AI小説｜夏のはじまり

雨粒が窓ガラスを滑り落ちていく。
その一粒一粒に、流れ去った時間の重さを感じながら、私はただそれを眺めていた。
いつからだろう、こんなふうに時間だけが過ぎていくようになったのは。

第1章　雨の音だけがする部屋
第2章　曇り空のホーム
第3章　草の匂いと少年
第4章　夏のはじまり
最終章　帰る場所

第1章　雨の音だけがする部屋

六月最後の金曜日、東京は梅雨の真っ只中だった。

中谷遥は四畳半のアパートで、床に直接座り込んで雨音を聞いていた。窓の外では、紫陽花の濃い青が雨に打たれて揺れている。二十八歳になった今年の梅雨は、これまでで一番長く感じられた。

婚約指輪を外してから、もう三か月が経っていた。

五年付き合った彼が「やっぱり君じゃない気がする」と言ったのは、桜が散り始めた四月の午後のことだった。結婚式の招待状を印刷する前で、本当に良かったと思えた。でも、それ以来、遥の時間は止まったままだった。

会社も一か月前から休職している。上司は「気持ちの整理がついたら、いつでも戻っておいで」と優しく言ってくれたが、遥自身にも、それがいつになるのか分からなかった。

テーブルの上に、父からの手紙が置いてある。三日前に届いたそれは、いつもの父らしく短い文章だった。

『遥へ
梅雨明けが近い。畑の手入れが忙しくなってきた。
たまには帰ってこい。
父より』

その下に、几帳面な字で「追伸　母さんの好きだった紫陽花が今年も咲いた」と付け加えられていた。

遥の母は三年前に亡くなった。胃がんだった。闘病中も最期まで、父の世話ばかりを心配していた人だった。遥が東京で働き始めてからは、年に数回しか帰らなくなっていたことが、今も悔やまれてならない。

手紙を読み返しながら、遥は久しぶりに涙を流した。婚約破棄のときには涙も出なかったのに、父の不器用な優しさに触れて、心の奥で固まっていた何かが少しだけ緩んだ気がした。

雨音が強くなってきた。もうすぐ七月になる。

遥は立ち上がると、クローゼットから小さなボストンバッグを取り出した。久しぶりに実家に帰ってみよう。そんな気持ちが、自分でも驚くほど自然に湧き上がってきた。

明日は土曜日だ。

第2章　曇り空のホーム

長野行きの特急列車は、予想していたよりも空いていた。

車窓を流れる景色が都市部から郊外へ、そして山間部へと変わっていく。遥は久しぶりに見る故郷への道のりを、まるで初めて通るかのような新鮮な気持ちで眺めていた。

最寄り駅に着いたのは午後三時過ぎだった。薄曇りの空の下、駅前には父の軽トラックが停まっている。運転席で新聞を読んでいた父が、遥の姿を見つけて手を上げた。

「おう、お疲れさま」

父の忠志は、相変わらず口数が少なかった。遥がバッグを荷台に乗せると、無言で車を発進させる。久しぶりに嗅ぐ山の空気は、東京の空気とは全く違って澄んでいた。

「元気そうじゃないか」

父がぽつりと言った。嘘だと思った。鏡で見る自分の顔は明らかにやつれているし、目の下にはクマもできている。でも、父なりの気遣いなんだと感じた。

「お父さんも、元気そうだね」

実際、父は元気そうだった。定年退職してから五年、一人暮らしを始めてから三年が経つが、規則正しい生活を続けているおかげか、むしろ若々しく見えるくらいだった。

「畑仕事があるからな。体を動かしてると、余計なことを考えずに済む」

そう言って、父は小さく笑った。その笑顔に、母を亡くしたときの父の悲しみが重なって見えた。あのとき、父も今の遥と同じような気持ちだったのかもしれない。

車は山道を登っていく。久しぶりに見る棚田の緑が、曇り空の下でも美しく輝いていた。所々に紫陽花が咲いている。淡いピンクや青、白の花が、田舎の風景に彩りを添えていた。

