HISTORY GLOSSARY
歴史用語集日本史・世界史の重要語737語
この用語集とサイトについて
中学・高校の日本史・世界史で学ぶ重要語を、年と短い説明でまとめた用語集です。「何か」「なぜ起きたか」「その後どうなったか」がひと目でわかるように書いています。それぞれの言葉から、歴史年表のその出来事へ飛べます。同じ時代に世界で何が起きていたかも、年表で続けて見られます。
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日本史旧石器・縄文・弥生時代 14古墳・飛鳥時代 16奈良時代 14平安時代 25鎌倉時代 23室町・戦国時代 25安土桃山時代 15江戸時代 44明治時代 75大正時代 23昭和時代(戦前・戦中) 53昭和時代(戦後) 50平成・令和 23
50音順の索引(737語)
あ会沢正志斎アインシュタインアウクスブルクの宗教和議アカデメイア阿賀野川水銀中毒芥川龍之介アクティウムの海戦アケメネス朝上知令足利尊氏足利義政足利義満アジア・アフリカ会議アジア通貨危機飛鳥浄御原令アッバース朝アテルイアドリアノープルの戦い姉川の戦いアフリカの年アフリカ分割アヘン戦争安倍晋三アポロ11号甘粕事件アメリカ合衆国憲法アメリカ・スペイン戦争アメリカ同時多発テロアメリカ独立宣言アメリカ独立戦争アラブの春アリストテレスアルジェリア独立アルメニア人虐殺アレクサンドル2世アロー戦争アンコール・ワット安史の乱安政の大獄安全保障関連法アントニヌス勅令アンボイナアヴィニョン捕囚イエスイエズス会家永三郎イギリス東インド会社異次元の金融緩和板垣退助イタリア王国一ノ谷の戦い一向一揆イッソスの戦い伊藤博文稲作委任統治犬養毅伊能忠敬イラク戦争イラン・イラク戦争イラン革命岩倉使節団岩宿遺跡殷王朝インカ帝国印紙法印象派インダス文明インド国民会議インド大反乱印パ分離独立インパール作戦EU離脱ウィーン会議ウォーターゲート事件内村鑑三ウマイヤ朝衛氏朝鮮永仁の徳政令永楽帝英蘭戦争エカチェリーナ2世江戸幕府MSA協定塩鉄専売応永の外寇欧州共同体欧州連合汪兆銘応仁の乱王莽大阪会議大坂の陣大阪万博大塩平八郎の乱大津事件大村純忠沖縄戦沖縄返還協定オクタウィアヌス桶狭間の戦いオスマン帝国織田信長オランダ東インド会社オーストリア継承戦争ヴァスコ・ダ・ガマヴィシー政府ヴェストファーレン条約ヴェルサイユ条約ヴェルダン条約
か貝塚科挙核拡散防止条約核兵器禁止条約和宮刀狩桂・タフト協定桂太郎華北分離工作鎌倉幕府鎌倉幕府滅亡カルタゴ冠位十二階寛永の大飢饉環境庁韓国併合勘合貿易寛政の改革関東大震災観応の擾乱漢委奴国王咸臨丸ガウガメラの戦いガガーリン学制学徒出陣ガダルカナル島の戦いガリア戦争ガリバルディガリレオ・ガリレイ鑑真岸田文雄岸信介北一輝北里柴三郎北山文化九十五か条の論題キューバ危機教育勅語共産党宣言強制栽培制度京都議定書恐怖政治享保の改革極東委員会キリスト教迫害禁酒法金本位制禁門の変金融恐慌金輸出再禁止義務教育ギリシア独立戦争義和団事件空海公事方御定書薬子の変鳩摩羅什クリミア戦争クレイステネスグプタ朝グレートブリテン王国軍人勅諭軍部大臣現役武官制グーテンベルク経済白書継体天皇慶長の役ケネディ検非違使ケマル・パシャ遣隋使遣唐使遣米使節ケンペル憲法十七条建武の新政権利の章典乾隆帝下剋上ゲルマン人の大移動元寇源氏物語原水爆禁止元禄小判小泉純一郎弘安の役公害対策基本法康熙帝黄巾の乱紅巾の乱公職追放令甲申政変黄巣の乱高度経済成長弘仁格式孝文帝公民権法高麗古今和歌集国際連合国際連盟国際連盟脱退黒死病国定教科書国鉄分割民営化国分寺国民学校国民精神総動員運動国連平和維持活動古事記国家総動員法近衛文麿米騒動コロンブス金剛峰寺金剛力士像コンスタンツ公会議墾田永年私財法五・一五事件御恩と奉公五箇条の御誓文後漢護憲三派五胡十六国五・四運動五五年体制御成敗式目呉楚七国の乱護民官ゴルバチョフゴローニン事件
さ西園寺公望裁判員制度再保障条約坂上田村麻呂佐久間象山桜田門外の変薩長同盟薩英戦争サファヴィー朝サミットサラミスの海戦三・一独立運動三月事件三国同盟三十年戦争三世一身法三帝同盟山東出兵三内丸山遺跡聖バルテルミの虐殺三藩の乱サンフランシスコ平和条約ザマの戦い志賀直哉七月革命七年戦争執権政治司馬遷渋沢栄一シベリア出兵シベリア鉄道資本論島原の乱下関条約社会主義者鎮圧法社会大衆党社会民衆党社会民主党集会条例衆議院集団的自衛権朱元璋守護・地頭守護大名種の起源春闘蔣介石小選挙区比例代表並立制正倉院正長の土一揆聖徳太子聖武天皇昭和天皇新羅シリア内戦新安保条約新円切替辛亥革命新型コロナウイルス新古今和歌集真珠湾攻撃神聖ローマ帝国新選組秦の孝公新バビロニア新婦人協会清仏戦争新聞紙条例シーボルトシーメンス事件自衛隊自衛隊のイラク派遣十返舎一九持統天皇ジャンヌ・ダルク十月事件十字軍純粋理性批判承久の乱浄土宗浄土真宗情報公開法縄文時代承和の変人権宣言壬午軍乱壬申の乱人民戦線菅原道真鈴木梅太郎鈴木商店スターリン批判砂川事件スプートニクスペイン継承戦争スペイン内戦ズデーテン地方西夏征韓論政権交代西南戦争世界恐慌世界人権宣言世界貿易機関関ヶ原の戦い赤十字赤眉の乱石油危機セルジューク朝澶淵の盟戦後恐慌戦国大名センプロニウス農地法戦略兵器削減条約前九年の役全権委任法全国水平社漸次立憲政体樹立の詔曹操曹洞宗ソクラテスソビエト連邦ソビエト連邦の崩壊
た大化の改新大逆事件太閤検地大正天皇大政奉還大政翼賛会大戦景気太平天国太平洋戦争大宝律令太陽暦大陸横断鉄道大陸封鎖令高床倉庫滝川事件滝沢馬琴田中義一田中正造タラス河畔の戦いターリバーン第一次世界大戦第一次戦略兵器制限交渉第一次日韓協約第一次ポエニ戦争第1回選挙法改正大韓民国第五福竜丸第三次中東戦争第三次奴隷戦争第3次日韓協約大長征大東亜会議第2回三頭政治第二次ウィーン包囲第二次世界大戦第二次中東戦争第2次日韓協約大日本帝国憲法第四次中東戦争太政大臣打製石器男女雇用機会均等法壇ノ浦の戦い治安維持法チェルノブイリ原子力発電所事故地球サミット地租改正秩父事件血のメーデー事件チャーチル中央省庁再編中華人民共和国中華民国中距離核戦力全廃条約中国共産党中ソ友好同盟相互援助条約中尊寺金色堂張鼓峰事件朝鮮戦争朝鮮民主主義人民共和国徴兵令チンギス・ハン徒然草鄭和鉄砲伝来鉄道国有法鉄のカーテン寺田屋事件テルミドールのクーデタ天安門事件天正遣欧使節天津条約天皇機関説事件天皇の退位天皇の人間宣言天保の改革天保の飢饉天武天皇デロス同盟刀伊の入寇トゥール・ポワティエ間の戦い東欧革命東海道新幹線東京オリンピック東京大空襲東京美術学校東西教会の分裂東西ドイツ統一東大寺東南アジア条約機構東方会議遠野物語徳川吉宗鳥羽上皇豊臣秀吉トルデシリャス条約トルーマン・ドクトリン屯田兵ドイツ再軍備ドイツ帝国ドイツ連邦堂島米会所独ソ戦独ソ不可侵条約ドナルド・トランプ土木の変ドラコンの成文法奴隷解放宣言ドレフュスドーズ案
な内閣制度中曽根康弘長岡半太郎長篠の戦いナチ党NATO生麦事件南宋ナントの勅令南北戦争南北朝の合一南北朝の動乱二・二六事件二月革命ニクソン・ショック西ローマ帝国二十一か条の要求日英通商航海条約日英同盟日独伊三国同盟日米安全保障条約日米行政協定日米交渉日米修好通商条約日米通商航海条約日米和親条約日蓮日露協約日露戦争日華平和条約日韓基本条約日韓議定書日清戦争日ソ基本条約日ソ共同宣言日ソ中立条約日中共同声明日中戦争日中平和友好条約日朝修好条規日朝首脳会談日本放送協会日本海海戦日本共産党日本国憲法日本社会党日本書紀日本農民組合日本の国際連合加盟日本民主党ネルソン・マンデラネルチンスク条約農地改革ノルマン人ノルマンディー上陸作戦ノルマントン号事件
