AI短編小説｜約束の次の日 - AIがそばにいる生活。

ふとした瞬間に誰かと約束を交わす。
それが酒の勢いでも、照れ隠しでも、きっと何かの意味がある。
問題は、その約束を覚えているかどうかだ。

第1章：ひとりの夜は、うまく飲めない
第2章：30分前である
第3章：図書館とドーナツと、でっかい失敗
第4章：約束の"次"の話

第1章：ひとりの夜は、うまく飲めない

片桐拓馬は、生まれて初めて一人で居酒屋に入ろうとしていた。
駅前の小さな飲み屋街。提灯がぼんやりと暖かな光を放ち、どこからともなく焼き鳥の匂いが漂ってくる。平日の夜だというのに、そこそこ人通りがあって、拓馬は少しほっとした。一人で飲み屋に入る人間が、自分だけではないと分かったからだ。
「いらっしゃい」
暖簾をくぐると、まず煙草の匂いと、何かを炒める音が耳に飛び込んできた。カウンター席に案内されて、拓馬は硬い表情のまま腰を下ろす。
「何飲む？」
店主らしき中年男性に声をかけられて、拓馬は少し慌てた。
「あ、えーっと」
メニューを見ながら、心の中で必死に考える。ビールか、それとも何か格好いい名前のカクテルか。でも、カクテルの名前なんて知らない。結局、無難な選択に落ち着いた。そしてただの居酒屋である。
「生ビール、お願いします」
「中ジョッキね。おつまみは？」
「あ、えーっと、何がおすすめですか？」
「焼き鳥とか？」
「じゃあ、それで」
なんとかオーダーを済ませて、拓馬は小さくため息をついた。営業職になって一年。上司に「たまには一人でも飲みに行けるようになれ」と言われ続けて、ようやく重い腰を上げたのだ。
でも、やっぱり緊張する。
隣を見ると、一人で飲んでいる女性がいた。年上に見える。落ち着いた雰囲気で、文庫本を片手にゆっくりとお酒を楽しんでいる。拓馬は、そんな大人の余裕に少し憧れを感じた。
「はい、お待ち」
ビールが運ばれてきて、拓馬は慎重に口をつけた。普段は会社の飲み会でしか飲まないビールが、なぜかいつもより苦く感じる。
「初めて？」
突然、隣の女性に声をかけられて、拓馬は咳き込んだ。
「え？　あ、はい。一人で飲むのは初めてなんです」
「緊張してるのが丸分かり」
女性は薄く笑いながら、本を閉じた。拓馬は顔が熱くなった。
「そんなに分かりますか？」
「肩がガッチガチだもん。あと、メニューを10分くらい眺めてたでしょ」
「うわあ、恥ずかしい」
拓馬は苦笑いした。隣の女性は、どこか人懐っこい雰囲気があった。
「でも、一歩踏み出したのはえらいと思うよ。私も最初はドキドキした」
