夢を食べる人達がいると、誰かが言った。
夢は希望のようで、時に心を蝕む重荷となる。
それでも人は、夢を胸に抱き、生きていく。
プロローグ
夢を食べる人達——
この世のどこかに、夢を食べて生きる人々がいるという噂がある。
夢は希望であり、同時に重荷でもある。
この物語は、そんな夢を胸に抱き、やがてその重みに押しつぶされそうになりながらも、再び小さな灯を見つけた一人の男の物語だ。
東京の通勤電車は、今日もぎゅうぎゅう詰めだ。
窓の外は灰色のビル群が延々と続き、車内の人々の顔には、疲れと諦めが貼り付いているように見える。
誰もがスマホを覗き込み、あるいは目を閉じ、この現実から少しでも逃れようとしている。
進（すすむ）もまた、その一人だった。
吊革に掴まり、揺れる車体に合わせて体を揺らす。
目の前の広告には、南国のリゾートの煌びやかな写真。
だが、進の心は微動だにしなかった。
かつては、こんな写真を見るたびに胸を焦がしたはずなのに。
夢は希望であり、同時に心を蝕む重荷になることもある。
そのことを、進は誰よりもよく知っていた。
第一章：淡い夢
二十歳の進は、希望に満ちた青年だった。
大学の薄汚れたアパートの一室には、世界地図が壁一面に貼られ、色とりどりのピンが刺さっている。
インド、モロッコ、ペルー、エジプト……。
その横には、雑誌の切り抜きや、自分で描いた下手なイラストがごちゃ混ぜに貼られていた。
イラストの中の自分は、ボロボロのバックパックを背負い、日焼けした顔で満面の笑みを浮かべていた。
「俺さ、卒業したら絶対、世界中を旅するんだ」
夜更けまで友人と語り合った。
安物の焼酎を回し飲みしながら、将来の夢を熱く語り合った。
あの頃の自分は、無限の可能性を信じて疑わなかった。
旅先で出会う人々、見たことのない景色、そして何よりも、未知の自分との出会い。
そんな想像をするだけで、胸が高鳴り、眠れない夜を過ごしたものだ。
ノートには、綿密な「世界一周計画」がぎっしりと書き込まれていた。
予算、ルート、必要な語学力、訪れるべき世界遺産リスト。
それは、進にとっての聖典だった。
だが、現実の大学生活は、時に夢の邪魔をした。
テスト勉強、バイト、サークル活動。少しずつ、地図を眺める時間は減っていった。
将来の不安も忍び寄る。
漠然とした「就職」という二文字が、自由な旅の夢に影を落とした。
親は言った。「堅実な道を選びなさい」「安定した会社に入りなさい」。
その言葉は、まるで夢に薄い膜を張っていくようだった。
それでも、進は「まだ大丈夫」「きっとできる」と自分に言い聞かせた。
心の中には、まだ、あの頃の燃えるような夢が確かに息づいていた。
ただ、少しだけ、その色が淡くなっていくだけだと、そう思っていた。
第二章：夢を胸に抱えた大人
大学を卒業し、都内の大手商社に就職した進は、社会の荒波にもまれながらも、夢を諦めない自分であろうとした。
最初の数年間は、まだ心の片隅に「いつかは旅に出る」という希望が灯っていた。
休日の書店では、真っ先に旅行本のコーナーへ向かい、美しい写真が満載のガイドブックを買い集めた。
インドの喧騒、モロッコの迷宮、ペルーの壮大な遺跡。
ページをめくるたびに、心がわずかに浮き立つ。
SNSでは、世界を旅する人々の投稿を眺め、彼らの写真に「いいね」を押しながら、まるで自分が旅しているかのように心を奮い立たせた。
けれど、現実は甘くなかった。
仕事は朝から晩まで続き、残業は当たり前。
飲み会や接待ゴルフも、重要な仕事の一部だった。
上司からの厳しいプレッシャー、同僚との競争、そして顧客からの無理難題。
日々は慌ただしく過ぎ去り、休日は疲労困憊で眠りこけるか、あるいは溜まった家事や付き合いで潰れていった。
「疲れてるな、俺」
鏡に映る自分の顔は、学生時代にはなかった影を宿していた。
旅行本は本棚の奥に追いやられ、SNSで旅の投稿を見るのも億劫になった。
代わりに手にするのは、経済誌やビジネス書ばかり。