はハイチ革命廃藩置県破壊活動防止法白村江の戦い橋本龍太郎阪神・淡路大震災版籍奉還班田収授法ハンムラビ法典ハーグ密使事件ハーグリーヴズバテレン追放令バビロン捕囚バラク・オバマバルカン戦争バルカン同盟パリ協定パリ・コミューンパルティア王国パルテノン神殿パレスチナ解放機構パレスチナ暫定自治協定非核三原則東日本大震災東山文化樋口一葉非同盟諸国首脳会議卑弥呼百日天下百年戦争広島・長崎ビスマルク平等院鳳凰堂ビルマ国ピタゴラスピューリタン革命ピルグリム・ファーザーズファシスト党フォークランド紛争普墺戦争福島第一原子力発電所藤原道長不戦条約普通選挙法フビライ普仏戦争富本銭フランコフランシスコ・ザビエルフランス革命フリードリヒ2世仏教公伝部分的核実験禁止条約武力攻撃事態法ブレトン・ウッズ文永の役文化財保護法文化大革命文官任用令分国法文禄の役プガチョフの乱プラザ合意プラッシーの戦いプロレタリア作家プーチン平安京平家物語平城京平民新聞変動為替相場制米英戦争ベトナム戦争ベトナム民主共和国ベルリンの壁ベルリンの壁崩壊ベルリン封鎖北京議定書北京条約ペリーペルシア戦争ペロポネソス戦争包括的核実験禁止条約保元の乱北条時宗北条政子北条泰時奉天会戦北魏北米自由貿易協定細川護熙北方戦争ホルテンシウス法ホロコースト香港返還本能寺の変防共協定戊辰戦争戊戌の変法ボストン茶会事件ボニファティウス8世ボリシェヴィキボーア戦争ポツダム宣言ポリスポルトガル船ポーランド分割
まマウリヤ朝枕草子マグナ・カルタ磨製石器マゼラン町火消マッカーサー松前藩マラトンの戦いマリア・テレジアマルタ会談満州国満州事変万葉集マーシャル・プランマーストリヒト条約ミケランジェロ水野忠邦ミッドウェー海戦水俣病南満州鉄道源頼朝ミュンヘン一揆ミラノ勅令民撰議院設立建白書ムガル帝国ムッソリーニ無敵艦隊ムハンマド・アリー村山富市室町幕府明治十四年の政変メイフラワー号名誉革命明暦の大火メキシコ革命メソポタミア文明モンゴル帝国モンロー教書
や矢内原忠雄山崎の戦い山城の国一揆邪馬台国ヤマト政権山本権兵衛弥生時代由井正雪郵政民営化関連法ユグノー戦争ユスティニアヌス養老律令翼賛選挙横浜正金銀行与謝野晶子吉野ヶ里遺跡吉野作造ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体
ら楽市楽座ラクスマンラッダイト運動リキニウス・セクスティウス法李承晩ライン李自成の乱立憲改進党立憲政友会立憲同志会立憲民政党リットン調査団琉球王国琉球処分劉邦リンカン臨済宗リヴァイアサンリーマン・ショックルイ14世ルーズヴェルトレオナルド・ダ・ヴィンチレッドパージレパントの海戦連合国軍最高司令官総司令部レーガン大統領ロカルノ条約六波羅探題盧溝橋事件ロシア革命ロシアのウクライナ侵攻ロゼッタ・ストーンロッキード事件露仏同盟ロンドン海軍軍縮条約
日本史:旧石器・縄文・弥生時代 〜3世紀ごろ
- 打製石器だせいせっき旧石器時代(約3万8千年前〜)
石を打ち欠いてつくった石器。旧石器時代の人々は、ナイフ形石器や尖頭器などをつくり、ナウマンゾウやオオツノジカなどの大型動物を狩ったり、獲物を解体したりするのに使った。土器が現れる前の時代を代表する道具で、のちに石を磨いて仕上げる磨製石器が広まると、用途に応じて使い分けられるようになった。 先史の年表へ ›
- 岩宿遺跡いわじゅくいせき約3万5千年前(1946年発見)
群馬県みどり市にある旧石器時代の遺跡。1946年に相沢忠洋が関東ローム層の中から打製石器を見つけ、1949年に本格的な発掘調査が行われた。それまで日本列島には縄文時代より前に人は住んでいなかったと考えられていたが、この発見によって旧石器時代にも人々が暮らしていたことが確かめられた。 先史の年表へ ›
- 貝塚かいづか縄文時代
人々が食べた貝の殻や動物の骨、こわれた土器などが積み重なってできた遺跡。縄文時代の人々は海辺で貝をとり、魚や獣、木の実とともに食料とした。貝殻の成分のおかげで骨が残りやすく、当時の食生活や環境を知る手がかりとなる。1877年にアメリカ人のモースが大森貝塚を発掘したことが、日本の近代的な考古学の始まりとされる。 年表で見る ›
- 縄文時代じょうもんじだい約1万6千年前〜紀元前10世紀ごろ
土器の使用が始まってから稲作が広まるまでの、日本列島の長い時代。氷河期が終わって気候が暖かくなり、人々は縄目の文様をつけた土器で煮炊きをし、狩りや漁、木の実の採集で暮らした。竪穴住居に定住する集落が生まれ、貝塚や土偶が残された。身分の差は小さかったと考えられている。 年表で見る ›
- 磨製石器ませいせっき縄文時代〜弥生時代
石を砥石などで磨いて形を整えた石器。縄文時代には磨製石斧が木を切り倒したり加工したりするのに使われ、定住生活を支えた。弥生時代になると、稲の穂を摘み取る石包丁などの磨製石器も使われた。やがて鉄器が普及すると、刃物としての役割はしだいに金属器に置き換えられていった。 先史の年表へ ›
- 三内丸山遺跡さんないまるやまいせき紀元前3900〜前2200年ごろ
青森市にある縄文時代の大規模な集落の跡。約1700年にわたって人が住み続け、数百棟の竪穴住居や大型の掘立柱建物、墓、ごみ捨て場が見つかっている。クリを栽培していた跡や、遠方から運ばれたヒスイや黒曜石も出土した。縄文人が想像以上に定住し、広い交易を行っていたことを示す遺跡として重要である。 年表で見る ›
関連縄文時代
- 稲作いなさく紀元前10〜前4世紀ごろ(伝来)
水田で稲を育てて米をつくる農業。縄文時代の終わりごろ、大陸や朝鮮半島から九州北部に伝わり、やがて東日本へも広まった。石包丁で穂を刈り、収穫した米は高床倉庫に蓄えた。食料の蓄えが生まれると貧富や身分の差が広がり、水や土地をめぐる争いも起こって、むらをまとめる「くに」が生まれるきっかけとなった。 年表で見る ›
- 高床倉庫たかゆかそうこ弥生時代
床を地面から高く上げてつくった倉庫。弥生時代に稲作が広まると、収穫した米をたくわえるために建てられた。床を高くすることで湿気を防ぎ、柱にねずみ返しをつけてネズミが入るのを防いだ。米を蓄えられるようになったことで、たくわえの多い者と少ない者の差が生まれ、身分の差が広がる一因となった。 紀元前500〜前1年の年表へ ›
- 吉野ヶ里遺跡よしのがりいせき弥生時代(1986年から発掘)
佐賀県にある弥生時代の大規模な環濠集落の遺跡。集落のまわりを深い堀でかこみ、物見やぐらや柵を備えていたことから、ほかのむらとの争いに備えていたと考えられている。大きな建物の跡や多くの甕棺墓、墳丘墓も見つかり、「くに」がまとまっていくようすを伝える弥生時代の代表的な遺跡として知られる。 年表で見る ›
- 弥生時代やよいじだい紀元前10〜前4世紀ごろ〜3世紀中ごろ
大陸から伝わった水田稲作が広まった時代。始まりの時期は研究により諸説ある。米づくりとともに金属器が使われ、薄くて固い弥生土器が作られた。米を蓄えられるようになると貧富や身分の差が生まれ、水や土地をめぐる争いも起きて、周りを堀で囲んだ環濠集落が築かれた。各地に小さな「クニ」ができ、邪馬台国などの成立につながった。 年表で見る ›
- 漢委奴国王かんのわのなのこくおう57年
57年、倭の奴国の王が後漢に使いを送り、光武帝から授けられたとされる金印に刻まれた文字。『後漢書』の東夷伝に記録がある。江戸時代の1784年に福岡県の志賀島で農民が発見し、現在は国宝となっている。当時の日本列島に小さな国々があり、中国の皇帝に認めてもらうことで力を強めようとしていたことを示す。 年表で見る ›
- 倭国王帥升わこくおうすいしょう107年
『後漢書』に記録される倭の王。107年、後漢の安帝に生口(奴隷とみられる人々)160人を献上したとされる。名前が伝わる日本列島の人物としては最も古い例の一つである。「倭国王」と呼ばれていることから、複数の小国をまとめる勢力が現れていた可能性が指摘されている。その後の倭国大乱を経て、卑弥呼が登場した。 年表で見る ›
- 邪馬台国やまたいこく3世紀
3世紀の倭にあった国で、女王卑弥呼が治めた。中国の歴史書『魏志』倭人伝によると、倭では争いが続いていたが、30ほどの国が卑弥呼を女王に立てると争いがおさまった。卑弥呼は239年に魏へ使いを送り、「親魏倭王」の称号を受けた。所在地については近畿説と九州説があり、今も決着していない。 2世紀の年表へ ›
日本史:古墳・飛鳥時代 3世紀〜710年
- ヤマト政権やまとせいけん3世紀後半〜7世紀ごろ