「ありがとうございます。あの、お一人で飲むのって、慣れるものですか？」
「んー、慣れるというか、楽しくなるかな。誰かに気を遣わなくていいし、好きなペースで飲める」
女性は再びグラスを口に運んだ。拓馬は、その仕草がとても自然で、羨ましいと思った。
「お仕事は何されてるんですか？」
「図書館で働いてる。藤森彩花です」
「片桐拓馬です。営業をやってます」
「営業かぁ。大変そう」
「まだ慣れなくて。人と話すのも苦手だし」
「でも今、私と普通に話してるじゃん」
彩花の言葉に、拓馬ははっとした。確かに、いつの間にか緊張がほぐれていた。
「本当ですね。不思議」
「お酒の力もあるんじゃない？」
そう言って、彩花は拓馬のビールを指差した。グラスは、いつの間にか半分以上空になっていた。
二人の会話は、そこから自然に続いた。拓馬が営業で失敗した話、彩花が図書館で出会う変わった利用者の話。時間が経つのを忘れるほど、話が弾んだ。
「あ、もうこんな時間」
彩花が時計を見て呟いた。11時を回っている。
「終電、大丈夫ですか？」
「まだ大丈夫。片桐さんは？」
「僕も。でも、そろそろお店が」
店主が、そろそろ閉店の準備を始めている。二人は慌てて会計を済ませて、店を出た。
夜風が心地よかった。初夏の手前、まだ涼しさの残る5月の夜。街はすっかり静まり返っていて、遠くで終電の音が聞こえる。
「今日は楽しかった」
彩花が振り返って言った。
「僕もです。おかげで、一人飲みデビューできました」
「良かった。また機会があったらね」
そう言って彩花が歩き出そうとしたとき、拓馬は思わず声をかけた。
「あ、あの」
「ん？」
「もしよろしければ、今度、お昼にでも」
自分でも驚くほど自然に言葉が出た。お酒の勢いもあったかもしれない。
「いいよ。明日、時間ある？」
「え？　明日ですか？」
「うん。お休みでしょ？　土曜日だし」
拓馬は少し戸惑った。こんなに早く次の約束をするなんて思ってもいなかった。
「はい、大丈夫です」
「じゃあ、13時に図書館の前で」
彩花はさらりと言って、手を振った。
「連絡先、交換しましょう」
慌ててスマホを取り出す拓馬。LINEを交換して、彩花は名前の横に本の絵文字を付けた。
「明日、楽しみにしてる」
そう言って、彩花は駅の方へ歩いて行った。拓馬は、その後ろ姿を見送りながら、まだ現実感がなかった。
家に帰って、拓馬は布団に倒れ込んだ。疲労と、ほろ酔いと、そして少しの興奮が混ざり合って、すぐに眠りについた。スマホの画面を確認することもなく。

