毎朝、私は仮面をつけて家を出る。その仮面の下にある本当の私は、誰にも見せることなく、静かに胸の奥で息づいている。
仕事の時間は空白。でも、その空白があるからこそ、私は私でいられるのだと、今ならわかる。
これは、26歳の私が見つけた、小さくて大切な真実の物語。
第1章：空白の朝
月曜日の朝、6時30分。
目覚ましが鳴る前に目が覚めた。いつものことだ。週末の余韻がまだ体に残っているのに、もう月曜日がやってくる。ベッドの中で数分間、天井を見つめた。今日もまた、空白の時間が始まる。
洗面所で顔を洗いながら、鏡の中の自分と目が合った。寝起きの顔は正直で、週末に本を読んで過ごした穏やかな時間の名残りが、まだ表情に残っている。でも、これから化粧をして、髪を整えて、スーツを着れば、また別の人になる。会社の美月になる。
「おはよう」
一人暮らしの部屋で、誰に向けてでもなく呟いた。窓辺の小さな観葉植物に向けて言ったのかもしれない。その子だけが、本当の私を知っている。
7時45分、最寄り駅のホーム。
満員電車の中で、私は今日という一日のシナリオを頭の中で組み立てる。「おはようございます」と挨拶をして、メールをチェックして、会議に出席して、資料を作って。全部、空白の時間。心は別のところにある。
電車が揺れるたびに、隣の人の肩が当たる。みんな同じ顔をしている。疲れて、少し諦めたような、でもどこか希望を捨てきれずにいる顔。私もその一人だ。
「次は新宿、新宿です」
アナウンスが流れる。あと15分で会社に着く。あと15分で、本当の私は心の奥にしまわれる。
でも不思議なことに、それが辛いというわけではなかった。むしろ、この区切りがあるからこそ、私は私でいられるのかもしれない。空白の時間があるから、空白ではない時間が際立つ。
オフィスビルのエレベーターに乗り込む。12階。私の会社がある階だ。扉が開くと、いつものオフィスの風景が広がる。グレーのデスク、白い壁、蛍光灯の明かり。
「おはようございます」
作り笑顔で挨拶をする。声のトーンも、表情も、全部計算されている。でも、それは嘘ではない。これも私の一部なのだ。
デスクに座り、パソコンを立ち上げる。メールが23通届いている。一つずつ、丁寧に返信していく。文面も、敬語の使い方も、全部頭の中で組み立ててから打つ。
隣の席の田中さんが、コーヒーの香りを漂わせながら席に戻ってきた。
「美月ちゃん、おはよう。今日もよろしくね」
彼女の笑顔は本物だった。私も本物の笑顔で返す。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
この瞬間だけは、空白ではなかった。
第2章：仮面の私
午前中の会議室。
営業部の定例会議が始まった。部長の長い話を聞きながら、私は適度にうなずき、メモを取るふりをしている。本当は、昨日読んだ小説のことを考えていた。主人公の女性が、恋人との別れを決意するシーンが忘れられない。
「美月さん、先週の案件の進捗はいかがですか？」
部長の声で現実に戻る。
「はい、順調に進んでおります。来週中には先方にご提案できる予定です」
流暢に答える。これが会社の私の声だ。感情を排し、事実だけを伝える。でも心の中では、その小説の主人公が今頃どうしているだろうと考えている。
会議が終わり、席に戻る途中、コピー機の前で同僚の佐藤くんと出会った。
「お疲れさまです」 「お疲れさまです」
いつもの挨拶を交わす。でも今日は何故か、彼が少し疲れて見えた。
「佐藤くん、大丈夫？」
思わず声をかけていた。
「あ、はい。ちょっと昨日遅くて」
彼の笑顔は少し無理をしているように見えた。私も同じような笑顔をしているのだろうか。
昼休み。
一人でお弁当を食べながら、スマートフォンで音楽を聴く。イヤフォンから流れるピアノの旋律が、心の奥に眠っている本当の私を優しく起こしてくれる。