近畿地方の有力な豪族たちが、大王(のちの天皇)を中心にまとまってできた政治勢力。3世紀後半から各地に巨大な前方後円墳が造られたことは、その力が広がったことを示している。5世紀には九州から東北南部までの豪族を従え、中国の南朝にも使いを送った。氏姓制度で豪族を組織し、のちの律令国家の母体となった。 年表で見る ›
- 継体天皇けいたいてんのう?〜531年ごろ
古墳時代の第26代天皇。前の武烈天皇に後継ぎがいなかったため、大伴金村らによって北陸または近江から迎えられ、507年に即位したと『日本書紀』は伝える。即位後もすぐに大和に入れず、約20年かけて都を移した。治世中には九州の豪族磐井の反乱が起きた。現在の皇室につながる系譜の重要な転換点とされる。 年表で見る ›
- 仏教公伝ぶっきょうこうでん538年(552年説も)
朝鮮半島の百済の聖明王が、日本の朝廷に仏像や経典を贈り、正式に仏教が伝わった出来事。年は538年説が有力だが、『日本書紀』は552年とする。仏教を受け入れるかどうかをめぐって、賛成の蘇我氏と反対の物部氏が対立し、蘇我氏が勝利した。その後、仏教は飛鳥文化の中心となり、国の政治や文化に大きな影響を与えた。 年表で見る ›
- 聖徳太子しょうとくたいし574〜622年
飛鳥時代の皇族で、本名は厩戸王(厩戸皇子)。おばの推古天皇を助け、大臣の蘇我馬子とともに政治を行ったと伝えられる。冠位十二階や憲法十七条を定めて天皇中心の国づくりを目指し、遣隋使を送って中国の進んだ制度や文化を取り入れた。法隆寺を建てるなど仏教を広めた。業績には後の時代の脚色を含むとする見方もある。 年表で見る ›
- 遣隋使けんずいし600〜614年
日本の朝廷が中国の隋に送った使節。600年が最初とされ、607年には小野妹子が派遣された。このとき持参した国書が対等な立場で書かれていたため、隋の皇帝煬帝は不快に思ったと伝えられる。留学生や僧も同行し、帰国後に中国の政治制度や仏教を伝えた。隋が滅んだ後は遣唐使に引き継がれ、律令国家づくりに役立った。 年表で見る ›
- 冠位十二階かんいじゅうにかい603年
推古天皇のもとで聖徳太子らが定めた、日本で最初の冠位の制度。冠の色で12の位を区別し、朝廷に仕える人の序列を示した。それまでの氏姓制度では家柄によって地位が決まっていたが、この制度では個人の能力や功績に応じて位を与え、昇進もできるようにした。天皇を中心とする官僚制度づくりの第一歩となった。 年表で見る ›
- 憲法十七条けんぽうじゅうしちじょう604年
聖徳太子が定めたとされる、朝廷に仕える役人の心構えを示した17か条の決まり。「和をもって貴しとなす」で始まり、仏教を敬うこと、天皇の命令に従うことなどを説いた。現在の憲法のような国家の基本法ではなく、道徳的な訓戒である。豪族たちに天皇の臣下としての自覚を求め、天皇中心の国家をめざす考えを示した。 年表で見る ›
- 大化の改新たいかのかいしん645年〜
中大兄皇子と中臣鎌足らが、権力をふるっていた蘇我入鹿を討った乙巳の変から始まる一連の政治改革。翌年の改新の詔で、豪族が支配していた土地と人民を国家のものとする公地公民の方針などを示したとされる。中国の唐にならい、天皇を中心とする中央集権国家をめざした。この流れは大宝律令による律令国家の完成につながった。 年表で見る ›
- 白村江の戦いはくすきのえのたたかい663年
唐と新羅に滅ぼされた百済を復興させるため、朝鮮半島に送られた倭の水軍が、白村江で唐と新羅の連合軍に大敗した戦い。中大兄皇子は唐の侵攻を恐れて、九州に水城や山城を築き、防人を置いて守りを固め、都を近江大津宮に移した。この敗戦をきっかけに、日本は国内の制度を整えて中央集権化を急いだ。 年表で見る ›
- 壬申の乱じんしんのらん672年
天智天皇の死後、天皇の弟の大海人皇子と、天皇の子の大友皇子が皇位をめぐって争った、古代最大の内乱。大海人皇子は東国の豪族の支持を得て勝利し、翌年に天武天皇として即位した。この結果、近江朝廷を支えた有力豪族が没落し、天皇の権威が大きく高まった。天皇を中心とする律令国家づくりが進んだ。 年表で見る ›
- 天武天皇てんむてんのう?〜686年
飛鳥時代の天皇。天智天皇の弟で、壬申の乱に勝って673年に即位した。豪族の力を抑えて天皇の権力を強め、八色の姓で身分秩序を整えた。律令の編纂や国史の編集、銅銭の鋳造などを命じた。「天皇」という称号や「日本」という国号が使われ始めたのもこのころとされる。改革は皇后の持統天皇に受け継がれた。 年表で見る ›
- 富本銭ふほんせん683年ごろ
天武天皇の時代に造られたとみられる銅銭。1998年、奈良県の飛鳥池遺跡から大量に見つかり、708年の和同開珎より古い日本最古の鋳造貨幣である可能性が高まった。『日本書紀』の683年の記事にある銅銭の使用の命令と関係すると考えられている。実際に貨幣として広く流通したのか、まじないに使われたのかは議論がある。 年表で見る ›
- 飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょう689年
天武天皇が編纂を命じ、その死後、持統天皇の時代に施行された令。令は行政のしくみを定めた法で、日本で最初の体系的な令とされる。原文は残っていないが、これにもとづいて690年に全国的な戸籍(庚寅年籍)が作られた。中央集権の仕組みが整えられ、のちの大宝律令の基礎となった。 年表で見る ›
- 持統天皇じとうてんのう645〜702年
飛鳥時代の女性の天皇。天智天皇の娘で、天武天皇の皇后。夫の死後、その政策を受け継ぎ690年に即位した。飛鳥浄御原令を施行し、戸籍の作成を進め、日本初の本格的な都である藤原京を造った。孫の文武天皇に位を譲った後も上皇として政治を支え、大宝律令の完成を見届けた。律令国家の確立に大きな役割を果たした。 年表で見る ›
- 大宝律令たいほうりつりょう701年
刑部親王や藤原不比等らが唐の法にならってまとめた法典。刑罰を定める律と、政治のしくみを定める令がそろった。中央には二官八省、地方には国・郡・里を置き、天皇を中心に役人が全国を治める制度が整った。人々には口分田が与えられ、租・調・庸などの税が課された。これにより日本の律令国家が本格的に完成した。 年表で見る ›
日本史:奈良時代 710〜794年
- 遣唐使けんとうし630〜894年
日本の朝廷が唐に送った使節。630年の第1回以来、留学生や僧も同行し、唐の進んだ制度や文化、仏教を学んで持ち帰った。遭難の危険が大きい航海だったが、律令国家の形成や天平文化に大きな影響を与えた。唐の衰えなどを理由に、894年に菅原道真の意見で派遣が停止された。 年表で見る ›
- 班田収授法はんでんしゅうじゅのほう7世紀末〜10世紀初め
戸籍にもとづいて6歳以上の男女に口分田を分け与え、死後に国へ返させる制度。唐の均田制にならい、大化の改新で方針が示され、大宝律令で整えられた。人々は口分田を耕して租を納めたが、人口の増加や重い負担による逃亡で田地が不足し、墾田永年私財法などを経て、10世紀初めにはほとんど行われなくなった。 7世紀の年表へ ›
- 聖武天皇しょうむてんのう701〜756年
奈良時代の天皇。在位中は疫病の流行やききん、藤原広嗣の乱などが続き、社会が不安定であった。仏教の力で国を守ろうと考え、741年に国ごとに国分寺・国分尼寺を建てる詔を出し、743年には大仏をつくる詔を出した。東大寺の大仏造立をはじめ、仏教を重んじた政治は天平文化が栄える背景となった。 年表で見る ›
- 平城京へいじょうきょう710〜784年
元明天皇が藤原京から移した奈良の都。唐の都長安にならい、碁盤の目のように道路が区切られた。北部の中央に天皇が住み政治を行う平城宮を置き、朱雀大路をはさんで東西に市が開かれた。人口は約10万人とされる。都が置かれた時代を奈良時代と呼ぶ。のちに長岡京、さらに平安京へと都が移された。 年表で見る ›
- 古事記こじき712年