第2章：30分前である

「うーん」
拓馬は、うっすらと差し込む日光で目を覚ました。時計を見ると、11時20分。昨夜は思っていたより飲んだのかもしれない。軽い頭痛がする。
キッチンで水を飲みながら、昨日のことを思い出そうとした。一人で居酒屋に行って、隣の女性と話して、それで。
「あれ、何か約束したような」
記憶がおぼろげだった。お酒を飲んだ後の記憶は、いつもこんな風にぼんやりしている。夢だったのか、現実だったのか、境界線が曖昧だ。
洗面所で顔を洗って、ようやく頭がすっきりしてきた。リビングでぼんやりとテレビを見ていると、時間はあっという間に過ぎていく。
昼のニュース番組が始まって、時計を見ると12時半。そういえば、と思ってスマホを手に取った。
「え？」
LINEの通知が来ていた。知らない名前。藤森彩花📖。
『13時に図書館前集合！楽しみにしてます✨』
送信時刻は、今朝の8時。
拓馬は慌てて時計を確認した。12時半。
「やばい、30分しかない！」
急いでクローゼットを開けた。何を着ていけばいいのか分からない。昨日は仕事帰りだったから、スーツだった。今日はカジュアルでいいのだろうか。
「とりあえず、清潔感のある格好を」
白いシャツに、紺のチノパン。無難な組み合わせだ。髪をセットして、歯を磨いて。髪型はなんか変だ。でも時間が無い。
「財布、スマホ、鍵」
必需品を確認して、家を出た。12時38分。余裕で間に合うはずだった。
駅まで走って改札を通った。電車は、運良くすぐに来た。ありがとう世界中の皆さん。
図書館の最寄り駅まで7分。まだ間に合う。拓馬は電車の中で、今日の予定を考えた。図書館の見学でもするのだろうか。それとも、どこかカフェにでも行くのか。
駅に着いて、拓馬は慌てて改札を出た。図書館は、駅から歩いて5分ほどの場所にある。
「ギリ間に合うかも」
と思ったのも束の間、改札でSuicaにタッチしたときに、残高不足のブザーが鳴った。
「え？」
慌てて残高を確認すると、87円しか入っていない。チャージしないと出られない。
「すみません、チャージできますか？」
駅員さんに聞いて、券売機でチャージを済ませる。時間は12時58分になっていた。
「やばい、遅刻する」
拓馬は小走りで図書館に向かった。途中、横断歩道で信号に引っかかり、さらに時間をロスした。
図書館に着いたのは、13時3分だった。
「すみません、遅れました」
息を切らしながら声をかけると、藤森彩花が振り返った。ベンチに座って、本を読んでいる。
「あ、お疲れさま。ギリ遅刻だね」
彩花は笑顔で時計を指差した。怒っている様子は全くない。
「本当にすみません。Suicaの残高が足りなくて」
「あー、あるある。でも3分なら、余裕で許容範囲かな」
彩花は本を閉じて、立ち上がった。昨日は薄暗い居酒屋だったから気づかなかったが、陽の光の下で見ると、思っていたより若く見える。ナチュラルメイクで、どこか親しみやすい雰囲気だ。
「で、今日はどうしましょう？」
「えっと、実は何も考えてなくて」
拓馬は正直に答えた。彩花は少し笑った。
「正直だね。じゃあ、私のおすすめコースで」
「お願いします」
彩花は図書館の裏手を指差した。
「あっちに小さな公園があるの。まずはそこから」
二人は並んで歩き始めた。拓馬は、昨日の記憶を少しずつ思い出していた。確かに、お昼に会う約束をしたのだ。
「昨日はありがとうございました。おかげで、一人飲みができました」
「どうだった？　また一人で行ける？」
「うーん、まだ分からないですけど、少し慣れたかもしれません」
「それは良かった」
公園は小さくて、古い遊具がいくつか置いてあるだけだった。でも、新緑が美しくて、ベンチに座ると心が落ち着いた。
「ここ、よく来るんですか？」
「図書館の休憩時間とか。静かでいいでしょ」
確かに、人通りも少なくて静かだった。時々、犬の散歩をしている人が通りかかるくらいだ。
「今度はどこ行きます？」
「んー、ドーナツ屋さんがあるの。知ってる？」
「ドーナツ屋さん？」
「昔からある、小さなお店。そこのドーナツが美味しいの」
彩花に案内されて、拓馬は商店街の奥にある小さなドーナツ屋に向かった。確かに昔からありそうな、レトロな雰囲気の店だった。