「今年の紫陽花は特にきれいだな」

父が言った。母が生前、毎年楽しみにしていた紫陽花のことを思い出しているのだろう。遥も窓越しにその花を見つめた。

実家は、棚田の一番上にある古い農家だった。築五十年は経っているが、父が丁寧に手入れをしているおかげで、今でもしっかりとしている。玄関前の小さな花壇には、母が植えた花が今も咲いていた。

「ただいま」

久しぶりに言ったその言葉が、自分でも意外なほど自然に口から出た。

「おかえり」

父の返事も、いつものように短かった。でも、その短い言葉の中に、深い安堵が込められているのを遥は感じ取った。

家の中は、母がいたころとほとんど変わっていなかった。父が一人で暮らしているとは思えないほど、きちんと片付いている。仏壇の横に、母の写真が飾られていた。遥が中学生のころの写真で、母が一番きれいに写っているお気に入りの一枚だった。

「お線香をあげさせて」

父がうなずく。久しぶりに手を合わせながら、遥は母に心の中で語りかけた。今の自分の状況を、母ならどう受け止めるだろうか。きっと、優しく頭を撫でて「大丈夫よ」と言ってくれるに違いない。

その夜、遥は久しぶりに自分の部屋で眠った。中学・高校時代に使っていた勉強机や本棚が、そのまま残されている。父が大切に保管してくれていたのだろう。

窓を開けると、虫の音と風の音だけが聞こえてきた。東京では絶対に味わえない静寂だった。その静けさの中で、遥の心も少しずつ静まっていくのを感じていた。

第3章　草の匂いと少年

翌朝、遥は早起きした。

時計を見ると、まだ六時前だった。東京にいるときは、休職してからというもの昼近くまで寝ていることが多かったのに、故郷の空気が体を自然に目覚めさせるのかもしれない。

居間に降りると、父はもう朝食の準備をしていた。焼き魚と味噌汁、漬物という、変わらない朝の食卓。母がいなくなってから、父が一人で作り続けている。

「今日は畑の様子を見に行こうと思う。付き合うか？」

父の提案に、遥は頷いた。久しぶりに外の空気をゆっくり吸いたかった。

朝食を済ませ、麦わら帽子を被って家を出る。梅雨明けはまだだが、雲の隙間から差し込む朝日が気持ちいい。畑は家から歩いて十分ほどの場所にあった。

「おはようございます！」

明るい声が聞こえてきた。振り返ると、高校生くらいの男の子が手を振っている。運動部らしい日焼けした顔に、人懐っこい笑顔を浮かべていた。

「おう、光太。今日も早いな」

父が手を上げて応えた。

「娘の遥だ。東京から帰ってきた」

「初めまして！村田光太です」

少年は元気よく頭を下げた。遥も軽く会釈を返す。

「光太は地元の高校生でな。夏休みの間、畑の手伝いをしてもらってるんだ」

父の説明に、光太が照れたように笑った。

「お小遣い稼ぎです。でも、中谷のおじさんの畑仕事、結構楽しいんですよ」

そう言って、光太は手に持ったホウキを振って見せた。畑の周りの草取りをしていたらしい。

「遥さんも、たまには土に触れてみるといいですよ。なんか、すっきりするんです」

光太の何気ない言葉に、遥は少し驚いた。この子は、都会で疲れた大人の心を見抜いているのだろうか。屈託のない笑顔の奥に、案外鋭いものを感じた。

父と遥は、光太と一緒に畑を歩いた。トマトやキュウリ、ナスなどの夏野菜が青々と育っている。父の丁寧な手入れの跡が、あちこちに見て取れた。

「すごいですね。こんなにたくさん」

遥が感心すると、父が照れたような表情を見せた。

「一人じゃ食いきれないほど採れるんだ。光太の家にもよく持って帰ってもらってる」

「ありがたいです。うちの母さん、中谷さんのトマト、『甘くて最高』って言ってます」

光太の明るい笑顔を見ていると、遥の心も自然に和んでいく。この子の素直さや屈託のなさが、凝り固まった心を優しくほぐしてくれるようだった。

作業をしながら、光太はよく話しかけてきた。学校のこと、友達のこと、将来の夢のこと。特別深刻な悩みがあるわけではないが、それでも十八歳なりの迷いや不安を抱えていることが、会話の端々から伝わってきた。