712年に完成した、現存する日本最古の歴史書。天武天皇の命で稗田阿礼が読み習った神話や伝承を、太安万侶が書き記してまとめた。神々の時代から推古天皇までの出来事を物語風に記している。天皇による国の支配の正しさを示す目的があったとされ、日本の神話を知るうえで欠かせない資料となっている。 年表で見る ›
- 日本書紀にほんしょき720年
720年に完成した歴史書で、舎人親王らが編纂した。中国の歴史書にならい、漢文で年月を追って記す編年体で書かれ、神代から持統天皇までを扱う。国家が正式にまとめた最初の歴史書で、このあと平安時代にかけて編まれた六国史の最初にあたる。古代の政治や外交を知るための基本的な資料となっている。 年表で見る ›
- 三世一身法さんぜいっしんのほう723年
奈良時代に出された、開墾を進めるための法。人口が増えて口分田が足りなくなったため、新たに用水路などを造って開墾した土地は3代まで、既存の用水路を使った場合は本人1代に限り、私有を認めた。しかし期限が近づくと農民が耕作をやめて土地が荒れるため、効果は限られ、20年後の墾田永年私財法に改められた。 年表で見る ›
- 国分寺こくぶんじ741年
741年に聖武天皇の詔によって国ごとに建てられた寺。疫病や反乱が続く不安な世の中を、仏教の力で守ろうとする鎮護国家の考えにもとづく。各国に僧寺の国分寺と尼寺の国分尼寺が置かれ、奈良の東大寺が全国の国分寺の中心とされた。仏教が地方へ広まるきっかけにもなった。 年表で見る ›
- 墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほう743年
聖武天皇の時代に出された、新たに開墾した田を永久に私有することを認めた法。三世一身法では開墾が進まなかったため、身分に応じた面積の範囲で永久の所有を認めた。貴族や大寺院、地方の豪族は農民を使って盛んに開墾し、私有地を広げた。これが荘園の始まりとなり、公地公民の原則は崩れていった。 年表で見る ›
- 東大寺とうだいじ752年(大仏開眼)
奈良にある華厳宗の大寺院。聖武天皇は、疫病や反乱が続く社会を仏教の力で安らかにしようと考え、国ごとに国分寺を建て、その中心として東大寺に大仏を造らせた。僧の行基も民衆を率いて協力し、752年に大仏の開眼供養が行われた。宝物を納めた正倉院には、シルクロードを通じて伝わった品も残されている。 年表で見る ›
- 鑑真がんじん688〜763年
唐の高僧。日本の朝廷から、僧になるための正式な戒律を授けてほしいと招かれた。渡航に5度失敗し、その間に失明したが、753年に6度目で日本に着いた。東大寺に戒壇を設けて聖武上皇らに戒律を授け、のちに唐招提寺を開いた。日本の仏教の制度を整え、薬の知識なども伝えた。 年表で見る ›
- 正倉院しょうそういん756年(宝物の献納)
東大寺にある校倉造の倉庫。聖武天皇が亡くなったあと、光明皇后が天皇の遺愛の品を東大寺に納めたのが正倉院宝物の始まりである。宝物には日本でつくられた品に加え、唐や西アジアなどから伝わった工芸品もあり、シルクロードを通じた国際色豊かな天平文化のようすを今に伝えている。 8世紀の年表へ ›
- 養老律令ようろうりつりょう718年編纂・757年施行
藤原不比等らが大宝律令を修正して編纂した律令。718年ごろにまとめられたが、不比等の死などで施行が遅れ、757年に孫の藤原仲麻呂のもとで施行された。内容は大宝律令と大きく変わらないとされる。その後、平安時代以降も形式上は効力を持ち続け、明治時代初めまで正式には廃止されなかった。 年表で見る ›
日本史:平安時代 794〜1185年ごろ
- 平安京へいあんきょう794年
桓武天皇が長岡京から移した都。現在の京都市の中心部にあたり、唐の長安にならって碁盤の目のように整えられた。仏教勢力の強い奈良を離れ、政治を立て直すことが目的の一つだった。これ以後約400年を平安時代と呼ぶ。平安京は明治時代に東京へ移るまで、約1000年にわたり天皇の住む都であり続けた。 年表で見る ›
- アテルイあてるい?〜802年
平安時代初めの、東北地方の蝦夷の指導者。胆沢(現在の岩手県奥州市付近)を拠点に、朝廷の支配に抵抗した。789年には朝廷の大軍を破った。しかし征夷大将軍の坂上田村麻呂が派遣されると、802年に仲間のモレとともに降伏した。田村麻呂は助命を願ったが、2人は処刑された。現在は地域の英雄として顕彰されている。 年表で見る ›
関連坂上田村麻呂
- 坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ758〜811年
平安時代初めの武人。桓武天皇から征夷大将軍に任じられ、東北地方の蝦夷との戦いを指揮した。802年に胆沢城を築き、蝦夷の指導者アテルイを降伏させた。朝廷の支配は東北北部へ広がった。京都の清水寺の建立にも関わったと伝えられる。のちに武人の手本として尊敬された。 年表で見る ›
- 空海くうかい774〜835年
平安時代初めの僧で、真言宗の開祖。死後に弘法大師と呼ばれた。804年に遣唐使とともに唐へ渡り、長安で密教を学んだ。帰国後、高野山に金剛峰寺を開き、京都の東寺も与えられた。庶民も学べる学校の綜芸種智院を開き、讃岐の満濃池の修築にも関わった。書の名人としても知られる。 年表で見る ›
- 薬子の変くすこのへん810年
平安時代初めに、平城上皇と嵯峨天皇が対立した事件。上皇に仕えた藤原薬子と兄の仲成は、上皇を再び天皇にし、都を平城京に戻そうとした。嵯峨天皇はすばやく兵を出して仲成を捕らえ、上皇は出家し、薬子は自ら命を絶った。天皇の命令を早く伝えるために蔵人頭が置かれ、藤原北家が台頭するきっかけとなった。 年表で見る ›
- 検非違使けびいし816年ごろ
平安時代初めに嵯峨天皇が置いた、律令に定めのない新しい官職(令外官)。京都の犯罪の取り締まりや治安の維持にあたった。のちに裁判や刑の執行なども担うようになり、それまでの役所の仕事を吸収して強い権限を持った。地方の国々にも置かれた。律令制が実情に合わせて変わっていったことを示す例である。 年表で見る ›
- 金剛峰寺こんごうぶじ816年(819年ごろ着工)
和歌山県の高野山にある、真言宗の総本山。816年に嵯峨天皇から土地を与えられた空海が、修行の場として開いた。山の上に多くの寺院が集まり、一つの宗教都市のようになっている。空海が亡くなった後も信仰を集め、多くの人々が参詣した。2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録された。 年表で見る ›
関連空海
- 弘仁格式こうにんきゃくしき820年
嵯峨天皇の命令で、藤原冬嗣らが編纂した法令集。格は律令を補ったり改めたりする法令、式はそれを実際に行うための細かな決まりのこと。大宝律令の施行後に出された多くの法令を整理した。のちの貞観格式や延喜格式とあわせて「三代格式」と呼ばれる。律令制を実情に合わせて運用するためのものだった。 年表で見る ›
- 承和の変じょうわのへん842年
平安時代前期の政変。嵯峨上皇が亡くなった直後、皇太子恒貞親王に仕える伴健岑や橘逸勢らが謀反を企てたとして処罰され、皇太子も廃された。代わって藤原良房の甥にあたる道康親王(のちの文徳天皇)が皇太子となった。この事件で藤原北家が他の氏族を退け、のちの摂関政治への道を開いた。 年表で見る ›
- 菅原道真すがわらのみちざね845〜903年
平安時代の学者・政治家。宇多天皇に重く用いられ、894年に遣唐大使に任じられたが、唐の衰えなどを理由に派遣の停止を提案した。のちに右大臣まで出世したが、藤原時平らによって大宰府に左遷され、そこで亡くなった。死後、都で災いが続いたため天神としてまつられ、学問の神として今も信仰されている。 年表で見る ›
- 古今和歌集こきんわかしゅう905年
醍醐天皇の命令で、紀貫之らが編纂した最初の勅撰和歌集。約1100首の和歌を、四季や恋などの部に分けて収めた。紀貫之が仮名で書いた序文(仮名序)は、和歌の本質を論じたものとして知られる。漢詩が重んじられた時代から、仮名を使った日本独自の国風文化が栄える時代への転換を示す作品である。 年表で見る ›