第3章：図書館とドーナツと、でっかい失敗

「いらっしゃいませ」
ドーナツ屋の店主は、60代くらいの優しそうな女性だった。ショーケースには、手作りらしいドーナツが並んでいる。
「何にします？」
彩花が拓馬に聞いた。
「えーっと、どれがおすすめですか？」
「チョコレートのが美味しいよ」
「じゃあ、それで」
拓馬がチョコレートドーナツを注文すると、彩花はシナモンドーナツを選んだ。二人分で300円という、良心的な値段だった。
「外で食べましょう」
店の前にベンチがあって、二人はそこに座った。ドーナツは確かに美味しくて、甘さも控えめだった。
「美味しいですね」
「でしょ？　ここのドーナツ、昔から変わらないの」
彩花は嬉しそうに話した。拓馬は、彼女のそんな表情を見ていて、なんだか心が温かくなった。
「片桐さんって、この辺り詳しくないの？」
「近くだけどあまり来た事ないです。仕事でもこっちには来ないし」
「そうなんだ。じゃあ、案内のしがいがあるね」
彩花は立ち上がって、歩き始めた。拓馬も慌てて後を追う。
「あ」
そのとき、拓馬の左足から嫌な音がした。見ると、スニーカーのソールが剥がれかけている。
「どうしたの？」
「靴が、壊れそうで」
拓馬は恥ずかしそうに足を上げた。確かに、ソールの一部がぺろんと剥がれている。
「あー、それはちょっと危ないね」
「すみません、お恥ずかしい」
「謝ることないよ。そんな日もあるさ」
彩花は全く気にしていない様子だった。拓馬は、そんな彼女の反応に少し救われた。
「でも、歩きにくくないですか？」
「大丈夫です。ちょっと気をつけて歩けば」
そう言った瞬間、拓馬は小さな段差につまずいた。幸い転びはしなかったが、体勢を立て直すのに少し時間がかかった。
「大丈夫？」
「はい、すみません」
拓馬の顔は真っ赤になった。彩花は心配そうに見ていたが、少し笑いを堪えているようにも見えた。
「靴屋さん、この辺りにあったかな」
「いえいえ、大丈夫です。今日は我慢します」
拓馬は慌てて答えた。せっかくの楽しい時間を、靴の買い物で潰したくなかった。
二人はゆっくりと商店街を歩いた。古い喫茶店、雑貨屋、本屋。どの店も、昔からありそうな雰囲気だった。
「のどが渇きませんか？」
拓馬が自販機を見つけて提案した。彩花は頷いて、二人は自販機の前に並んだ。
「何飲みます？」
「ウーロン茶かな」
拓馬は130円を入れて、ウーロン茶のボタンを押した。しかし、何も出てこない。
「あれ？」
もう一度ボタンを押しても、やはり何も出てこない。
「売り切れかな？」
彩花が言った時、自販機から拓馬のお金が返ってきた。どうやら故障しているらしい。
「次の自販機探しましょう」
「すみません、なんかついてないですね」
「気にしない気にしない。そういう日もあるよ」
彩花は笑いながら答えた。拓馬は、自分の不運続きが申し訳なくて、さらに落ち込んだ。
少し歩いて、別の自販機を見つけた。今度は無事にウーロン茶とオレンジジュースを買うことができた。
「やっと買えました」
「お疲れさま」
二人は近くのベンチに座って、飲み物を飲んだ。拓馬は、ここまでの出来事を振り返って、ため息をついた。
「すみません、今日はなんか失敗ばかりで」
「失敗？」
「遅刻して、靴は壊れて、自販機は故障してて」
拓馬は申し訳なさそうに呟いた。彩花は、その様子を見て少し首をかしげた。
「別に失敗じゃないと思うけど」
「え？」
「遅刻なんて、全然気にならないし。靴だって、誰でも壊れる時は壊れるでしょ」
彩花は当たり前のように言った。
「でも、楽しくないですよね。こんなグダグダで」
「楽しくないことなんて、ないよ」
彩花はきっぱりと答えた。
「すごいね、あなた。なにもしなくても面白いんだね」
「面白いって、どういう意味ですか？」
「えーっと、なんか、見てて飽きないというか」
彩花は言葉を選びながら話した。
「悪い意味ではないよ。むしろ、一緒にいて楽しい」
拓馬は、その言葉に少し救われた。でも、同時に複雑な気持ちにもなった。
「僕って、そんなに面白い人間なんですか？」
「面白いというか、なんだろう。真面目すぎるのかな」
彩花は拓馬の顔を見て、微笑んだ。
「もう少し、力抜いてもいいんじゃない？」
その言葉が、拓馬の心に深く響いた。確かに、自分は何事に対しても力が入りすぎているのかもしれない。
「そうかもしれません」
拓馬は素直に答えた。彩花は満足そうに頷いた。
午後の陽射しが少し和らいで、心地よい風が吹いてきた。二人は、しばらく黙ってベンチに座っていた。
「そろそろ夕方ですね」
拓馬が時計を見て言った。16時を過ぎている。
「時間が経つのって早いね」
「本当に。あっという間でした」
拓馬は、今日一日を振り返った。確かに、細かい失敗は続いたけれど、それも含めて楽しい時間だった。
「今度は、どこか違うところにも行ってみたいですね」
「今度？」
彩花が聞き返した。拓馬は、はっとした。
「あ、えーっと、もしよろしければ」
「いいよ。でも、今度はちゃんと覚えておいてね」
彩花は意味深に笑った。拓馬は、昨日の記憶が曖昧だったことを見抜かれていたのだと気づいた。