「美月ちゃん、一人？」
田中さんが声をかけてくれた。
「はい、でも全然大丈夫です」 「一緒に食べない？ 実は新しいカフェ見つけたの」
彼女の誘いに、心が少し軽くなった。
カフェは小さくて、温かい雰囲気だった。木のテーブル、やわらかい照明、静かに流れるジャズ。
「ここ、落ち着くでしょ？」
田中さんが嬉しそうに言った。
「すごく素敵ですね。こういう場所、好きです」
これは嘘ではなかった。本当に、心からそう思った。
「美月ちゃんって、音楽好き？ さっきイヤフォンしてたでしょ」 「はい、クラシックが特に」 「わあ、素敵！ 私はジャズが好きなの。今度、いいお店知ってるから一緒に行かない？」
彼女の目が輝いていた。私も自然と微笑んでいた。これが、空白ではない時間だった。
午後のデスクワーク。
資料作りに集中していると、時間が早く過ぎる。数字を整理し、グラフを作り、文章を推敲する。これらの作業は嫌いではない。むしろ、何かを作り上げる喜びがある。
でも心のどこかで、別のことを考えている。今度の週末に読みたい本のこと、田中さんと行く予定のジャズバーのこと、部屋の観葉植物に新しい葉が出てきたこと。
5時30分。
定時だった。周りを見回すと、まだ残っている人が多い。私も少し残ろうかと思ったが、今日はなぜか帰りたい気分だった。
「お疲れさまでした」
挨拶をして、オフィスを出る。エレベーターの中で、今日一日を振り返る。空白の時間だった。でも、完全に空白ではなかった。田中さんとの会話、佐藤くんへのちょっとした気遣い、資料を作り上げた時の小さな達成感。
空白の中にも、色がついている部分があるのかもしれない。
第3章：秘密の昼下がり
翌日の夕方、珍しく仕事が早く終わった。
いつもなら真っ直ぐ家に帰るところだが、今日は駅前の小さなカフェに立ち寄った。一度だけ前を通ったことがあるが、入ったことはなかった。
扉を開けると、コーヒーの香りと静かな音楽が迎えてくれた。お客は私を含めて3人だけ。窓際の席に座り、カフェラテを注文した。
「お疲れさまでした」
マスターが温かい笑顔で言った。知らない人からの「お疲れさま」は、なぜかとても嬉しかった。
カフェラテを待つ間、窓の外を眺めた。夕方の街を歩く人々。急いでいる人、ゆっくり歩いている人、電話をしながら歩いている人。みんなそれぞれの時間を生きている。
「お待たせしました」
美しいラテアートが描かれたカップが運ばれてきた。葉っぱの模様だった。思わず写真を撮りたくなったが、この瞬間を心に刻むことにした。
最初の一口。
温かいミルクとコーヒーの調和が、疲れた体に染み渡る。これが私の時間だった。誰にも邪魔されない、本当の私の時間。
バッグから文庫本を取り出した。昨日の続きを読みたかった。主人公の女性が新しい恋を見つけるかもしれない場面だった。
活字を追いながら、時々カフェラテを飲む。BGMは低めの音量でジャズが流れている。完璧な午後だった。
30分ほど読んでいると、小説の中の女性が勇気を出して告白するシーンになった。私も彼女を応援している気持ちになった。フィクションだとわかっているのに、ドキドキしている。
「これが本当の私」
心の中で呟いた。会社では絶対に見せない表情をしているのがわかった。きっと、とても穏やかで、少し幸せそうな顔をしている。
カフェを出る時、マスターがまた笑顔で見送ってくれた。
「また来てくださいね」 「はい、ありがとうございました」
外に出ると、まだ明るかった。家に帰る前に、近くの小さな公園を歩いてみることにした。
公園のベンチに座り、空を見上げた。雲がゆっくりと流れている。こんな風に空を見上げたのは、いつ以来だろう。
隣のベンチに、おばあさんが一人で座っていた。ハトに餌をあげている。そのハトたちが、とても人懐っこくて、おばあさんの膝の上にまで乗っている。
「可愛いですね」
思わず声をかけていた。