- 藤原道長ふじわらのみちなが966〜1027年
平安時代中期の貴族。藤原北家の出身で、995年に内覧となり政権を握った。4人の娘を天皇や皇太子の后とし、3人の天皇の外祖父として大きな権力を持った。「この世をば我が世とぞ思ふ」の和歌で知られる。道長とその子頼通の時代に摂関政治は最も栄えた。娘の彰子に仕えた紫式部らにより、宮廷文学も花開いた。 年表で見る ›
- 枕草子まくらのそうし1001年ごろ
平安時代中期に清少納言が書いた随筆。清少納言は一条天皇の皇后定子に仕えた女房である。「春はあけぼの」で始まり、四季の美しさや宮廷での出来事、心に感じたことなどを、鋭い観察と明るく軽やかな文章でつづった。仮名文字による女流文学の代表作で、日本の随筆文学の先駆けとされる。 年表で見る ›
- 源氏物語げんじものがたり11世紀初め
平安時代中期に紫式部が書いた長編物語。紫式部は藤原道長の娘で一条天皇の中宮彰子に仕えた。主人公の光源氏の恋愛と栄華、その子孫の物語を、宮廷社会を舞台に約70年にわたって描いた。人の心の動きを細やかに描写したことで高く評価され、日本文学の最高傑作の一つとされる。多くの言語に翻訳されている。 年表で見る ›
- 刀伊の入寇といのにゅうこう1019年
沿海州地方に住む女真族とみられる人々(刀伊)が、船で対馬・壱岐を襲い、北九州に上陸した事件。多くの住民が殺されたり連れ去られたりした。大宰府の長官代理の藤原隆家が九州の武士を率いて撃退した。朝廷の対応は鈍く、地方の武士が国を守る役割を果たしたことは、武士の成長を示す出来事とされる。 年表で見る ›
- 前九年の役ぜんくねんのえき1051〜1062年
陸奥の豪族安倍氏が国司と対立して起こした戦い。朝廷は源頼義とその子義家を送ったが苦戦し、出羽の豪族清原氏の助けを得てようやく安倍氏を滅ぼした。清原氏は奥羽に勢力を広げ、のちの後三年の役を経て奥州藤原氏が生まれた。源氏は東国の武士との結びつきを強め、武家の棟梁としての地位を固めた。 年表で見る ›
- 平等院鳳凰堂びょうどういんほうおうどう1053年
京都府宇治市の平等院にある阿弥陀堂。藤原頼通が父道長の別荘を寺に改め、阿弥陀如来像をまつるために建てた。当時は世の中が乱れる末法の世が来ると信じられ、極楽浄土に生まれ変わることを願う浄土信仰が広まっていた。極楽の宮殿をこの世に表そうとした建物で、10円硬貨の図柄にもなっている。 年表で見る ›
- 中尊寺金色堂ちゅうそんじこんじきどう1124年
岩手県平泉町の中尊寺にある阿弥陀堂。奥州藤原氏の初代藤原清衡が建てた。堂の内外に金箔が貼られ、螺鈿や漆などで豪華に飾られている。須弥壇の中には清衡ら奥州藤原氏4代の遺体が納められている。浄土信仰が地方にも広まったことと、金を産出した奥州藤原氏の豊かさを示す建物で、国宝に指定されている。 年表で見る ›
- 鳥羽上皇とばじょうこう1103〜1156年
平安時代後期の天皇・上皇。祖父の白河上皇の死後、1129年から院政を始め、約28年にわたって政治の実権を握った。多くの荘園を集めて経済力を高め、平忠盛ら武士を取り立てた。しかし子の崇徳上皇と対立し、自身の死の直後、その対立と摂関家の内紛が結びついて保元の乱が起きた。 年表で見る ›
- 保元の乱ほうげんのらん1156年
鳥羽上皇の死後、京都で起きた内乱。皇位をめぐる後白河天皇と崇徳上皇の対立に、摂関家の藤原忠通と頼長兄弟の争いが結びついた。双方が平氏や源氏の武士を集めて戦い、平清盛や源義朝を味方にした後白河天皇方が勝利した。崇徳上皇は讃岐に流された。貴族の争いが武士の力で決着したことで、武士の政界進出のきっかけとなった。 年表で見る ›
- 太政大臣だじょうだいじん1167年(平清盛の就任)
律令制で最高位の官職。ふさわしい人物がいなければ置かない名誉職でもあった。1167年、保元の乱と平治の乱に勝って力を伸ばした平清盛が、武士として初めて太政大臣に就任した。清盛は娘を天皇の后とし、一族も高い官職につけて朝廷の実権を握った。日宋貿易にも力を入れたが、権力の独占は反発を招き、源平の争乱が起きた。 年表で見る ›
- 浄土宗じょうどしゅう1175年
法然が開いた仏教の宗派。比叡山で学んだ法然は、ひたすら「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、誰でも阿弥陀仏の力で極楽浄土に生まれ変わることができると説いた(専修念仏)。厳しい修行や学問を必要としない教えは、戦乱や飢饉に苦しむ武士や庶民に広く受け入れられた。弟子の親鸞の浄土真宗など、鎌倉仏教の出発点となった。 年表で見る ›
- 源頼朝みなもとのよりとも1147〜1199年
鎌倉幕府を開いた武将。平治の乱で敗れた源義朝の子で、伊豆に流されていた。1180年、平氏打倒の命令を受けて挙兵し、鎌倉を拠点に東国の武士をまとめた。弟の義経らに平氏を滅ぼさせ、守護・地頭を置く権限を朝廷に認めさせた。1192年に征夷大将軍に任じられた。御恩と奉公による主従関係にもとづく武家政権を築いた。 年表で見る ›
- 一ノ谷の戦いいちのたにのたたかい1184年
源平の争乱で、源範頼と源義経が率いる源氏軍が、摂津国の一ノ谷(現在の神戸市)に陣を構えた平氏軍を破った戦い。義経が背後の崖から馬で駆け下りて奇襲したという「鵯越の逆落とし」の話が知られる。敗れた平氏は海へ逃れ、四国の屋島に拠点を移した。源氏の優勢が決定的になった。 年表で見る ›
日本史:鎌倉時代 1185ごろ〜1333年
- 北条政子ほうじょうまさこ1157〜1225年
源頼朝の妻で、北条時政の娘。頼朝の死後、出家して尼となりながらも幕府の政治に深く関わり、「尼将軍」とよばれた。1221年に後鳥羽上皇が承久の乱を起こしたとき、動揺する御家人に頼朝の御恩を説いて結束を訴えたと伝えられ、幕府側の勝利につながった。 年表で見る ›
- 北条泰時ほうじょうやすとき1183〜1242年
鎌倉幕府の3代執権。承久の乱では幕府軍を率いて京都を攻め、その後は六波羅探題として朝廷の監視にあたった。執権となると、有力な御家人による評定衆を置いて合議による政治を進めた。1232年には武士の慣習や頼朝以来の先例をもとに御成敗式目を定め、執権政治の基礎を固めた。 年表で見る ›
- 鎌倉幕府かまくらばくふ1185〜1333年
源頼朝が鎌倉に開いた武家政権。1185年に守護・地頭を置く権限を朝廷から認められ、1192年に頼朝は征夷大将軍となった。将軍が御家人の領地を保障する「御恩」と、御家人が戦いなどで仕える「奉公」の関係で結ばれていた。頼朝の死後は北条氏が執権として実権を握った。約150年続き、武士による政治の始まりとなった。 年表で見る ›
- 御恩と奉公ごおんとほうこう12世紀末〜14世紀前半
鎌倉幕府の将軍と御家人の主従関係。将軍は御家人の領地を保証したり、手柄に応じて新しい領地を与えたりした(御恩)。御家人はその代わりに、戦いのときには命がけで戦い、平時には京都や鎌倉の警備をつとめた(奉公)。土地を仲立ちとするこの関係が幕府を支えたが、元寇のあと恩賞が十分でなく、関係はゆらいだ。 12世紀の年表へ ›
- 守護・地頭しゅごじとう1185年
1185年に源頼朝が朝廷から設置を認められた役職。守護は国ごとに置かれ、御家人の統率や謀反人の取り締まりなど軍事・警察を担当した。地頭は荘園や公領ごとに置かれ、年貢の取り立てや土地の管理を行った。源義経の追討を理由に置かれたもので、これによって頼朝の支配が全国に及ぶようになった。 12世紀の年表へ ›
- 臨済宗りんざいしゅう1191年
宋に渡った栄西が日本に伝えた禅宗の一派。座禅を組み、師から与えられた問題(公案)を考え抜くことで悟りを得ようとする。鎌倉幕府の保護を受け、上級の武士の間に広まった。室町時代には幕府が五山の制度を整えて保護し、禅僧が政治や外交、学問、文化の面でも大きな役割を果たした。 年表で見る ›
- 平家物語へいけものがたり13世紀
