あの空は、なぜこんなにも青いのだろう。
缶コーヒーの湯気が、初夏の風に溶けて消えていく。
十階建てのビルの屋上で、僕はひとり、街を見下ろしていた。
第1章:屋上という名の避難所
真鍋悠人は、午後十二時三十分になると、必ず屋上へ向かった。
設備管理会社の制服を着た三十八歳の男は、誰もいないことを確認してから、いつもの角の場所に腰を下ろす。コンクリートの床は冷たく、背中を預けるフェンスは少し錆びていたが、ここが彼にとって唯一安らげる場所だった。
缶コーヒーのプルタブを開ける音が、風に混じって消えていく。
遠くに見える東京の景色は、どこか懐かしい映画のワンシーンのようだった。車の音も、人の声も、工事の騒音も——すべて十階下の出来事で、ここには穏やかな時間だけが流れている。
「お疲れさまでした」
「はい、お疲れさまでした」
毎日繰り返される挨拶。データの入力。点検の報告書。坂井部長の厳しい視線。三年前のあの失敗を、いまだに引きずっている自分。
悠人は深く息を吸った。ここに来ると、そんな息苦しい現実から少しだけ距離を置くことができる。
缶コーヒーを一口飲んで、空を見上げる。雲がゆっくりと形を変えながら流れていく。時間の概念が曖昧になる瞬間だった。
「あ、すみません」
突然聞こえた女性の声に、悠人は振り返った。
屋上の入り口のところに、見慣れない若い女性が立っている。清掃会社のユニフォームを着て、手には雑巾とバケツを持っていた。
「あの、お邪魔でしたら...」
女性は困ったような表情を浮かべながら、一歩後ずさりしようとする。
「いえ、大丈夫ですよ」
悠人は慌てて立ち上がった。普段なら誰かに会うことを避けたい彼だったが、なぜかその時は自然に言葉が出た。
「清掃の方ですか?」
「はい。小野寺愛と申します。今週から、こちらのビルを担当させていただくことになりまして」
愛と名乗った女性は、丁寧にお辞儀をした。二十代後半だろうか、明るい笑顔を浮かべているが、どこか疲れたような影が見える。
「真鍋です。設備管理の」
「あ、いつもありがとうございます」
そんな短い会話の後、気まずい沈黙が流れた。
悠人は缶コーヒーを片手に、もう一度座り直そうとしたが、愛はまだそこに立っている。
「あの、屋上って、お昼休みに来てもいいんでしょうか?」
愛の質問に、悠人は少し驚いた。
「特に規則はないと思いますが...なぜですか?」
「いえ、なんとなく、空が見たくて」
愛は少し照れたような表情を見せながら答えた。
「僕もです」
悠人は思わずそう言っていた。普段なら絶対に口にしないような言葉だった。
愛は微笑んで、「それでは、失礼します」と言ってから屋上を後にした。
残された悠人は、なんだか不思議な気持ちで空を見上げた。いつもの静寂とは違う、暖かい何かが胸に残っていた。
第2章:ふたりの沈黙
翌日の昼休み。
悠人が屋上に向かうと、愛がすでにそこにいた。フェンスに寄りかかって、遠くの景色をぼんやりと眺めている。
「あ、すみません。先にいてしまって」
愛は振り返ると、申し訳なさそうに頭を下げた。
「いえいえ、気にしないでください」
悠人はいつもの場所に座りながら答えた。愛は少し離れた場所で、持参したペットボトルのお茶を飲んでいる。
「いい天気ですね」
「そうですね」
それだけの会話だったが、昨日のような気まずさはなかった。
悠人は缶コーヒーを飲みながら、愛の横顔をちらりと見る。昨日気づいた疲れた影が、今日も彼女の表情に見えた。明るく振る舞っているが、何か重いものを抱えているような気がする。
「真鍋さんは、この屋上によく来られるんですか?」
愛の方から話しかけてきた。
「ええ、毎日」
「毎日ですか?」
「もう二年くらいになります。ここが...落ち着くんです」
悠人は珍しく素直に答えた。普段なら、こんな個人的なことは話さない。
「私も、昨日ここに来てみて、なんだか心が軽くなったような気がしました」
愛は微笑みながら言った。
「お仕事、大変ですか?」
悠人は思い切って聞いてみた。
「いえ、清掃の仕事は好きなんです。きれいになっていく様子を見るのが」
愛は一瞬言葉を止めて、それから続けた。
「ただ、家の方が...少し忙しくて」
家、という言葉に、悠人は何かを感じ取った。でも、それ以上は聞けなかった。