目標は「目の前の仕事をこなすこと」に変わっていった。
同期が次々と結婚し、家族を持つ姿を見ていると、焦りも募る。
「安定」という言葉の重みが、夢の自由さをかき消していく。
それでも、進は自分に言い聞かせた。「まだ諦めていない。今は準備期間なんだ」と。
しかし、その声は、日に日に小さくなっていった。
夢は、まるで分厚い本の中に挟まれた押し花のように、少しずつ色褪せ、形を失い、手の届かない遠い場所へと遠ざかっていくのを感じていた。
それは、自分でも気づかないうちに、静かに心を蝕むように、夢を食べる人達に少しずつ夢を捧げているような日々だった。
第三章：忘却
結婚し、やがて息子が生まれた。息子の名は**俊（しゅん）**といった。
進の生活は、完全に「家族のため」へとシフトした。
俊が成人した頃には、進はすでに四十代の半ばに差し掛かっていた。
息子の大学の学費、卒業後の就職活動、そして家のローン、昇進試験のプレッシャー。
夢は、心の奥底どころか、意識の隅にさえ上らなくなった。
忙殺される日々の中で、「世界を旅する」という言葉は、遠い異国の空のように、手の届かない、そして思い出すことさえなくなった「過去の遺物」となっていた。
会社での評価は順調で、着実に役職は上がっていった。
部下もでき、責任も増え、進は「デキる上司」として認められていた。
妻は献身的で、息子は素直に育った。
外から見れば、絵に描いたような「成功した大人」の姿だった。
だが、進はどこか満たされない感覚を抱えていた。
それは、日々の忙しさの中で意識の奥底に沈んだ、何か大切なものの喪失感だったのかもしれない。
週末のゴルフでは、同僚たちが定年後の夢を語り合う。
趣味の話、海外旅行の話、悠々自適なセカンドライフの話。
進は、曖昧な笑顔で相槌を打ちながら、自分の心の中にある「夢」という言葉が、どこか遠い他人の物語のように感じられた。
ある夜、疲れて帰宅し、ソファに倒れ込んだ。
テレビでは旅番組が流れている。
エキゾチックな街並み、豊かな自然。
かつて自分が憧れた光景が、まるで絵葉書のように映し出される。
だが、進の心は何も感じなかった。
それは、もう自分とは無関係な、手の届かない場所にあるものだと、無意識のうちに切り捨てていた。
進は「大人」として、日々をこなすだけの存在になっていた。
朝起きて、会社に行き、働き、家に帰って寝る。そのサイクルをただ繰り返す。
それが、人生なのだと信じ込もうとしていた。
夢を食べる人達は、きっと、こうして静かに夢を飲み込んでいくのだろう。
気づかないうちに、それが当たり前になっていく。
第四章：思い出し
五十五歳を目前にしたある日、進は自宅の書斎の整理をしていた。
普段は開けることのない古い段ボール箱の底から、埃を被った一冊のノートを見つけた。
それは、大学時代に肌身離さず持ち歩いていた「世界一周計画」のノートだった。
表紙には、若き日の拙い文字で「夢」と書かれている。
ページをめくると、色褪せた世界地図、切り抜きの写真、そして勢いよく書き込まれた旅の計画が目に飛び込んできた。
インドのターバンを巻いた自分のイラスト、モロッコの市場のスケッチ、ペルーのマチュピチュの雄大な想像図。
そこには、二十歳の自分が、目を輝かせながら描いた未来が詰まっていた。
「……こんなこと、考えてたんだっけな」
指でなぞると、紙の感触がひどく懐かしく、そして遠いものに感じられた。
何十年も忘れていた夢が、乾ききった心に、さざ波のように静かに広がっていく。
それは、甘く、同時に切ない感覚だった。
翌朝の通勤電車。
いつものように灰色の景色が流れていく。
進は窓に映る自分の顔をじっと見た。
無表情で、どこか疲れた、そして夢を忘れてしまった男の顔がそこにあった。
「本当に、これでいいのか？」
心の奥底から、小さな問いかけが響いた。
それは、まるで二十歳の自分が、時を超えて問いかけているようだった。
あの頃の輝くような夢は、一体どこへ行ってしまったのだろう。
自分は、一体何のために、ここまで生きてきたのだろう。