「大人になるって、どんな感じなんですか？」

突然、光太が遥に質問した。

「どんな感じって？」

「なんか、大人の人って、いつも何かを我慢してるように見えるんです。遥さんも、なんだか悲しそうな顔をしてる」

光太の率直な言葉に、遥は少し戸惑った。この子には、隠そうとしても無駄なのかもしれない。

「大人になると、思うようにいかないことが増えるのかな」

遥は正直に答えた。

「でも、それって仕方ないことなんですか？」

「わからない。でも、みんなそうやって生きてるんじゃないかな」

光太は考え込むような表情を見せた。そして、ふと思い出したように言った。

「あ、そうそう。大人って泣いていいんですね」

「え？」

「昨日の夜、遥さんの部屋の窓から明かりが見えて。なんか、泣き声も聞こえたような気がしたんです。でも、大人も泣くんだなって思って、なんか安心しました」

遥は顔が赤くなるのを感じた。昨夜、母の写真を見ながら静かに泣いていたことを、この子に聞かれていたのだ。

「ごめんなさい。聞くつもりじゃなかったんです。でも、僕も時々泣きたくなることがあるから」

光太の素直な言葉に、遥の心の奥で何かが動いた。この子は、遥の涙を恥ずかしいものだとは思っていない。むしろ、自分と同じように悲しみを感じる存在として受け入れてくれている。

「泣いてもいいと思うよ」

遥は光太の目を見て言った。

「悲しいときは、悲しんでいいと思う。大人も子供も関係なく」

光太が明るく頷いた。その笑顔を見ていると、遥の心も軽くなっていく。この子との出会いが、自分にとって特別な意味を持つかもしれないと、そんな予感がした。

第4章　夏のはじまり

三日目の朝、遥は一人で畑に向かった。

父はまだ眠っていたし、光太もまだ来ていない時間だった。朝の静けさの中を歩いていると、遠くでヒグラシが鳴き始めた。その声が、夏の到来を告げているようだった。

畑に着くと、遥は一人で野菜の世話を始めた。母が生きていたころ、よく一緒に手伝ったことを思い出す。あの頃は面倒だと思っていた作業も、今は心を落ち着けてくれた。

土の感触、草の匂い、風の音。すべてが東京での生活にはない、懐かしいものだった。しゃがんで雑草を抜いていると、涙がぽろぽろと落ちてきた。でも、それは悲しくて出た涙ではなく、何か別の感情からくるものだった。