平氏の繁栄から滅亡までを描いた軍記物語。「祇園精舎の鐘の声」で始まり、仏教の無常観を背景に、源平の争乱で活躍した武士たちの姿を描いている。作者ははっきりしない。琵琶法師が琵琶を弾きながら語り広めたことで、文字の読めない人々にも親しまれ、のちの文学や芸能に大きな影響を与えた。 13世紀の年表へ ›
- 金剛力士像こんごうりきしぞう1203年
東大寺南大門に安置されている一対の木造の仁王像。1203年に運慶・快慶らの仏師が、わずか約70日で完成させた。高さは8メートルをこえ、力強い動きと写実的な表現が特徴で、武士の気風を反映した鎌倉文化を代表する彫刻とされる。平氏による焼き打ちからの東大寺復興事業の一つとしてつくられた。 年表で見る ›
- 執権政治しっけんせいじ1203〜1333年
鎌倉幕府で、将軍を補佐する執権の北条氏が実権を握って行った政治。頼朝の死後、北条時政が初代執権となり、子の義時がさらに力を強めた。源氏の将軍が3代で絶えたのちは、承久の乱に勝利して幕府の支配を固めた。3代執権北条泰時のころには評定衆を置いて合議の政治が整えられた。のちに北条氏の嫡流である得宗に権力が集中していった。 年表で見る ›
- 新古今和歌集しんこきんわかしゅう1205年
後鳥羽上皇の命で藤原定家らが編纂した勅撰和歌集で、1205年に一応の完成をみた。西行や藤原定家らの歌を収め、言葉の響きや余情を重んじる、技巧をこらした優美な歌風が特徴である。武士が台頭するなかで、公家たちが伝統文化を守ろうとした動きを示すもので、のちの和歌に大きな影響を与えた。 年表で見る ›
- 承久の乱じょうきゅうのらん1221年
後鳥羽上皇が朝廷の権力を取り戻そうと、鎌倉幕府の執権北条義時を討つ命令を出して起こした兵乱。源実朝が暗殺され、源氏の将軍が途絶えたことが背景にあった。北条政子の訴えで御家人がまとまり、幕府の大軍が京都を占領した。上皇は隠岐に流された。幕府は京都に六波羅探題を置き、西日本にも支配を広げた。 年表で見る ›
- 六波羅探題ろくはらたんだい1221〜1333年
承久の乱のあと、鎌倉幕府が京都の六波羅に置いた役所とその長官。朝廷を監視するとともに、京都の警備や西日本の御家人の統率、裁判などを担当した。北条氏の一族が任じられ、幕府の力は西国へも及ぶようになった。1333年、足利尊氏らに攻められて滅び、鎌倉幕府滅亡の一因となった。 年表で見る ›
- 浄土真宗じょうどしんしゅう1224年(開宗とされる年)
法然の弟子である親鸞が開いた仏教の宗派。一向宗ともよばれる。阿弥陀仏を信じる心を重んじ、自分の罪を自覚する悪人こそが救われるという「悪人正機」の教えを説いた。わかりやすい教えは農民や武士の間に広まり、室町時代には蓮如の布教で大きな勢力となって、各地で一向一揆を起こすまでになった。 13世紀の年表へ ›
- 曹洞宗そうとうしゅう1227年
宋で禅を学んだ道元が日本に伝えた禅宗の一派。ひたすら座禅に打ちこむ「只管打坐」によって悟りを目指すことを説いた。道元は権力との結びつきを避け、越前に永平寺を開いて修行の場とした。地方の武士や農民の間に広まり、現在も多くの寺院と信者をもつ宗派となっている。 13世紀の年表へ ›
- 御成敗式目ごせいばいしきもく1232年
鎌倉幕府の執権北条泰時が定めた、武士のための最初の法。貞永式目ともいう。承久の乱の後、土地をめぐる争いが増えたため、裁判の公正な基準として定められた。源頼朝以来の先例や武士の社会の道理をもとに、51か条で領地の相続や守護・地頭の役目などを定めた。武家の法の手本として、後の時代にも長く影響を与えた。 年表で見る ›
- 北条時宗ほうじょうときむね1251〜1284年
鎌倉幕府の8代執権。フビライが国書を送って服属を求めてきたが、これを退けて九州の防備を固めた。元・高麗の軍が攻めてきた文永の役と弘安の役では、御家人を動員してこれを退けた。禅宗を厚く信仰し、宋から無学祖元を招いて鎌倉に円覚寺を開き、戦いで亡くなった人々をとむらった。 年表で見る ›
- 日蓮にちれん1222〜1282年
鎌倉時代の僧で、日蓮宗(法華宗)の開祖。安房国(現在の千葉県)に生まれ、比叡山などで学んだ。法華経こそが正しい教えであり、「南無妙法蓮華経」と題目を唱えれば救われると説いた。『立正安国論』で他の宗派を批判し、法華経を信じなければ国難が起こると幕府に訴えたため、たびたび迫害を受け、伊豆や佐渡に流された。 年表で見る ›
- 元寇げんこう1274年・1281年
鎌倉時代、モンゴル帝国(元)の軍が2度にわたって九州北部に攻めてきた出来事。蒙古襲来ともいう。1274年の文永の役、1281年の弘安の役ともに、御家人の奮戦や暴風雨などにより元軍は退いた。しかし防衛戦で新しい領地は得られず、御家人に十分な恩賞を与えられなかったため、幕府への不満が高まった。 年表で見る ›
- 文永の役ぶんえいのえき1274年
元のフビライが、高麗の軍とともに約3万人の大軍で日本に攻めてきた、1度目の元寇。対馬・壱岐を経て博多湾に上陸した。元軍の集団戦法や火薬を使った武器に、一騎打ちに慣れた日本の武士は苦戦した。元軍は1日で船に引き上げ、まもなく撤退した。幕府は再来に備えて博多湾沿いに石塁(防塁)を築かせた。 年表で見る ›
- 弘安の役こうあんのえき1281年
2度目の元寇。元は高麗からの東路軍と、旧南宋の兵からなる江南軍の約14万人で再び日本に攻めてきた。日本の武士は博多湾の石塁を守って上陸を防ぎ、海上でも反撃した。その後、暴風雨によって元軍の多くの船が沈み、元軍は撤退した。戦いに勝っても新しい領地は得られず、恩賞の不足から御家人の不満が高まった。 年表で見る ›
- 永仁の徳政令えいにんのとくせいれい1297年
1297年に鎌倉幕府が出した法令。元寇の負担や分割相続による領地の細分化で生活が苦しくなった御家人を救うため、御家人が質入れや売却をした領地をただで取り戻させることを定めた。しかし一時的な効果にとどまり、かえって御家人がお金を借りにくくなるなど経済が混乱し、幕府への信頼は低下した。 年表で見る ›
- 徒然草つれづれぐさ1330年ごろ
鎌倉時代の末に兼好法師(吉田兼好)が書いた随筆。人の生き方や世の中のできごと、自然や趣味についての考えを、短い章段に分けて自由につづっている。無常観にもとづきながら、ものごとを鋭く観察した文章が特徴である。清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』とともに日本の三大随筆に数えられる。 14世紀の年表へ ›
日本史:室町・戦国時代 1336〜1573年
- 足利尊氏あしかがたかうじ1305〜1358年
室町幕府の初代将軍。鎌倉幕府の有力な御家人であったが、後醍醐天皇の呼びかけに応じて六波羅探題を攻め落とし、幕府打倒に貢献した。建武の新政が武士の不満を集めると天皇と対立し、京都に北朝を立てて1338年に征夷大将軍となった。晩年は弟の直義との争いである観応の擾乱に苦しんだ。 年表で見る ›
- 建武の新政けんむのしんせい1334〜1336年
鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇が始めた天皇中心の政治。年号を建武と改め、公家を重んじる政治を行った。しかし、倒幕に功績のあった武士への恩賞が不公平で、急な政策の変更も多かったため、武士の不満が高まった。足利尊氏が反旗をひるがえして京都を占領し、新政は約2年半で崩れた。南北朝の対立が始まった。 年表で見る ›
- 守護大名しゅごだいみょう14〜15世紀
室町時代に、国内の武士を家来とし、一国を自分の領地のように支配するようになった守護。南北朝の動乱のなかで、幕府は守護に年貢の半分を取り立てる権利(半済)などを認めたため、守護の力が強まった。有力な守護大名は幕府の政治にも加わったが、応仁の乱のころから多くが家臣に実権を奪われ、没落していった。 年表で見る ›
- 南北朝の動乱なんぼくちょうのどうらん1336〜1392年
建武の新政が崩れたのち、足利尊氏が京都に立てた北朝と、後醍醐天皇が吉野に移って開いた南朝が対立し、約60年続いた争乱。各地の武士が両朝に分かれて戦い、足利氏の内部対立である観応の擾乱も重なって長引いた。この間に守護の権限が強まり、1392年に足利義満のもとで南北朝の合一が実現した。 14世紀の年表へ ›
