「数字は嘘をつかない」と信じて生きてきた男がいた。
地下鉄の窓に映る自分の姿と、見えない地中の世界を重ねる日々。
そこで彼は、誰にも見えない「根」と「音」に出会う――。
第一章「不透明な地下鉄」
川島慶一は三十八年の人生で、自分の顔をこれほど見つめたことがあっただろうか。地下鉄の窓に映る自分の顔は、照明が一定の間隔で通り過ぎるたびに明滅する。まるで脈拍のように。
「次は新宿御苑前、新宿御苑前です」
アナウンスが流れる中、慶一は窓に映る自分と目が合った。くすんだ黒のスーツに青いネクタイ。三日前に切った髪は、今朝も同じように左七三に分けられている。ネクタイの結び目を軽く指で押さえる。そこには何の感情も宿っていない。
窓の外には何もない。ただ、闇と、その闇を切り裂く照明のラインだけ。それが地下鉄という乗り物の現実だ。地上には様々な景色が広がっているというのに、ここにはただ暗闇があるだけだ。
慶一は両手をスーツのポケットに入れた。右のポケットに小銭。左のポケットにはハンカチと名刺入れ。すべて昨日と同じ位置に収まっている。彼の日常は、こうした微細な秩序によって支えられていた。
仕事でもそうだった。経理部で十年。数字は嘘をつかない。足し算も引き算も、決まった答えがある。感情が入り込む余地はない。
「それが楽なんだ」と、慶一は時々思う。
だが最近、ふとした瞬間に考えてしまう。どこかに"自分の感情の通帳"があればいいのにと。預金通帳のように、日々の感情の出し入れが記録されていて、いつでも残高が確認できるような。何を感じ、何を考え、どれだけ蓄積してきたのか。あるいは、どれだけ失ってきたのか。
地下鉄は次の駅に到着した。ドアが開き、乗客が入れ替わる。慶一の席の前に、妊娠しているらしい女性が立った。慶一は彼女に席を譲った。礼を言われ、頭を下げる。それだけのやりとりに、なぜか疲れを感じる。
再び発車する電車の中で、慶一は吊革につかまり、また窓に映る自分を見た。
そこには日々の小さな親切という「投資」を果たした男の顔があった。だが、その顔は無表情のままだった。
第二章「静かな重さ」
川島総合会計の経理部は、いつも静かだった。キーボードを叩く音と、時折聞こえる電話の呼び出し音。それだけが、この空間を満たしていた。
慶一のデスクには、今日も数字の羅列が並ぶ。エクセルシートに数字を入力し、関数で計算し、グラフ化する。何の感情も介在しない作業。それでいて、会社の命運を左右するほどの重要な仕事。
「川島さん、この数字、確認していただけますか」
後輩の佐々木が資料を持ってきた。慶一はそれを黙って受け取り、目を通す。間違いはない。彼は無言で頷き、資料を返した。
「ありがとうございます」
佐々木はそう言って去っていく。会話は最小限。それがこの部署の暗黙のルールだった。数字の世界では、余計な言葉は必要ない。
昼休み、慶一は会社の近くにある蕎麦屋で一人、かけそばを啜った。熱い汁と冷たい空気が口の中で交差する。窓の外では、スーツ姿の人々が忙しなく行き交う。皆、自分の目的地に向かって歩いている。
帰りの電車は、朝よりも混雑していた。慶一は壁に身を寄せ、視線を床に落とした。茶色い床に、様々な靴が並ぶ。革靴、スニーカー、ヒール、ブーツ。それぞれの靴には、それぞれの物語があるのだろう。
家に帰ると、娘の花音が宿題をしていた。十歳の花音は、最近友達と始めた「秘密の言葉」について教えてくれる。慶一は「へえ」「そうなんだ」と相槌を打つだけ。自分が何も返せないことに、どこか申し訳なさを感じる。
妻の幸子は台所で夕食の支度をしていた。「おかえり」という言葉だけを交わし、慶一はリビングのソファに座った。テレビからは、株価の変動について解説するアナリストの声が流れている。上がったり下がったりするグラフを眺めながら、慶一は思う。こうした数字の変動に一喜一憂する人々の気持ちが、どこか遠く感じられると。
夕食後、駅前のコンビニに歯磨き粉を買いに行った。レジでコーヒーも買おうと思ったが、財布を開けると千円札しか入っていなかった。小銭を探す指が、やけに冷たく感じられた。