「そうでしょう？ この子たち、毎日ここで待ってるのよ」
おばあさんの顔が輝いた。
「毎日？」 「ええ、私が来るのを覚えてるの。賢いのよ」
ハトを見つめる彼女の表情は、とても優しかった。この人にも、きっと空白の時間と、そうでない時間があるのだろう。でも今は、確実に空白ではない時間だった。
「私も何か持ってくればよかった」 「今度いらっしゃい。パンの耳でも喜ぶから」
彼女の言葉に、心が温かくなった。
家に着いたのは7時過ぎだった。
いつもより1時間遅い帰宅だったが、心は軽やかだった。今日は空白ではない時間を、いつもより多く過ごせた気がした。
お風呂上がり、ベッドに横になりながら今日のことを思い返した。カフェのラテアート、小説の続き、公園のおばあさんとハト。小さなことばかりだけれど、どれも私の心を満たしてくれた。
明日はまた月曜日。また空白の時間が始まる。でも今日みたいな時間があることを知っているから、明日も頑張れる気がした。
第4章：空白に色を
翌週の月曜日。
いつもと同じ時間に家を出たが、今日は少し違った。バッグの中に、先週買った小さなハンドクリームが入っている。ローズの香りがする、お気に入りの品だった。
満員電車の中で、そっとハンドクリームの蓋を開けた。ほんのりとした香りが、朝の憂鬱を和らげてくれる。隣に立っている人には気づかれない程度の、小さな幸せ。
会社に着くと、デスクに小さな一輪挿しを置いた。昨日、帰り道で買った白いガーベラが一本。受付の女性が「素敵ですね」と言ってくれた。
「ありがとうございます。少し明るくなるかなと思って」
これも嘘ではない。本当にそう思ったから買ったのだ。
午前中の会議。
いつもの定例会議だったが、今日は少し積極的に発言してみた。新しい企画のアイデアを提案すると、部長が興味を示してくれた。
「美月さん、面白い視点ですね。詳しく検討してみましょう」
承認をもらった時、心の中で小さくガッツポーズをした。これも、空白ではない瞬間だった。
昼休み、田中さんと約束していたランチ。
駅前の小さなイタリアンレストランで、パスタを食べながら話した。
「美月ちゃん、最近なんか変わった？」 「変わったって？」 「なんていうか、明るくなったっていうか」
田中さんの言葉に、少し驚いた。
「そうですか？」 「うん。なんか楽しそう」
確かに、最近は会社にいる時間も、完全に空白ではなくなっていた。小さな楽しみを見つけたり、同僚との会話を楽しんだり。仮面をつけているのは変わらないが、その仮面に少し色がついてきたのかもしれない。
「田中さんのおかげです。色々なことを教えてもらって」 「そんな、私何もしてないよ」 「いえ、本当です。あのカフェも素敵でした」
彼女は嬉しそうに笑った。人と人とのつながりが、空白に色をつけてくれるのかもしれない。
午後、新しい企画の資料作り。
部長に承認をもらったアイデアを、具体的な企画書にまとめる作業だった。いつもの資料作りとは違い、自分のアイデアを形にしていく喜びがあった。
数字を調べ、市場を分析し、実現可能性を検討する。すべてが新鮮で、時間が経つのを忘れるほど集中していた。
気がつくと、外はもう暗くなっていた。時計を見ると8時を過ぎている。
「美月ちゃん、お疲れさま」
田中さんが声をかけてくれた。
「あ、田中さんもまだいらしたんですね」 「今日はちょっと忙しくて。美月ちゃんは？」 「企画書作ってました。楽しくて、時間忘れちゃって」
「楽しくて」という言葉が、自然に出てきた。仕事を楽しいと感じたのは、久しぶりだった。
「それって幸せなことよね」
田中さんの言葉に、はっとした。確かにそうだった。仕事を楽しめるというのは、幸せなことなのかもしれない。
帰り道、いつものカフェに寄った。
マスターは私の顔を覚えていてくれて、「いつものですか？」と聞いてくれた。常連になっていたのだ。