ふと、寂しさが込み上げてきた。
夢を忘れて生きる自分が、ひどく哀れに思えた。
まるで、心の中の大切な一部が、知らぬ間に抜き取られてしまったかのように。
もしかしたら、自分はもう、夢を食べる人達に、ほとんど全ての夢を食べ尽くされてしまったのかもしれない。
第五章：決断
五十五歳、進は早期退職を決意した。
会社からは慰留された。
長年勤め上げてきた会社を辞めるという選択は、周囲を驚かせた。
妻も息子も困惑の表情を隠せない。
「今さら、何考えてるの、お父さん」
俊が、少し呆れたような口調で言った。
進は、かつて自分の夢を語っていた学生時代を思い出した。
あの頃の自分なら、こんな親の決断を、きっと無謀だと笑っただろう。
「自分のために生きたいんだ」
進はそう答えた。
それは、自分自身にも言い聞かせている言葉だった。
漠然とした後悔の念に背中を押され、このままでは本当に「何もない人」になってしまうという焦燥感が、進を突き動かしていた。
若い頃のように無謀な冒険ではない。
バックパック一つで世界を飛び回る体力も気力も、もうないだろう。
それでも、等身大の自分で、もう一度、あの頃の夢を追いかけてみたい。
その気持ちが、進の中で静かに燃え上がっていた。
図書館で旅行ガイドブックを借り、ノートに旅の計画を練り始めた。
昔のような緻密な計画ではなく、もっと自由で、気ままな旅。
行きたい場所をいくつかピックアップし、地図を広げる。
バックパックを買いにスポーツ用品店へ行き、店員に質問しながら最適なものを選んだ。
それは、まるで初めて自転車に乗る子供のような、ぎこちないけれど、確かな高揚感だった。
もちろん、不安はあった。
見知らぬ土地での言葉の壁、体力の限界、そして本当に夢を叶えられるのかという漠然とした恐怖。
だが、それよりも「このまま後悔の人生を送る」ことへの恐れの方が勝っていた。
「遅すぎることはない」
ノートの余白に、進はそう書き込んだ。
夢を夢で終わらせない覚悟が、ようやく心の奥底から芽生え始めていた。
第六章：旅立ち
家族に見送られ、進は空港にいた。
息子は、以前とは違う、少し大人びた眼差しで進を見た。
「気をつけてな。土産話、楽しみにしてる」
妻は、心配そうな顔で進を出迎えたが、すぐにその表情を緩めた。
「無理しないでね。いつでも連絡してきて」
少しだけ寂しそうにも見えたが、その表情には、進の新しい挑戦を応援する気持ちが感じられた。
飛行機が離陸し、窓の外に東京の夜景が広がる。
点々と瞬く光が、小さく遠くなっていく。
初めて降り立つ異国の地。
見知らぬ街の風が、進の頬を撫でる。
懐かしいはずの心の高鳴りが、確かにそこにあった。
それは、かつて二十歳の自分が感じた、あの高揚感とほとんど同じものだった。
旅は順調ではなかった。
言葉の壁にぶつかり、道に迷い、不慣れな土地でトラブルに見舞われることもあった。
体調を崩すこともあったし、時に孤独感に襲われることもあった。
だが、そんな困難さえも、進にとっては新鮮な経験だった。
会社では、すべてが効率的に進むのが当たり前だった。
失敗は許されず、トラブルは即座に解決されるべきものだった。
だが、旅では、すべてが自分の責任。
解決策を見つけるために、必死で考え、時には見知らぬ人に助けを求める。
「ありがとう」
初めて、現地の言葉で感謝の言葉を伝えた時、相手の笑顔が心に沁みた。
旅の途中で、進は様々な人々と出会った。
同じようにバックパックを背負い、世界を旅する若者たち。
定年後に夫婦で世界一周をしているという日本人夫婦。
そして、人生の目的を探して旅をしているという欧米の青年。
彼らは皆、目を輝かせながら、自分の夢や、旅で見つけた発見について語った。
進は、彼らの話に耳を傾けながら、かつての自分と、そして今の自分を重ね合わせた。
ある日の夕暮れ、海岸沿いの小さなカフェで、進は同じ旅人である女性と話していた。
彼女はかつて大手企業でバリバリ働いていたが、ある時「本当にこのままでいいのか」と疑問を感じ、会社を辞めて旅に出たという。