「早いですね」

振り返ると、光太が歩いてきた。いつものように明るい笑顔だが、遥の涙に気づいて少し心配そうな表情を見せた。

「大丈夫ですか？」

「大丈夫。なんだか、すっきりした気分」

遥は涙を拭いながら答えた。ほんとに、そんな気がした。心の奥で重くなっていた何かが、少しずつ軽くなっているのを感じていた。

「そうですか。それなら良かった」

光太は安心したようにほっとした。

二人で作業をしていると、父もやってきた。三人で並んで野菜の手入れをする時間が、なんとも言えず穏やかだった。

「今日は暑くなりそうだな」

父がつぶやいた。空を見上げると、雲の隙間が大きくなってきている。梅雨明けが近いのかもしれない。

作業が一段落すると、父がお茶を持ってきてくれた。三人で畑のそばの木陰に腰を下ろし、湯呑みを手に休憩する。

「この季節が一番好きです」

光太が言った。

「梅雨が明けて、本格的な夏が始まる前の、この微妙な時期」

「どうして？」

遥が聞くと、光太は考えながら答えた。

「なんか、可能性がいっぱいあるような気がするんです。これから暑い夏がやってきて、いろんなことが起こりそうで」

その言葉に、遥は深く頷いた。確かに、この時期には特別な魅力がある。終わりと始まりが混在している、曖昧で美しい時間。

父は黙ってお茶を飲んでいたが、時々空を見上げていた。雲の動きを読んでいるのかもしれない。農家の長年の勘で、天気の変化を感じ取っているのだろう。

「お父さん」

遥が声をかけると、父が振り返った。

「ありがとう。手紙をくれて」

父は照れたような笑顔を見せた。

「たまには帰ってこいと言っただけだ」

「でも、あの手紙がなかったら、まだ部屋で雨音を聞いてたと思う」

光太が興味深そうに二人のやり取りを見ていた。きっと、親子の関係性について何か感じるものがあったのだろう。

昼前になると、雲が急に厚くなってきた。でも、これまでの梅雨の雲とは違って、夏らしい入道雲の形をしている。

「夏ですね」

光太が空を見上げて言った。

「本当に」

遥も空を見上げながら答えた。そして、自分でも驚くほど自然に、笑顔を浮かべていた。光太も、つられるように笑い返してくれた。

その瞬間、遥の心の中で何かが変わった。止まっていた時間が、再び動き始めたような感覚だった。

これまでの自分は、失ったものばかりに目を向けていた。婚約者、安定した将来への見通し、母との時間。でも、今この瞬間には、確かに存在するものがあった。父の静かな愛情、光太の素直な優しさ、そして自分自身の、まだ完全には癒えていないけれど確実に回復しつつある心。

夏が始まろうとしていた。遥にとって、新しい季節の始まりだった。

最終章　帰る場所

一週間の滞在は、あっという間に過ぎてしまった。

帰京の日の朝、遥は最後にもう一度畑を見に行った。一人で歩く道のりも、もうすっかり懐かしく感じられる。

梅雨は完全に明けていた。青い空に真っ白な入道雲が浮かんで、いかにも夏らしい空模様だった。ヒグラシの声も、朝から元気に響いている。

畑では、野菜たちが太陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。一週間で、また一回り大きくなったような気がする。

「おはようございます！」

光太の元気な声が聞こえてきた。今日も朝早くから手伝いに来てくれたのだろう。

「おはよう。今日で東京に帰るの」

「そうなんですか。寂しくなります」

光太が素直に言った。この一週間、毎日のように一緒に作業をして、いろんな話をした。彼の存在が、遥の心を癒してくれたことは間違いない。

「光太くんも、元気でね。体に気をつけて」

「はい。遥さんも、東京で無理しないでくださいね」

光太は少し大人びた表情で言った。この一週間で、彼も何かを感じ取ってくれたのかもしれない。

駅へ向かう車の中で、父が口を開いた。

「また、たまには帰ってこい」

「うん」

遥は素直に答えた。今度は、逃げるように帰ってくるのではなく、本当に会いたくなったときに帰ってこよう。

「お父さんも、体に気をつけて。一人だと心配だから」

「大丈夫だ。光太もいるしな」

父が小さく笑った。あの少年が、父にとっても大切な存在になっているのがわかる。

駅のホームで、遥は父と別れの挨拶をした。

「ありがとう、お父さん。おかげで、少し元気になれた」

「そうか。それなら良かった」

父は相変わらず口数が少なかったが、その表情は安心したように見えた。

電車が来た。遥は窓際の席に座り、手を振る父に向かって手を振り返した。

電車が動き始めると、窓の外に故郷の風景が流れていく。青い空、緑の棚田、点在する民家。一週間前に見た景色と同じはずなのに、今は全く違って見えた。

すべてが、きらきらと輝いて見えていた。それは、遥自身の心が変わったからなのだろう。

東京に戻ったら、まず会社に連絡をしよう。そして、また働き始めよう。前より、少しだけ自分のペースで生きられるかもしれない。

婚約破棄の傷は、まだ完全には癒えていない。でも、それも含めて自分の人生なのだと、今なら思える。失ったものを嘆くよりも、今ある大切なものを見つめていこう。

電車は東京に向かって走り続ける。窓の外に広がる夏の空を見上げながら、遥は心の中でつぶやいた。

「ここが、私の夏のはじまりだった」

そして、微笑んだ。

新しい季節が始まろうとしていた。遥にとって、本当の意味での新しい人生の始まりが。

おわり

最後まで読んで頂いて有難うございました。
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