「百九十八円です」
レジの女性にお金を渡し、「ありがとうございました」と言われる。慶一はそれに頷くだけで、何も言葉を返せなかった。受け取った小銭を、再びポケットに入れる。硬貨の冷たさが、彼の手のひらに広がった。
戻る途中、街灯に照らされた自分の影を見た。それは長く伸び、どこか寂しげだった。慶一はふと考えた。自分の人生も、この影のように何かの光によって形作られているのかもしれないと。自分では気づかないまま、何かに向かって伸びているのかもしれないと。
小銭の重さが、ポケットで静かに沈んでいた。
第三章「穴を掘る夢」
夢の中で、慶一は地面を掘っていた。
場所は特定できない。ただ茶色い土と、その周りを取り囲む草木だけが見える。慶一の手にはシャベルがあり、それで黙々と土を掘り返していた。シャベルは重く、音もなく土を崩していく。
何を掘っているのか、自分でもわからない。だが「もう少しで何かに届く」という確信があった。何かが地中に眠っていて、それを探し出さなければならないという使命感。
土は意外に柔らかく、シャベルを入れるたびに容易に形を変えた。掘り進めるうちに、穴はどんどん深くなっていく。やがて慶一は穴の中に立ち、空を見上げる姿勢になっていた。青い空が、穴を通して小さく切り取られて見える。
さらに掘り進めると、土の色が変わり始めた。茶色から黒へ。そして何か硬いものに当たった。慶一はシャベルを置き、手で土をどかし始める。指先に冷たい感触。それは小さな木箱だった。
箱を取り出そうとした瞬間、目が覚めた。
朝の六時十五分。いつもより十五分早く目覚めたことに、慶一は少し驚いた。体を起こし、手のひらを見る。そこに土の感触が残っているような気がした。もちろん、実際には何もついていない。清潔な手のひらがあるだけだ。
洗面台で顔を洗いながら、夢の内容を思い返す。地面を掘る。何かを探す。見つかりそうで見つからない何か。
「何を掘っていたんだろう」
鏡に映る自分に問いかける。答えはない。ただ、鏡の中の自分は、いつもより少し生き生きとした表情をしているように見えた。何かを求める姿勢が、彼に微かな活力を与えたのかもしれない。
朝食を取りながら、慶一は再び夢について考えた。地面を掘るという行為。それは何を象徴しているのだろう。何かを探す。何かを掘り起こす。あるいは、何かを埋める。
地中には何があるのか。
慶一は箸を持つ手を止め、窓の外を見た。朝日が徐々に街を照らし始めている。昨日までと何も変わらない風景。だが、どこか新鮮に感じられた。
夢の余韻がまだ残っていた。地面を掘り続ける感覚。土の匂い。そして、何かを見つけられるかもしれないという期待感。
慶一は通勤バッグを持ち、玄関に向かった。妻と娘にいつもの「行ってきます」を告げ、ドアを開ける。朝の空気が肌を撫でた。
彼は深く息を吸い込んだ。今日もまた、地下に潜る電車に乗り込むのだ。
第四章「地下室の本棚」
昼休み、慶一はいつもと違う行動を取った。会社の近くにある市立図書館に足を運んだのだ。なぜそうしたのか、自分でもよくわからない。ただ、朝の夢の名残りか、「何か」を探したいという衝動に駆られたのだ。
図書館は古い建物で、地下に広い閲覧室があった。階段を降りていくと、空気がひんやりと変わる。窓がないため、蛍光灯の人工的な明かりだけが空間を照らしている。
閲覧室は驚くほど静かだった。平日の昼間ということもあり、利用者は少ない。数人の学生らしき若者と、年配の男性が黙々と本を読んでいる。慶一は壁際の本棚に向かった。
特に目的もなく、棚を眺める。歴史、文学、科学、芸術。様々な分野の本が並んでいる。慶一の指先が、背表紙の上をなぞっていく。
そして、ふと一冊の本に目が留まった。「植物の根の成長と音」という薄い本だ。なぜこの本に惹かれたのか、自分でもわからない。だが、昨夜の夢と何か関係があるような気がした。