第4章：約束の"次"の話

夕方の公園は、オレンジ色の光に包まれていた。遊具に子供たちの声が響いて、どこか懐かしい雰囲気だった。
二人は再び図書館裏の小さな公園に戻ってきて、ベンチに座っていた。拓馬は、勇気を出して口を開いた。
「あの、正直に言います」
「なに？」
「昨日の約束、実は半分忘れてました」
拓馬は恥ずかしそうに俯いた。彩花は、少し笑った。
「やっぱり」
「やっぱり、って」
「なんとなく分かってた。お酒飲んだ後の約束って、忘れがちだから」
彩花は全く怒っていなかった。むしろ、予想通りだったという表情をしている。
「怒らないんですか？」
「なんで怒るの？　別に、忘れたって悪いことじゃないでしょ」
「でも、約束は約束ですから」
「真面目だなあ」
彩花は拓馬の様子を見て、苦笑いした。
「でも、結果的に来てくれたから、オッケー」
「ありがとうございます」
拓馬は安堵のため息をついた。彩花は、そんな拓馬を見て何かを思いついたような顔をした。
「じゃあ、次は忘れないように、今、目の前で手帳に書きなさい」
「手帳？」
「スマホでもいいよ。とにかく、記録しておくの」
拓馬は言われるまま、スマホのメモアプリを開いた。
「いつにしましょう？」
「んー、来週の土曜日は？」
「6月3日ですね」
拓馬は「次は6月3日」と打ち込んだ。
「できました」
「よし。で、何するの？」
「え？」
「次回の予定。何します？」
拓馬は慌てた。今度の約束についても、何も考えていなかった。
「まだ、考えてないです」
「また正直だね」
彩花は笑いながら立ち上がった。
「じゃあ、今から考えよう」
「今から？」
「うん。作戦会議」
彩花は拓馬の手を引いて、立ち上がらせた。
「どこで作戦会議するんですか？」
「昨日の店。覚えてる？」
拓馬は昨日の居酒屋を思い出した。確かに、あそこなら落ち着いて話ができる。
「覚えてます。でも、もう開いてますかね？」
「土曜日だし、大丈夫でしょ」
二人は駅前の飲み屋街に向かった。拓馬の靴は相変わらずぺろんと剥がれているが、もう気にならなくなっていた。
居酒屋は、昨日と同じように暖かい光を放っていた。
「いらっしゃい。昨日の」
店主が二人を見て、笑顔を見せた。どうやら覚えていてくれたらしい。
「昨日はありがとうございました」
拓馬は丁寧に頭を下げた。
「今日は二人で来たのね」
「はい。昨日、約束したので」
「いいねえ、若いって」
店主は嬉しそうに言って、昨日と同じカウンター席に案内してくれた。
「何飲む？」
「生ビール二つお願いします」
彩花が先に注文した。拓馬は、彼女の手慣れた様子に少し感心した。
「で、作戦会議ですが」
ビールが運ばれてくると、彩花は真面目な顔をして話し始めた。
「まず、次回の目標を決めましょう」
「目標？」
拓馬は今日一日を振り返った。最初は緊張していたが、今はすっかりリラックスしている。
今日は彩花に案内してもらったが、次回は自分が何かを提案したいと思った。
「僕が、プランを考えてもいいですか？」
「おお、積極的」
彩花は嬉しそうに頷いた。
「どんなことがしたいですか？」
「んー、どこか遠くに行ってみたいかな」
「遠くって、どこですか？」
「隣の県とか。電車で2，3時間くらいの」
彩花の提案に、拓馬は少し驚いた。そんなに遠くまで行くなんて、まるで小旅行みたいだ。
「いいですね。どこか良いところありますか？」
「海が見えるところとか、どう？」
「海！」
拓馬は興奮した。海なんて、久しく見ていない。
「じゃあ、海に決定ですね」
拓馬はスマホのメモに「6月3日　海に行く」と追記した。
「でも、天気が悪かったらどうしましょう？」
「その時はその時で考えればいいよ。雨の海も、それはそれで面白いし」
彩花は気楽に答えた。拓馬は、彼女のそんな姿勢を見習いたいと思った。
「期待してるよ」
彩花はビールのグラスを上げた。拓馬も、自分のグラスを合わせた。
「乾杯」
「乾杯」
小さく乾杯の音が響いた。
「ところで」
彩花が急に真面目な顔をした。
「片桐さんって、普段はどんなことしてるの？」
「普段ですか？」
「休みの日とか」
拓馬は少し考えた。正直に言うと、休みの日はほとんど家にいる。たまに映画を見たり、本を読んだり。
「特に何も。家で映画見たり」
「映画好きなの？」
「まあまあ。でも、映画館にはあんまり行かないです」