カフェラテを飲みながら、今日のことを振り返った。朝のハンドクリーム、デスクの花、会議での提案、田中さんとのランチ、企画書作り。
どれも小さなことだけれど、確実に私の一日に色をつけてくれた。空白の時間の中に、少しずつ色がついてきている。
完全に空白ではなくなった時間。それでも、まだ仮面をつけているのは変わらない。でも、その仮面が少し私らしくなってきたのかもしれない。
第5章：私の空白
それから数週間が過ぎた。
金曜日の夕方、一週間の仕事を終えて帰路についた。今週も色々なことがあった。新しい企画が正式に承認されたこと、佐藤くんと仕事の相談をしたこと、田中さんと新しいカフェを開拓したこと。
電車の中で、この数ヶ月のことを思い返していた。
仕事はまだ空白だ。本当の自分を全開にできる場所ではない。でも、その空白に少しずつ色がついてきた。同僚との関係、小さな工夫、ささやかな楽しみ。
家に着くと、観葉植物が新しい葉をつけているのを発見した。小さな葉っぱだが、とても生き生きとしている。
「お疲れさま」
植物に話しかけながら、お気に入りの紅茶を淹れた。アールグレイの香りが部屋に広がる。
ソファに座り、一週間分の疲れを体から抜いていく。これが私の時間。誰にも邪魔されない、本当の私の時間。
でも最近気づいたことがある。仕事の時間も、完全に私ではないわけではないということ。確かに仮面をつけているし、空白の部分も多い。でも、その中にも私らしい瞬間がある。
スマートフォンに田中さんからメッセージが届いた。
「来週、新しいジャズバー見つけたの！今度一緒に行きませんか？」
すぐに返信した。
「ぜひ行きたいです！楽しみにしています」
送信してから、自分の返事を見返した。これは嘘ではない。本当に楽しみにしている。田中さんとの時間は、空白ではない。
窓の外を見ると、街の明かりが美しく輝いている。あの光の向こうに、たくさんの人がいる。みんなそれぞれの空白と、そうでない時間を生きている。
私の生活は、まだ大きくは変わっていない。月曜日から金曜日まで、同じ会社で、同じような仕事をしている。でも、その中身は少しずつ変化している。
空白の時間があるから、本当の私の時間が輝く。仮面をつけているから、素顔の価値がわかる。
もし仕事がすべて楽しくて、すべてが私らしい時間だったら、きっと今の幸せには気づけなかった。小さなカフェでのコーヒー、同僚との何気ない会話、家での静かな時間。これらの価値を、私は空白があるからこそ理解できている。
紅茶を飲み終え、ベッドに向かう前に、もう一度観葉植物を見た。
「明日は土曜日だね」
植物に話しかけた。明日は完全に私の時間だ。本を読んで、好きな音楽を聴いて、散歩をして。そして月曜日になったら、また空白の時間が始まる。
でも、それでいいのだと思った。
空白があるから、満たされた時間の価値がわかる。仕事の私があるから、プライベートの私が際立つ。すべてが私の人生なのだ。
ベッドに横になり、天井を見上げた。来週も空白の時間がやってくる。でも、その空白の中にも、きっと色がついた瞬間がある。新しい発見があり、小さな喜びがあり、人とのつながりがある。
そして何より、空白の時間を過ごしているからこそ、本当の私でいられる時間が、これほどまでに愛おしく感じられるのだ。
「おやすみなさい」
誰に向けてでもなく、でも確実に私自身に向けて言った。明日も、私らしく生きよう。空白も、色のついた時間も、すべてが私の人生なのだから。
目を閉じると、カフェのコーヒーの香り、同僚の笑顔、紅茶の温かさ、すべてが心地よく混ざり合って、私を優しい眠りへと誘ってくれた。
空白の中にも、愛がある。それに気づけた今、私はとても幸せだった。
おわり
最後まで読んで頂いて有難うございました。
お願いがあります。
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