慶一はその本を手に取り、近くの椅子に座った。ページをめくると、さまざまな植物の根の写真と図解が載っている。驚くほど複雑で繊細な根の構造。地中深くまで伸びる根もあれば、浅く広がる根もある。
そして、こんな一文を見つけた。
「根は、音に反応する。水音や振動に向かって伸びる」
慶一はその文章を何度も読み返した。植物の根が、音を聞いているかのように反応するという事実が、妙に心に響いた。見えない地中で、植物は必死に生きようとしている。音を頼りに、水や栄養を探している。
ページをめくっていくと、途中で鉛筆による書き込みを見つけた。誰かが小さな文字で「投資とは希望の音に伸びる根」と書いていた。図書館の本に書き込みをするのは禁止されているはずだが、この文字は消されていなかった。
慶一はその言葉を何度も読み返した。「投資とは希望の音に伸びる根」。自分の仕事である数字の世界、そして朝の夢、そして今読んでいる本。すべてが何かでつながっているような気がした。
彼は本を静かに閉じ、元の場所に戻した。閲覧室を出て、階段を上がり、地上に戻る。明るい日差しに、一瞬目が眩んだ。
会社に戻る道すがら、慶一は考えた。自分の人生も、地中の根のようなものなのだろうか。見えないところで、何かに向かって伸びているのだろうか。そして、その「何か」とは一体何なのか。
ポケットの中の小銭が、歩くたびに小さな音を立てた。
第五章「娘と落ち葉と雨粒」
土曜日の朝、慶一は娘の花音と近所の公園に出かけた。妻の幸子は友人との約束があり、慶一が花音の相手をすることになったのだ。
十一月初旬の公園は、落ち葉で覆われていた。茶色や赤、黄色の葉が地面を彩り、歩くたびに靴の下で音を立てる。花音は嬉しそうに駆け回り、気に入った落ち葉を拾い集めていた。
「お父さん、これきれいでしょ？」
花音が見せてくれたのは、真っ赤に染まったモミジの葉だった。慶一はそれを受け取り、光に透かして見た。葉脈が透けて見え、まるで小さな生き物の血管のようだった。
「きれいだね」
慶一は素直にそう答えた。小さな自然の造形に、思いがけない感動を覚える。
花音は拾った落ち葉を並べて遊んでいた。慶一は少し離れたベンチに座り、娘の様子を見守った。公園には他にも親子連れが数組いて、皆それぞれの時間を過ごしている。
しばらくすると、花音が何やら落ち葉の裏側に何かを書き始めた。慶一が近づくと、花音はボールペンで葉の裏に文字を書いていた。
「何を書いているの？」
「ねがい」
花音はそう答え、書き終えると慶一に見せた。「おおきくなあれ」と、子どもらしい字で書かれていた。
「これ、うえといたら なにがさくかな」
花音の質問に、慶一は少し考えた。落ち葉は既に木から離れ、命を終えた存在だ。それを植えても何も生まれない。科学的な事実を告げるべきか。
だが、慶一はそうしなかった。
「きっと花が咲くよ」
花音は満足そうに微笑み、その落ち葉を大事そうに手に握った。
帰り道、突然小雨が降り始めた。慶一は持っていた折りたたみ傘を開き、花音と一緒にその下に入った。雨は次第に強くなり、地面に落ちる雨粒の音が響き始めた。
公園の土の上に落ちる雨粒。アスファルトの上に落ちる雨粒。植え込みの上に落ちる雨粒。すべて違う音を立てている。慶一はその音の違いに、不思議と心を奪われた。
特に土の上に落ちる雨粒の音が、やけにやさしく響いていた。それは地中へと染み込んでいく水の音。植物の根が聞いているという「水の音」かもしれない。
花音が大事そうに握っていた落ち葉が、雨に濡れて少し色が変わった。花音は気にせず、それを服のポケットにしまい込んだ。
慶一は不意に、地下鉄の窓に映る自分の顔を思い出した。毎日見ているはずの顔なのに、今はどこか遠くに感じられた。代わりに、今雨に濡れている自分の顔の方がずっと実感があった。
家に帰り、ずぶ濡れになった靴を脱ぎながら、慶一は思った。
雨に濡れた土の中で、今、何かが始まっているのかもしれない。
第六章「だれにも見えない貯金箱」