二人はしばらく無言で空を見上げた。雲が昨日とは違う形を作って流れている。
「あの雲、犬みたいですね」
愛が指差した方向を見ると、確かに大きな犬のような雲が浮かんでいた。
「本当ですね」
悠人は思わず笑みを浮かべた。
「子供の頃、よく雲の形を見て遊んでいました」
「僕もです」
そんな他愛のない会話が、なぜか心地よかった。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴ると、二人は同時に立ち上がった。
「また明日も、お邪魔していいでしょうか?」
愛の問いに、悠人は迷わず頷いた。
「もちろんです」
階段を下りていく愛の後ろ姿を見ながら、悠人は自分の中に芽生えた新しい感情に戸惑いを覚えた。誰かと時間を分かち合うことが、こんなにもあたたかいものだなんて、彼はすっかり忘れていた。
三年前、大きなミスを犯して左遷された時から、悠人は人との距離を置くようになった。同僚との会話も必要最小限に留め、昼休みは一人で過ごす。それが、いつの間にか当たり前になっていた。
でも、屋上での愛との時間は違った。無理をする必要がなく、自然体でいられる。そんな相手に出会ったのは、いつ以来だろうか。
第3章:屋上からの告白
愛が屋上に来るようになって一週間が過ぎた。
二人の間には、不思議な調和が生まれていた。多くを語らずとも、お互いの存在を心地よく感じられる関係。
この日、愛はいつもより疲れた表情をしていた。
「小野寺さん、大丈夫ですか?」
悠人は思い切って声をかけた。
愛は振り返ると、無理に笑顔を作ろうとしたが、すぐにその表情が崩れた。
「すみません。今日はちょっと...」
「無理しなくていいですよ」
悠人の優しい言葉に、愛の目に涙が浮かんだ。
「母が...介護が必要になって」
愛はぽつりと呟いた。
「三年前から一人で看ているんですが、最近、症状が進んで...夜中に何度も起こされて、日中の仕事にも集中できなくて」
声が震えている。
「誰にも相談できなくて。仕事を失ったら、介護費用も払えないし...でも、このままじゃ母も私も...」
愛は両手で顔を覆った。
悠人は何と言っていいかわからず、ただそっと彼女の隣に座った。
「僕も...父のことで後悔があります」
悠人は静かに話し始めた。
「五年前、父が入院した時、仕事を理由に病院にあまり行かなかった。『明日行こう』『来週の休みに』って、先延ばしにして...」
悠人の声も震えていた。
「結局、父が亡くなる時、僕は会社にいました。『危篤です』って連絡が来た時には、もう...最後の言葉も聞けませんでした」
愛は顔を上げて、悠人を見つめた。
「それから、僕は仕事でも大きなミスをしました。父のことで頭がいっぱいで、集中できなくて...結果として、このビルに飛ばされた」
「真鍋さん...」
「でも、今思うんです。あの時、もっと父の気持ちを考えてあげれば良かった。最期まで一人にしてしまって...」
二人は並んで空を見上げた。夕方の雲が、オレンジ色に染まり始めている。
「小野寺さんは、お母さんを一人にしてない。それだけで、立派だと思います」
悠人の言葉に、愛は涙を流しながら頷いた。
「でも、もう限界なんです...」
「ひとりで抱え込まなくていいんです」
悠人は初めて、誰かのために本気で何かをしたいと思った。
「介護の相談窓口とか、サポートサービスとか...僕も調べてみます。一緒に考えませんか?」
愛は驚いたような表情で悠人を見つめた。
「どうして...そこまで」
「僕にとって、この屋上は特別な場所になったんです。小野寺さんがいてくれるから」
悠人は照れながらも、はっきりと言った。
「お互い、ひとりじゃない。そう思えるだけで、きっと何かが変わると思うんです」
愛は涙を拭いながら、小さく微笑んだ。
「ありがとうございます...真鍋さん」
夕日が二人を暖かく包んでいた。屋上という小さな世界で、二つの心が初めて本当に触れ合った瞬間だった。
第4章:崩れる屋上、試される関係
翌週の月曜日、悠人は早めに出社した。
愛に介護サービスの情報をまとめて渡すためだった。週末、彼は必死に調べ物をした。地域包括支援センターの連絡先、介護保険の申請方法、利用できるサービスの一覧...