- 室町幕府むろまちばくふ1336〜1573年
足利尊氏が開いた武家政権。1338年に尊氏が征夷大将軍となり、3代将軍足利義満が京都の室町に花の御所を構えたことから、この名でよばれる。有力な守護大名の連合に支えられた政権で、将軍の力は安定しなかった。応仁の乱のあとは急速に衰え、1573年に織田信長が足利義昭を京都から追放して滅んだ。 年表で見る ›
- 観応の擾乱かんのうのじょうらん1350〜1352年
室町幕府の初期に起きた内紛。将軍足利尊氏と、政治を任されていた弟の足利直義との対立に、尊氏の執事高師直と直義の争いが重なった。各地の武士もそれぞれの側について戦い、一時は南朝と手を結ぶ動きもあった。直義の死で終わったが、争乱は南北朝の対立を長引かせ、守護の力が強まるきっかけとなった。 年表で見る ›
- 倭寇わこう14〜16世紀
14〜16世紀に朝鮮半島や中国の沿岸で活動した海賊集団。前期の倭寇は九州北部や瀬戸内海の武士・漁民が中心で、食料をうばい、人々を連れ去った。明や朝鮮は日本に取り締まりを求め、勘合貿易が始まるきっかけとなった。16世紀の後期倭寇は中国人が多くを占めて密貿易を行ったが、豊臣秀吉の海賊停止令などによってしだいにおさまった。 年表で見る ›
- 足利義満あしかがよしみつ1358〜1408年
室町幕府の3代将軍。京都の室町に花の御所を建てて政治を行い、有力な守護大名の力をおさえて幕府の権力を強めた。1392年には南北朝の合一を実現した。また明と国交を開いて勘合貿易を始め、大きな利益を得た。京都の北山に金閣を建て、公家と武家の文化がとけあった北山文化が栄えた。 年表で見る ›
- 南北朝の合一なんぼくちょうのごういつ1392年
室町幕府の3代将軍足利義満の仲立ちで、京都の北朝と吉野の南朝が一つになった出来事。南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡す形で行われ、約60年続いた南北朝の対立は終わった。皇位は両統が交代で継ぐとの約束もあったが守られなかった。幕府の権威が高まり、義満は全国の支配を固めた。 年表で見る ›
- 北山文化きたやまぶんか14世紀末〜15世紀初め
室町幕府3代将軍足利義満のころに栄えた文化。義満が京都の北山に建てた金閣に代表されるように、公家の伝統的な文化と武家の文化、禅宗の文化がとけあっているのが特徴である。義満の保護のもとで観阿弥・世阿弥の父子が能を大成し、五山の禅僧による漢詩文などの学問も盛んになった。 年表で見る ›
- 勘合貿易かんごうぼうえき1404〜1547年
室町時代に日本と明との間で行われた貿易。日明貿易ともいう。倭寇と区別するため、明が与えた勘合という合い札を正式な貿易船に持たせた。足利義満が始め、日本は刀剣や銅などを輸出し、明からは銅銭や生糸などを輸入した。大量に入った明銭は日本の貨幣経済の発展を支えた。のちに大内氏や細川氏が貿易の実権を握った。 年表で見る ›
- 応永の外寇おうえいのがいこう1419年
朝鮮王朝の軍が、倭寇の根拠地とみなした対馬を攻撃した事件。当時、朝鮮半島や中国の沿岸は倭寇の被害を受けていた。約1万7千人の朝鮮軍が対馬に上陸し、対馬の宗氏の軍と戦ったが、まもなく撤退した。その後、日朝間の関係は回復し、宗氏を通じた貿易が続けられた。 年表で見る ›
- 正長の土一揆しょうちょうのどいっき1428年
近江国の馬借(運送業者)の蜂起をきっかけに、京都周辺の農民らが借金の帳消し(徳政)を求めて起こした一揆。土倉や酒屋などの金融業者や寺院を襲い、借金の証文を破り捨てた。将軍の代替わりや飢饉、流行病への不安が背景にあった。農民が団結して実力で要求を通そうとした最初の大規模な一揆として知られる。 年表で見る ›
関連応仁の乱
- 琉球王国りゅうきゅうおうこく1429〜1879年
1429年に中山王の尚巴志が沖縄島の三つの勢力(三山)を統一して建てた王国。首里を都とし、明に朝貢しながら、日本や朝鮮、東南アジアの国々との間で品物を取りつぐ中継貿易で栄えた。1609年に薩摩藩に攻められてその支配を受けるようになったが、中国との関係も続けた。1879年の琉球処分で沖縄県となった。 年表で見る ›
- 足利義政あしかがよしまさ1436〜1490年
室町幕府の8代将軍。政治への関心がうすく、将軍のあとつぎ問題に守護大名の畠山氏・斯波氏の家督争いや細川勝元と山名持豊の対立がからんで、1467年に応仁の乱が起こった。乱ののちは京都の東山に山荘を営み、銀閣を建てた。その周辺で生まれた、禅の精神を背景とする簡素で趣のある文化を東山文化という。 年表で見る ›
- 応仁の乱おうにんのらん1467〜1477年
室町幕府の8代将軍足利義政の後継ぎ争いに、有力な守護大名の畠山氏や斯波氏の家督争いが結びついて起きた大乱。細川勝元の東軍と山名持豊(宗全)の西軍に分かれ、約11年にわたって京都を中心に戦った。京都は焼け野原となり、幕府の権威は失われた。下の者が上の者に実力で取って代わる下剋上の戦国時代が始まった。 年表で見る ›
関連正長の土一揆
- 下剋上げこくじょう15〜16世紀
身分や地位の下の者が、上の者を実力でたおしてその地位をうばうこと。応仁の乱のあと幕府の権威が衰えると、守護大名の家臣や国人が主君をしのいで国を支配する例が各地で見られるようになった。こうした実力本位の風潮のなかから戦国大名が生まれ、戦国時代の社会を特徴づける言葉となった。 15世紀の年表へ ›
- 戦国大名せんごくだいみょう15世紀末〜16世紀
戦国時代に、自分の実力で領国をつくりあげ、独自に支配した大名。守護大名から成長した者のほか、守護代や国人から下剋上でのしあがった者も多い。城下町を築いて家臣や商工業者を集め、分国法を定めて領国を治めた。また検地を行って土地と農民を把握し、治水や鉱山開発などで国力を高めた。 15世紀の年表へ ›
- 東山文化ひがしやまぶんか15世紀後半
室町幕府8代将軍足利義政のころに栄えた文化。義政が京都の東山に建てた銀閣や東求堂同仁斎に代表され、禅宗の影響を受けた簡素で落ち着いた美しさが特徴である。たたみや床の間を備えた書院造が生まれ、雪舟が水墨画を大成し、茶の湯や生け花も広まった。現在の和風の生活文化のもとになった。 年表で見る ›
- 山城の国一揆やましろのくにいっき1485〜1493年
1485年、山城国(京都府南部)の南部で国人(地元の武士)と農民が団結して起こした一揆。応仁の乱が終わったあとも戦い続けていた畠山氏の両軍を国外に退去させ、その後約8年間にわたって自分たちで地域を治めた。応仁の乱のころから広まった、下の者が上の者をしのぐ下剋上の風潮をよく表す出来事とされる。 年表で見る ›
- 一向一揆いっこういっき15世紀後半〜16世紀
浄土真宗(一向宗)の信者である武士や農民が団結して起こした一揆。蓮如の布教で信者の結びつきが強まり、1488年には加賀の一向一揆が守護の富樫氏をたおして、約100年間にわたり加賀国を治めた。戦国時代には各地で大名と争い、石山本願寺を中心に織田信長とも長く戦ったが、1580年に降伏した。 年表で見る ›
- 分国法ぶんこくほう16世紀
戦国大名が自分の領国を治めるために定めた独自の法律。家法ともいう。家臣の統制や領国の秩序を保つことを目的とし、けんかをした者を理由を問わず両方とも罰するけんか両成敗や、他国との勝手な通信・婚姻の禁止などを定めた。今川氏の「今川仮名目録」、武田氏の「甲州法度之次第」などが知られる。 16世紀の年表へ ›
- 鉄砲伝来てっぽうでんらい1543年
種子島に漂着した船に乗っていたポルトガル人が、日本に初めて鉄砲を伝えた出来事。島主の種子島時尭が2挺を買い求めて家臣に製法を学ばせ、やがて堺や国友などで大量に作られるようになった。鉄砲は戦国大名の戦い方や城の造りを大きく変え、長篠の戦いなどでの活用が天下統一を早めたとされる。 年表で見る ›