日曜日の午後、慶一は押し入れの整理をしていた。久しぶりに奥まで手を伸ばすと、埃をかぶった古い箱が出てきた。開けてみると、大学時代から保管していた書類やノートが入っていた。
その中に一冊のノートがあった。表紙には「投資計画」と書かれている。十年以上前、慶一が社会人になりたての頃に書いたものだった。
ノートをめくると、様々な株式や投資信託の名前と、購入時期、目標額などが細かく記されていた。若かりし日の慶一は、三十五歳までに一千万円の資産形成を目指すと書いていた。
今の慶一は、経理の仕事で数字を扱う毎日だが、自分の未来のための投資はほとんどしていなかった。給料のほとんどは生活費と住宅ローンに消え、残りは「いつか使うかもしれない」と思って普通預金に入れていた。特に目標もなく。
ノートを眺めながら、慶一は祖母の言葉を思い出した。子供の頃、よく祖母の家に遊びに行っていた時のことだ。
「慶一や、気持ちも貯金できたらいいのにねぇ」
当時は何となく聞き流していた言葉だが、今になって妙に心に響く。
祖母の言っていた「気持ちの貯金」とは何だったのだろう。それは単なる「お金」の話ではなかった。それは「時間をかけること」「気持ちをしまっておくこと」「何も起きない日々を信じること」だったのかもしれない。
慶一は古いノートをそっと閉じた。これは彼の過去の夢だった。数字に表せる夢。だが今、彼の中には別の種類の「投資」への思いが芽生えていた。
数字では測れない。目に見えない。それでいて、確かにそこにあるもの。
慶一は迷わず、古い投資ノートをゴミ箱に入れた。捨てる時の気持ちは、意外なほど晴れやかだった。
リビングでは、花音が昨日の落ち葉をテーブルに並べていた。幸子もそれを手伝っている。二人の笑い声が部屋に響いていた。
慶一はその様子を見ながら、再び祖母の言葉を思い出した。「気持ちの貯金」。それは今、この家の中に少しずつ蓄積されているのかもしれない。
夕方、慶一は家族で夕食を取りながら、久しぶりに自分から話題を振った。
「来週末、どこか行こうか」
幸子と花音は少し驚いた様子だったが、すぐに嬉しそうな顔になった。二人は行き先について話し始め、慶一もその会話に加わった。何の変哲もない家族の会話。だが、そこには確かな温もりがあった。
夜、就寝前に慶一はベランダに出た。星空を見上げる。星々は遠く、手の届かないところにある。だが、その光は確かに地上まで届いている。
慶一は両手をポケットに入れた。右のポケットに小銭。左のポケットには、いつの間にか花音がくれた落ち葉が入っていた。
第七章「根が張る音」
二週間が過ぎた。慶一の日常は、表面上は変わらない。毎朝同じ時間に起き、同じ電車に乗り、同じ会社で働く。だが、何かが少しずつ変わり始めていた。
会社では、後輩の佐々木に自分から話しかけるようになった。単なる仕事の指示ではなく、相手の考えを聞くようにした。佐々木は最初は戸惑っていたが、次第に自分の意見を述べるようになった。それは慶一にとっても新鮮な体験だった。
家でも、妻の幸子との間に会話が戻り始めていた。会話は短く、特別なことを話すわけではない。天気のこと、近所のスーパーのセールのこと、テレビで見た番組のこと。ごく日常的な話題だ。でも、以前より少しあたたかい会話になっていた。
ある夜、慶一は寝室で本を読んでいた。図書館で借りてきた「植物の生態と環境」という本だ。ふと部屋の外から物音がして、慶一は廊下に出てみた。
リビングの床に、花音が座っていた。花音の前には、小さな植木鉢が置かれている。先日買った観葉植物だ。花音はその植木鉢の下に耳を近づけ、何かを聞こうとしていた。
「花音、何してるの？」
「おとが、するきがする」
花音は真剣な顔で答えた。慶一は首を傾げ、花音の横に座った。
「どんな音？」
「わからない。でも、なにかうごいてる」
慶一も植木鉢に耳を近づけてみた。もちろん、実際に音が聞こえるわけではない。だが、そこにある「生命」を感じることはできた。土の中で、見えないところで、確かに根が伸びている。水を吸い、栄養を取り込み、成長している。