ところが、朝一番で坂井部長に呼び出された。
「真鍋、ちょっと来い」
部長の机の前に立つと、険しい表情で資料を見せられた。
「清掃スタッフの件だが、サボりの報告が上がっている」
悠人の血の気が引いた。
「昼休み中に、屋上で休憩しているという話だ。しかも、お前も一緒にいると」
「それは...」
「サボりを見逃すどころか、一緒に参加するとは何事だ。三年前の件を忘れたのか?」
坂井部長の声が厳しくなった。悠人の過去の失敗——設備点検の見落としによる軽微な事故——を持ち出された。
「君はもう後がないんだぞ。それなのに、また問題を起こすつもりか?」
「でも、部長、休憩時間ですし...」
「休憩時間だろうと、業務時間内は業務時間だ。清掃会社にはすでに契約解除の話をした」
悠人は愕然とした。
「そんな...小野寺さんは真面目に働いています」
「真面目?屋上でサボっている人間が?」
「サボりじゃありません!」
悠人は思わず声を上げた。
「あの場所があったから...あの時間があったから、僕たちは...」
「僕たち?」
部長の目が冷たくなった。
「まさか、個人的な関係じゃないだろうな?」
悠人は言葉に詰まった。
「真鍋、お前もしばらく昼休みの外出は禁止だ。来月の査定で、配置転換を検討する」
部長の言葉は、悠人の心に深く突き刺さった。
昼休みになっても、悠人は屋上に行けなかった。愛のことが心配だったが、部長に見張られているような気がして、動くことができない。
午後三時頃、清掃会社の上司らしき男性が愛を連れて部長のところに挨拶に来た。愛と目が合ったが、彼女は俯いたまま、何も言わなかった。
その夜、悠人は自分の無力さに打ちのめされていた。
愛を守ることもできず、自分の立場も危うくなった。あの穏やかな時間は、夢だったのだろうか。
スマートフォンに、愛からメッセージが届いた。
『真鍋さん、ご迷惑をおかけしてすみませんでした。明日で最後になりますが、屋上に来ていただけますか?』
悠人は迷った。行けば、また問題になるかもしれない。
でも、愛に会わずに終わるのは、あまりにも辛すぎた。
第5章:すべてが見える場所で
金曜日の夕方。
悠人は勇気を振り絞って、屋上への階段を上った。
愛はすでにそこにいた。いつものように、フェンスに寄りかかって空を見上げている。
「小野寺さん...」
愛は振り返ると、いつもの明るい笑顔を見せた。でも、その目は少し赤くなっていた。
「来てくださって、ありがとうございます」
「僕の方こそ、守ってあげられなくて...」
「そんなことありません」
愛は首を振った。
「真鍋さんのおかげで、私、少し前に進めそうです」
「前に進む?」
「はい。教えていただいた介護サービス、問い合わせてみました。来週、地域包括支援センターの方が、来週、家に来てくれることになって」
愛の表情が、少し明るくなった。
「それに、母の症状も、一人で抱え込まなくていいんだって、やっと理解できました」
「それは...良かった」
悠人は安堵の息をついた。
「でも、お仕事の方は...」
「別の清掃会社を探してみます。今度は、もっと自分の状況を正直に話して」
愛は微笑んだ。
「真鍋さんがいなかったら、きっと一人で潰れていたと思います」
夕日が二人を照らしている。東京の街並みが、金色に輝いて見えた。
「僕も、小野寺さんに出会えて良かった」
悠人は正直な気持ちを口にした。
「この屋上で過ごした時間が、僕の人生で一番...暖かい時間でした」
「私もです」
愛は涙を浮かべながら答えた。
「ここから見る景色、すごく好きになりました」
二人は並んで、街の灯りが少しずつ点き始める様子を眺めた。
「真鍋さん、お仕事の方は大丈夫ですか?」
「わかりません。でも、もう怖くない」
悠人は不思議な心境だった。
「今まで、失敗を恐れて、人との関わりを避けてきました。でも、小野寺さんと話していて気づいたんです」
「何をですか?」
「一人で抱え込むことの方が、よっぽど怖いって」
愛は頷いた。
「私も、母のことを誰かに話すなんて、恥ずかしいことだと思っていました。でも、真鍋さんに話して、心が軽くなった」
夜景が、ひっそりと輝いている。まるで、夜空に散りばめられた宝石のような東京の街。
「ここからなら、きっと、すべてが見える気がしますね」
愛がぽつりと呟いた。
「すべて?」
「自分のこと、人の気持ち、本当に大切なもの...今まで見ないふりをしてきたことが、ここからならはっきり見える」
悠人は愛の言葉に深く頷いた。
「そうですね。僕も、ここに来て初めて、自分の本当の気持ちに気づけた気がします」
二人は最後に、もう一度缶コーヒーとペットボトルのお茶で乾杯した。
「また、いつかお会いできる日を楽しみにしています」
愛は深々とお辞儀をした。
「僕も」
悠人は彼女の手を、そっと握った。
「小野寺さんの笑顔を、ずっと忘れません」
階段を下りていく愛の後ろ姿を、悠人は最後まで見送った。
一人になった屋上で、彼は空を見上げた。星が見え始めている。
明日からまた、一人の昼休みが始まる。でも、もう以前のような孤独感はなかった。
愛との出会いが、悠人の心に小さいけれど確かな変化をもたらしていた。人を信じること、支え合うこと、そして何より、自分の弱さを認めることの大切さを。
屋上の風は、相変わらず穏やかに吹いている。
悠人は立ち上がって、街の明かりを見下ろした。
「ここからなら、きっと、すべてが見える」
愛の言葉を繰り返しながら、彼は小さく微笑んだ。
そして、明日もここに来ようと心に決めた。今度は、誰かと出会うためではなく、自分自身と向き合うために。
屋上という名の避難所は、もう逃げる場所ではなく、立ち向かうための場所に変わっていた。
夜が深くなり、街の灯りが宝石のように輝く中で、真鍋悠人は一人、屋上に立っている。しかし、彼の心はもう孤独ではない。小野寺愛との出会いが残してくれた暖かな記憶と、新しい自分への希望を胸に、彼は明日という日を迎える準備ができていた。屋上から見下ろす東京の街は、無限の可能性を秘めているように見えた。
おわり
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