「なんで？」
「一人で行くのも、なんだか」
拓馬は苦笑いした。彩花は、その答えに納得したような顔をした。
「じゃあ、今度映画も見に行こうか」
「映画も？」
「海の帰りとか。一日楽しめるよ」
彩花の提案に、拓馬は心が弾んだ。一日中、彼女と過ごすなんて考えただけでワクワクする。
「ぜひ、お願いします」
拓馬はメモに「映画も」と追記した。
「あ、でも」
「なに？」
「僕、映画のチョイスとか苦手で」
「大丈夫。私が選ぶから」
彩花はあっさりと答えた。拓馬は、彼女の頼もしさに安心した。
二人の会話は、そこからさらに弾んだ。仕事の話、趣味の話、昔の話。時間を忘れるほど、楽しい時間だった。
「そろそろ閉店ですよ」
店主が声をかけてきた時には、もう11時を回っていた。
「あ、すみません」
慌てて会計を済ませて、二人は店を出た。
「今日も楽しかった」
彩花が夜風の中で言った。
「僕もです。ありがとうございました」
「次回も楽しみにしてる」
「はい。今度は僕がちゃんと計画立てます」
「頼んだよ」
彩花は手を振って、駅の方へ歩いて行った。拓馬は、その後ろ姿を見送った。
家に帰って、拓馬はスマホのメモを見返した。
「6月3日　海に行く　映画も」
たった一行だけだが、その文字が妙に頼もしく見えた。今度は絶対に忘れない。そう心に誓って、拓馬は眠りについた。
翌朝、拓馬は早起きした。まず、海の近くの駅を調べて、電車の時刻表をチェックした。映画館の上映スケジュールも確認した。
そして、同僚の北条に相談のLINEを送った。
『海デートの注意点って何？』
すぐに返事が来た。
『おお、ついに！日焼け止めと飲み物は必須。あと、帰りの電車の時間をちゃんと調べておけ』
『ありがとう。参考にする』
『頑張れよ』
拓馬は、その日から6月3日まで、毎日楽しみに過ごした。
そして約束の日。
拓馬は、今度は30分早く家を出た。靴も新しいものを買った。財布には十分な現金を入れて、Suicaの残高も確認済みだ。
待ち合わせ場所に着いたのは、約束の時間の15分前だった。
「早いね」
振り返ると、彩花が立っていた。彼女も早く来ていたらしい。
「今度は絶対に遅刻したくなくて」
「真面目だなあ」
彩花は笑いながら言った。
「でも、その真面目さ、嫌いじゃないよ」
その言葉に、拓馬は心が温かくなった。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
二人は並んで駅に向かった。拓馬の足取りは、以前よりもずっと軽やかだった。
「そういえば」
歩きながら彩花が言った。
「片桐さんって、変わったね」
「変わりました？」
「うん。最初に会った時より、自然体になった」
拓馬は、その言葉を嬉しく思った。確かに、彼女と過ごす時間は、自分を変えてくれているのかもしれない。
「彩花さんのおかげです」
「私は何もしてないよ。片桐さんが自分で変わったの」
彩花はさらりと言った。
電車の中で、二人は海での予定を話し合った。砂浜を歩いて、カフェでお茶をして、夕方には映画を見る。完璧なプランだった。
「楽しそうですね」
「うん。きっと楽しい一日になるよ」
彩花は窓の外を見ながら言った。拓馬も、同じ方向を見た。
雲一つない快晴だった。海日和と言ってもいいだろう。
「いい天気ですね」
「うん。海も綺麗に見えるんじゃないかな」
電車は、海に向かって走り続けた。拓馬は、これからの時間が楽しみで仕方なかった。
約束を覚えていること。時間を守ること。相手のことを考えること。
当たり前のことかもしれないが、拓馬にとっては大きな成長だった。
そして何より、彩花という人と出会えたこと。それが一番の財産だった。
「あ、海が見えた」
彩花が指差した方向を見ると、確かに青い海が見えた。キラキラと光って、とても美しい。
「本当だ。綺麗ですね」
「今日は最高の海日和だね」
二人は顔を見合わせて、笑った。
約束の次の日は、新しい一歩の始まりだった。
小さな約束から始まった関係は、きっとこれからも続いていく。
拓馬は、そんな予感がしていた。そして、その予感は間違っていなかった。
ちなみに、見たい映画は上映していなかった。

おわり

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