慶一は目を閉じた。耳を澄ませば、心の奥で"何かが動いている音"が聞こえてくるような気がした。それは自分の内側から湧き上がる何か。名前のない感情。言葉にならない思い。
「聞こえるよ」
慶一は静かに答えた。花音は嬉しそうに笑った。
その晩、慶一は再び夢を見た。今度は地面を掘ってはいなかった。代わりに、広大な畑のような場所に立っていた。土の上に立ち、足元を見下ろすと、透明な地面を通して、地中の様子が見えた。無数の根が張り巡らされ、それらが少しずつ動いている。まるで呼吸をしているかのように。
目覚めた時、慶一は不思議な充実感を覚えた。何かが始まっている。見えないところで、確かに何かが成長している。
朝の通勤電車で、慶一は久しぶりに窓に映る自分の顔を見つめた。以前と同じ顔のはずなのに、どこか違って見えた。何が変わったのかは、自分でもよくわからない。
ポケットに手を入れると、小さな落ち葉が指先に触れた。花音がくれた落ち葉だ。慶一はそれを大事そうに握りしめた。
第八章「地中へ」
十二月初旬の朝、慶一はいつものように地下鉄に揺られていた。外は雪が降り始めていたが、地下にいる限り、季節の変化は感じられない。
ポケットには、花音がくれた落ち葉が入っている。もう乾いてカサカサになっていたが、慶一はそれを捨てられなかった。ささやかな「気持ちの貯金」のようなものだった。
窓には今日も自分の顔が映っている。かつては空虚に感じたその顔だが、今はもう違う。そこにはかすかな期待と、静かな自信が宿っていた。
慶一は思い返した。この数週間で、彼の中で何が変わったのだろう。特別なことは何も起きていない。ただ、見えないところで、少しずつ何かが育っていた。
植物の根のように。
地下鉄は新宿御苑前駅に着いた。慶一は駅を出て、いつもと違うルートで会社に向かった。少し遠回りになるが、公園の脇を通る道だ。
公園の植え込みは、うっすらと雪に覆われていた。春と夏、秋と冬。季節は巡り、植物たちは自らの姿を変えながら生き続ける。地上の部分は枯れても、地中には根が生きている。
慶一は立ち止まり、植え込みを見つめた。表面からは見えないが、地中では今も様々なことが起きている。眠っている種や球根。休眠している根。それらは春になれば、再び芽吹くだろう。
ポケットの落ち葉を取り出し、慶一はそっと植え込みの上に置いた。「おおきくなあれ」と書かれた花音の願いを、大地に返す。
落ち葉は植物に戻ることはない。だが、やがては土に還り、次に生まれる命の養分となる。それもまた、一つの「投資」だと慶一は思った。
会社では、今日も数字の世界が待っている。エクセルシートに向かい、慶一は今日の業務を始めた。変わらない日常。しかし、その意味は少しずつ変わりつつあった。
数字と向き合いながら、慶一は考えた。「投資」とは何なのだろう。それは単にお金を増やすことだけなのだろうか。
いや、本当の投資とは、見えないものに心を委ねること。時間をかけて育てること。すぐには結果が出なくても、信じ続けること。
会社帰り、慶一は図書館に立ち寄った。「植物の根の成長と音」の本を再び手に取る。あの鉛筆の書き込みを、もう一度確かめたかった。
「投資とは希望の音に伸びる根」
その言葉に、慶一は静かに頷いた。
地下鉄の中、慶一は再び窓に映る自分の顔を見た。そこにはもう、空虚さはなかった。そこにあるのは、地中に預けた何かが、まだ見えなくても、確かにそこにあると信じる男の顔だった。
外の世界は雪に覆われていく。白い雪の下で、春を待つ無数の命。慶一もまた、自分の中の何かが芽吹くのを、静かに待ち続けることにした。
地上へと続く階段を上りながら、慶一はポケットに手を入れた。ポケットの中は空っぽだった。だが、その空虚さは寂しいものではなく、むしろ可能性に満ちているように感じられた。
地中に投資した種が、いつか花開く日まで。
おわり
最後まで読んで頂いて有難うございました。
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