「私も、ずっと夢を忘れてたんです。でも、旅に出て、やっと自分を取り戻せた気がして」
彼女の言葉に、進は深く頷いた。
夢を叶えることの意味を、一歩一歩、噛み締める旅だった。
それは、ただ世界を巡るだけでなく、失いかけていた自分自身を取り戻す旅でもあった。
第七章：夢を食べる人達
旅先の小さな港町で、進は一人の老人と出会った。
老人は、日焼けした顔に深い皺を刻みながら、海をじっと見つめていた。
進は、隣のベンチに座り、何とはなしに老人に話しかけた。
老人は、ゆっくりと顔を向け、穏やかな笑顔で進に答えた。
「おや、旅の人かい？」
老人はかつて、世界中を船で旅する冒険家だったという。
嵐を乗り越え、未知の島々を探し、幾多の困難を乗り越えてきた。
まさに、進がかつて夢見た「夢を叶えた人」だった。
老人は語った。夢を追い、叶えた後もなお、「夢」を探し続けているという。
「夢ってのはね、一度叶えて終わりじゃないんだよ」
老人は、遠くの水平線を指差しながら言った。
「叶えた夢は、心の糧になる。それを食べ、消化して、人は成長する。そして、また新しい夢を探すんだ」
老人の言葉に、進はハッとした。
「夢を食べる人達」——それは、夢を諦めてしまう人々のことだと思っていた。
しかし、老人の言葉は違った。
夢を食べる人達とは、叶えた夢を自分の血肉とし、それを糧にして、また次の夢へと歩み続ける人々のことなのだ。
「夢はね、希望であり、同時に心を育む糧なんだよ。だから、夢を諦めちゃいけない。形が変わってもいい。小さくなってもいい。ただ、夢を食べ続けて、生きる力を得ていくんだ」
老人の言葉は、進の心に深く響いた。
自分は、かつて夢を食べることをやめ、夢を押し込めて、飢えていたのかもしれない。
そして、五十代になってようやく、再び夢を食べ始めたのだ。
進は、自分が「夢を食べる人達」の一人になれたことを、静かに実感した。
夢を失いかけた自分も、その意味では、夢に食われていたのだ。
だが、今、新たな夢を糧として、生きる力を取り戻しつつある。
エピローグ
旅の終わりに、進は再び家族のもとへ戻った。
家に着くと、息子が玄関まで駆け寄ってきた。
「お父さん！おかえり！」
俊は、以前とは違う、少し大人びた眼差しで進を見た。
進は、そんな息子の成長を眩しく感じた。
妻は、心配そうな顔で進を出迎えたが、すぐにその表情を緩めた。
「随分、日焼けしたわね」
旅を終えた進は、以前よりもどこか優しい父親、夫になっていた。
話す言葉は穏やかになり、家族の話に耳を傾けるようになった。
旅先での出来事を語る進の目は、以前よりもずっと輝いていた。
「お父さん、なんだか楽しそう」
息子が言った。
「ああ、楽しいよ。世界は広いし、面白いことがいっぱいある」
進は、自分の言葉が、息子に何かを伝えていることを感じた。
それは、言葉ではなく、生き方で示すメッセージだった。
夢を追い続ける姿が、きっと、息子の心にも小さな火を灯しただろう。
自分の心に小さな灯を灯すことで、周りの人々にもその光が届くことを知った進は、静かに微笑んだ。
それは、かつて社会の歯車として、ただ日々をこなしていた頃の自分にはなかった、穏やかで満ち足りた笑顔だった。
人生に「遅すぎる」ということはない。
夢を忘れていても、夢を諦めかけていても、もう一度、心の中に新しい夢の種を蒔くことはできる。
そして、その夢を育て、食べ、次へと繋いでいくことこそが、人生を豊かにする道なのだ。
進は、旅で出会った老人の言葉を胸に刻んだ。
「夢を持つことは、夢を食べることだ。」
夢は希望であり、同時に心を育む糧。
進は、これからも夢を食べ続け、人生という旅を歩んでいくだろう。
そして、いつかまた、新しい夢の地平線を目指すのだ。
おわり
おわり
最後まで読んで頂いて有難うございました。
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