現実という名の檻から逃れたい者たちが、密かに囁き合う場所がある。
それは「世界のふち」と呼ばれ、そこに辿り着いた者の人生は必ず変わると言われている。
だが、変わるとは、果たして何を意味するのだろうか。
一 夜更けの誘い
坂上幸司は、蛍光灯の青白い光に照らされたアパートの一室で、いつものようにPCの画面を見つめていた。三十五歳という年齢が重く肩に乗り、非正規雇用という不安定な立場が心を蝕んでいく。友人らしい友人もおらず、趣味と呼べるものもない。唯一の楽しみといえば、夜更けにネットの海を漂うことだけだった。
時刻は午後十一時を回っている。今日も工場での単調な作業を終え、コンビニ弁当を流し込むように食べ、シャワーを浴びて、この椅子に座った。まるで決められたレールの上を走る電車のような毎日。坂上は自嘲気味に鼻で笑った。
ブラウザのタブを次々と開いては閉じる。ニュースサイト、動画サイト、匿名掲示板。どれも似たような内容で、心を満たしてくれるものは何もない。そんな時、ある掲示板の書き込みが目に留まった。
『世界のふちって知ってる？』
その下に続く文章に、坂上は思わず身を乗り出した。
『そこに行くと、自分の人生が変わるらしい。ただの都市伝説かもしれないけど、実際に行った人の話を聞いた。場所は松原市の郊外、末広駅からバスで三十分。詳しい住所は清水3丁目15番地付近。興味ある人は一度行ってみるといい』
坂上は画面をスクロールし、続く書き込みを読んだ。半信半疑のレスが大半だったが、中には「実際に行った」という体験談もあった。どれも曖昧で、具体的な内容は語られていない。それがかえって好奇心を掻き立てた。
気づけば午前二時を過ぎていた。坂上は無意識のうちに、その住所を地図サイトで検索していた。確かに存在する場所だった。電車とバスを乗り継げば、片道二時間ほどで行ける距離にある。
「こんなことして何になる？」
坂上は呟いた。どうせガセネタか、面白半分の悪戯だろう。それでも、週末の土曜日に訪れてみることを決めた自分に、少し驚いていた。
二 荒野の石碑
土曜の朝、坂上は電車に揺られていた。普段なら昼過ぎまで眠り続けているはずの時間に、なぜか目が覚めてしまった。まるで何かに呼ばれているような感覚だった。
終点の末広駅は、平日でも閑散としているという噂通りの寂しい駅だった。バスの本数も少なく、平日の半分以下しか運行していない。坂上は時刻表を確認し、次のバスまで三十分ほど時間があることを確認した。
駅前のコンビニで缶コーヒーを買い、ベンチに座ってスマートフォンをいじっていると、やがてバスがやってきた。乗客は坂上を含めて三人だけ。運転手は無愛想で、車内にはエンジン音だけが響いていた。
目的のバス停で降りると、そこは本当に何もない場所だった。田畑が広がり、その向こうに住宅らしき建物がぽつぽつと見える程度。坂上は掲示板で見た清水3丁目15番地付近という住所を頼りに、細い農道を歩き始めた。
三十分ほど歩いただろうか。前方に廃墟のような建物群が見えてきた。かつては工場か何かだったのかもしれない。錆びた看板や壊れた窓ガラスが、この場所の荒廃を物語っている。
その一角に、妙に不自然な空き地があった。周囲の荒れ果てた風景とは対照的に、そこだけは公園のように整備されている。ベンチが一つ、小さな東屋が一つ。そして奥の方には、古い柵に囲まれた一画があった。
坂上は柵に近づいた。その向こうには、まるで崖のような断層が走っている。地面が不自然に波打ち、まるで誰かが巨大なスプーンで掬い取ったような形をしていた。
柵の脇に、小さな石碑があった。そこには確かに「世界のふち」と刻まれている。
「あんたも来たの？」
突然の声に、坂上は振り返った。いつの間にか、薄汚れたコートを着た初老の男が立っていた。顔は日焼けして深いしわが刻まれ、どこか疲れ切った表情をしている。
「ええ、まあ」
坂上は曖昧に答えた。男は坂上の顔をじっと見つめ、やがて小さくため息をついた。
「ここでは現実と夢が混ざるんだ。気をつけろ」
そう言い残すと、男はすたすたと歩き去ってしまった。坂上は呼び止めようとしたが、振り返った時には既に姿は見えなくなっていた。
まさかと思いながら再び石碑に目を向けると、突然、周囲の風景が歪み始めた。空と地面の境界が曖昧になり、まるで水の中にいるような感覚に襲われる。坂上は慌てて目を閉じた。
気がつくと、先ほどと同じ公園にいた。しかし何かが違う。スマートフォンを取り出して時刻を確認すると、針は午後六時を指していた。来た時は午前中だったはずなのに。
画面には見慣れない通知が表示されている。
『世界のふちへようこそ』
坂上は慌ててアプリを確認したが、どこからの通知なのかわからない。メッセージアプリにもメールにも、該当する履歴は見つからなかった。
三 歪んだ時間
