その時、咲良が僕の膝の上で泣き始めた。お腹が空いているのだろう。
「ご飯、作ってもらえる?」
僕が聞くと、美咲は首を振った。
「疲れてる」
「僕も疲れてるんだ」
「でも、あなたは座ってるだけでしょ?」
また同じ会話の繰り返しだった。
僕はため息をついた。
「分かった。買ってくる」
立ち上がろうとした時、美咲が咲良に向かって言った。
「ウチは貧しくてごめんね」
またその言葉だった。
僕の体が硬直した。
「やめて」
僕の声が震えていた。
「何を?」
「その言葉。咲良に言わないで」
「でも事実だから」
美咲は平然と答えた。
「事実じゃない」僕は強く言った。「僕たちは貧しくない」
「現実を見なよ」美咲の声に苛立ちが混じった。「いつもお金がないって言ってるじゃない」
「節約の話をしてるだけだ」
「同じことでしょ?」
同じことではない。でも、美咲にはその違いが分からない。
咲良が不安そうに僕と美咲を見上げていた。
その時、美咲が再び言った。
「咲良、ウチは貧しくてごめんね。パパが稼ぎが少ないから」
世界が止まった。
僕の中で、最後に残っていた何かが完全に砕け散った。
「稼ぎが、少ない?」
僕の声は掠れていた。
「年収一千万円が、少ない?」
美咲は眉をひそめた。
「でも、いつも足りないって言ってるじゃない」
「それは君が—」
僕は言いかけて、止めた。
もう何を言っても無駄だった。
美咲にとって、僕の努力は無価値だった。
僕の犠牲は意味がなかった。
僕の存在は「稼ぎの少ない夫」でしかなかった。
そして、三歳の娘に、それを刷り込もうとしている。
咲良が将来、父親を軽蔑するように。
「パパは稼ぎが少ない」と思うように。
僕は立ち上がった。
足がふらついた。
「どこ行くの?」
美咲が聞いた。
僕は答えなかった。答える言葉が見つからなかった。
書斎に向かった。ドアを閉めて、鍵をかけた。
椅子に座って、手で顔を覆った。
泣こうと思ったが、涙は出なかった。
ただ、空っぽになった感覚だけがあった。
心が死んだ。
美咲の言葉が、僕を殺した。
物理的に死んだわけではない。でも、僕という人間の核にあったものが、完全に壊れてしまった。
希望も、誇りも、存在意義も、全て。
午後十時。美咲が書斎のドアをノックした。
「ご飯買ってきたよ」
僕は返事をしなかった。
「機嫌悪いの?」
機嫌の問題ではなかった。でも、美咲にはそれが分からない。
「明日早いから、先に寝るね」
美咲の足音が遠ざかっていった。
僕は机の上の写真を見た。結婚式の時の写真だ。僕と美咲が笑っている。幸せそうな顔をしている。
あの時、僕は未来に希望を持っていた。
美咲と一緒に、素晴らしい家庭を築けると信じていた。
でも、僕たちは最初から違う世界に住んでいたのだ。
僕の世界では、努力は報われる。愛情は伝わる。理解し合える。
美咲の世界では、それらは存在しない。
そして、僕はその現実を受け入れなければならない。
午前一時。
僕は書斎を出て、咲良の部屋に向かった。
娘は小さなベッドで、安らかに眠っていた。
僕は咲良の頬にそっと触れた。
「ごめんね」
小さな声で謝った。
「パパが弱くて、ごめんね」
咲良は眠ったまま、小さく微笑んだような気がした。
僕はその場にしばらく座っていた。
この子のためだけに、僕は生きていこう。
美咲に理解されなくても、評価されなくても、この子がいる限り。
でも、心の奥で分かっていた。
僕はもう、元の僕ではない。
美咲の言葉に殺された僕は、もう存在しない。
これからの人生は、死んだ心で生きていく人生だ。
家族という名の密室で、静かに壊れ続ける人生だ。
外から見れば、僕たちは幸せな家族だろう。
高収入のサラリーマンと専業主婦、可愛い娘。
でも、その実態は違う。
僕は既に死んでいる。
美咲の無自覚な残酷さによって。
そして、明日も、明後日も、この状況は続いていく。
僕は死んだ心で、生きていかなければならない。
それが、僕に与えられた運命だった。
月曜日の夜。
家の灯りは暖かく見える。
でも、その中で、僕は既に死んでいた。
誰にも気づかれることなく、静かに。
これが、僕を殺した君の言葉の話だった。
完
この小説に登場する人物・団体は全て架空のものです。特定の疾患や障害について偏見を助長する意図はありません。家族の問題は複雑であり、一方的な視点で判断すべきものではないことを付け加えます。