家路につく電車の中で、坂上は先ほどの出来事を反芻していた。あれは夢だったのだろうか。それとも、何らかの仕掛けがあったのか。しかし、スマートフォンの通知は確かに残っている。
アパートに戻ると、いつものようにPCの電源を入れた。ブラウザを立ち上げようとした瞬間、画面に文字が浮かび上がった。
『次は君の番だ』
坂上は慌ててウィンドウを閉じようとしたが、マウスもキーボードも反応しない。強制終了しようとしたが、電源ボタンさえ効かなかった。やがて文字は消え、普段通りのデスクトップ画面に戻った。
翌朝、目を覚ますと妙な違和感があった。窓の外の風景は普段と変わらないはずなのに、どこか色あせて見える。通りを歩く人々の顔もぼやけていて、表情がよくわからない。
仕事に行こうとスマートフォンを手に取ると、通知がいくつも来ていた。しかし、そのすべてが意味不明な文字列になっている。アルファベットとも数字ともつかない記号の羅列が、メッセージとして表示されていた。
坂上は混乱した。これは何かの不具合なのか、それとも自分の目がおかしくなっているのか。工場への出勤時刻が迫っていたが、どうしても家を出る気になれなかった。
結局、その日は仕事を休んだ。PCの前に座り、昨日の掲示板を探そうとしたが、どうしても見つからない。検索しても、「世界のふち」に関する情報は一切出てこなかった。まるで最初から存在しなかったかのように。
しかし、午後になって画面に再びメッセージが現れた。
『もう一度来い』
今度ははっきりと読むことができた。坂上は椅子から立ち上がり、無意識のうちに支度を始めていた。まるで操られているような感覚だった。
四 影たちの戯れ
二度目の「世界のふち」は、前回とは様子が違っていた。あの初老の男の姿はなく、代わりに子供たちが遊んでいる光景が目に映った。
三人の子供が、柵の向こうの断層の前で輪になって座っている。楽しそうな笑い声が響いているが、その声がどこか空虚で、まるで録音を再生しているようだった。
坂上が近づこうとすると、子供たちの影が異様に長いことに気づいた。夕方でもないのに、影だけが暗い線となって地面に伸びている。そして、よく見るとその影は子供たちの体とは別の動きをしていた。
笑い声が次第に大きくなり、反響するように周囲に響き渡る。空間自体が震えているような感覚に襲われ、坂上は平衡感覚を失いそうになった。
その時、地面が大きく割れた。まるで地震のようだったが、揺れは感じない。ただ、足元の土が崩れ、虚空が現れた。坂上は必死にその場から離れようとしたが、体が思うように動かない。
「自分を信じろ」
聞き覚えのある声が頭の中に響いた。初老の男の声だった。その言葉に押し切られるように、坂上は必死に走った。背後では子供たちの笑い声が次第に遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
気がつくと、バス停にいた。汗だくになり、息を切らしていた。時計を見ると、今度は来た時と同じ時刻を指している。まるで時間が巻き戻ったかのようだった。
五 灰色の空
坂上は自宅の布団の中で目を覚ました。時刻は午前七時。いつものように目覚ましが鳴っている。
「夢だったのか」
安堵のため息をついた瞬間、PCの画面が勝手に点灯した。そこには見慣れたメッセージが表示されている。
『君は既にふちの中だ』
坂上は恐る恐る窓に近づいた。外の風景は普段と変わらない。アパートの駐車場、向かいの建物、その向こうに見える山並み。すべて見慣れた光景だった。
ただ一つ、空の色だけが違っていた。青空のはずなのに、どこか薄暗く、灰色がかっている。雲一つない快晴なのに、まるで薄い膜が張られているような感じだった。
坂上は慌ててPCの電源を落とそうとした。しかし、電源ボタンを押しても画面は消えない。強制的にコンセントを抜いても、なぜか文字は浮かび続けている。
『世界のふちで待つ』
その文字は、まるで坂上の心に直接刻み込まれているかのようだった。消そうとすればするほど、はっきりと見えてくる。
坂上は椅子に座り、頭を抱えた。これは現実なのか、それとも夢なのか。もはや境界線がわからなくなっていた。
窓の外では、相変わらず人々が行き交っている。しかし、その顔は皆ぼやけていて、まるで焦点の合わない写真のようだった。声も聞こえない。まるで無音の世界にいるようだった。
坂上は立ち上がり、もう一度窓に近づいた。空の色は変わらず薄暗いままだった。これから先、この色が元に戻ることはあるのだろうか。
PCの画面には、まだあの文字が浮かんでいる。消えることのない、永遠のメッセージとして。
坂上は深いため息をつき、再び椅子に座った。もう抗うことはできないのかもしれない。世界のふちに足を踏み入れた者は、二度と元の世界には戻れないのかもしれない。
時計の針は、いつまでも同じ時刻を指し続けていた。
おわり
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