- フランシスコ・ザビエルふらんしすこざびえる1506〜1552年
スペイン出身のイエズス会宣教師で、日本に初めてキリスト教を伝えた人物。インドやマラッカで布教した後、日本人ヤジローと出会い、1549年に鹿児島に上陸して、山口や豊後などで大名の保護を受けながら約2年間布教した。その後中国への布教を目指したが途中で病死し、彼の来日をきっかけに西日本を中心にキリスト教が広まった。 年表で見る ›
日本史:安土桃山時代 1573〜1603年
- 織田信長おだのぶなが1534〜1582年
尾張の戦国大名。桶狭間の戦いで今川義元を破って台頭し、1573年には将軍足利義昭を京都から追放して室町幕府を滅ぼした。長篠の戦いで鉄砲を有効に使い、安土城を拠点に天下統一を進めた。楽市楽座で商工業を盛んにし、仏教勢力を武力でおさえたが、1582年に本能寺の変で家臣の明智光秀にそむかれて自害した。 年表で見る ›
- 豊臣秀吉とよとみひでよし1537〜1598年
織田信長の家臣から出て天下統一をなしとげた武将。本能寺の変のあと山崎の戦いで明智光秀を破り、信長の後継者の地位を固めた。大坂城を本拠とし、関白・太政大臣となって1590年に全国を統一した。太閤検地や刀狩で兵農分離を進め、近世社会の土台を築いた。晩年には2度にわたり朝鮮へ出兵したが、失敗に終わった。 年表で見る ›
- 楽市楽座らくいちらくざ1567年・1577年
戦国大名が城下町などで市場の税を免除し、座の特権を廃止して、だれでも自由に商売ができるようにした政策。座とは、公家や寺社の保護を受けて営業を独占していた商工業者の同業組合である。織田信長が美濃の加納や安土の城下町で出したものが有名で、商人を集めて城下町を栄えさせ、経済を活発にするねらいがあった。 16世紀の年表へ ›
- 姉川の戦いあねがわのたたかい1570年
織田信長・徳川家康の連合軍が、近江の浅井長政と越前の朝倉義景の連合軍を破った戦い。信長の妹お市を妻としていた浅井長政が、信長の朝倉攻めをきっかけに離反したことが原因だった。決定的な勝利ではなかったが、信長はその後も両氏を追い詰め、1573年に浅井・朝倉を滅ぼした。 年表で見る ›
- 大村純忠おおむらすみただ1533〜1587年
肥前(現在の長崎県)の戦国大名で、日本で最初のキリシタン大名。ポルトガルとの貿易の利益を求めてキリスト教に近づき、1563年に洗礼を受け、1570年に長崎を開港してポルトガル船を迎え、のちに長崎をイエズス会に寄進した。1582年には大友宗麟・有馬晴信とともに、天正遣欧使節をローマへ送り出した。 年表で見る ›
- 長篠の戦いながしののたたかい1575年
織田信長・徳川家康の連合軍が、三河の長篠・設楽原で武田勝頼の軍を破った戦い。強力な騎馬隊で知られた武田軍に対し、連合軍は馬防柵を築き、大量の鉄砲を用いて迎え撃った。武田氏はこの敗北で多くの重臣を失って衰え、鉄砲が戦いの主役となる時代を象徴する戦いとされる。 年表で見る ›
- 太閤検地たいこうけんち1582〜1598年
豊臣秀吉が全国で行った検地。ものさしやますを統一し、田畑の面積やよしあしを調べて、とれる米の量を石高で表した。実際に耕作している農民を検地帳に登録して年貢を納める責任を負わせ、荘園以来の複雑な土地の権利関係は整理された。これにより、石高をもとに大名や農民を支配する近世の仕組みが整った。 年表で見る ›
- 天正遣欧使節てんしょうけんおうしせつ1582〜1590年
九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信がローマへ送った4人の少年使節。イエズス会の宣教師ヴァリニャーノの計画で、日本での布教の成果をヨーロッパに示す目的があり、一行はローマ教皇に会うなど各地で歓迎された。しかし1590年に帰国したときには豊臣秀吉がバテレン追放令を出しており、その後の運命は苦難に満ちたものとなった。 年表で見る ›
- 本能寺の変ほんのうじのへん1582年
家臣の明智光秀が謀反を起こし、京都の本能寺に泊まっていた織田信長を襲った事件。信長は自害し、天下統一を目前にした織田政権は大きく揺らいだが、光秀が謀反に踏み切った理由は今もはっきりしていない。光秀は十数日後に山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ、以後は秀吉が天下統一を進めることになった。 年表で見る ›
- 山崎の戦いやまざきのたたかい1582年
本能寺の変で織田信長を倒した明智光秀を、羽柴(豊臣)秀吉が京都郊外の山崎で破った戦い。中国地方で毛利氏と戦っていた秀吉は、変の知らせを受けるとすぐに和睦して軍を引き返し(中国大返し)、光秀は敗れて逃げる途中で討たれた。この勝利によって秀吉は信長の後継者としての地位を固めた。 年表で見る ›
- バテレン追放令ばてれんついほうれい1587年
1587年に豊臣秀吉が出した、キリスト教の宣教師(バテレン)を国外に追放する命令。九州で大名がキリスト教に改宗し、長崎がイエズス会に寄進されていたことなどを知った秀吉が、全国支配のさまたげになると考えて出した。しかし南蛮貿易は奨励し続けたため、取り締まりは不徹底に終わった。 年表で見る ›
- 刀狩かたながり1588年
1588年に豊臣秀吉が刀狩令を出し、百姓から刀や弓、やり、鉄砲などの武器を取り上げた政策。一揆を防ぎ、百姓を農業に専念させることが目的で、集めた武器は方広寺の大仏をつくるくぎなどに使うと説明された。太閤検地と合わせて、武士と百姓の身分を分ける兵農分離が進み、江戸時代の身分制度の基礎となった。 年表で見る ›
- 文禄の役ぶんろくのえき1592〜1593年
豊臣秀吉が明の征服を目指して朝鮮に大軍を送った戦い。朝鮮に明への道案内を求めて拒否された秀吉は約15万の軍を送り、日本軍は初め漢城(ソウル)や平壌を占領した。しかし李舜臣の水軍や義兵の抵抗、明の援軍によって押し戻されて休戦となり、朝鮮では「壬辰倭乱」と呼ばれる。 年表で見る ›
関連慶長の役
- 慶長の役けいちょうのえき1597〜1598年
文禄の役の講和交渉が決裂したため、豊臣秀吉が再び朝鮮に軍を送った戦い。日本軍は朝鮮南部で苦しい戦いを強いられ、1598年に秀吉が死去すると撤退した。二度の出兵で朝鮮の国土は荒れ、多くの人々が日本へ連れ去られた一方、豊臣政権も大名の負担と対立で弱まり、のちの関ヶ原の戦いにつながった。 年表で見る ›
日本史:江戸時代 1603〜1867年
- 江戸幕府えどばくふ1603〜1867年
徳川家康が征夷大将軍に任じられて江戸に開いた武家政権。将軍が全国の大名を統制する幕藩体制をとり、武家諸法度や参勤交代で大名を従わせ、対外的には貿易と交流を制限する「鎖国」体制をとった。約260年にわたり大きな戦乱のない時代が続いたが、幕末の開国と混乱のなかで大政奉還を行い、政権を朝廷に返した。 年表で見る ›
- 大坂の陣おおさかのじん1614〜1615年
徳川家康が、大坂城の豊臣秀頼を攻め滅ぼした冬・夏二度の戦い。方広寺の鐘の銘文を口実に家康が開戦し、冬の陣では真田信繁(幸村)の真田丸などで豊臣方が善戦して講和となった。しかし堀を埋められた大坂城は翌年の夏の陣で落城して豊臣氏は滅び、徳川の支配が確立した。 年表で見る ›
- 島原の乱しまばらのらん1637〜1638年
肥前の島原と肥後の天草で起きた、キリシタンの農民を中心とする大規模な一揆。厳しい年貢の取り立てとキリスト教の弾圧に苦しんだ人々が、少年の天草四郎(益田時貞)を指導者に原城に立てこもり、幕府は約12万の大軍で鎮圧した。この後、幕府はキリスト教の取り締まりを強め、ポルトガル船の来航を禁止した。 年表で見る ›
- ポルトガル船ぽるとがるせん1639年
江戸幕府が1639年にポルトガル船の来航を禁止したこと。ポルトガルは布教と貿易を一体で行っており、島原の乱の後、幕府はキリスト教の広がりを強く警戒した。1641年にはオランダ商館を長崎の出島に移し、貿易相手を布教をしないオランダと中国に限ったことで、いわゆる「鎖国」の体制が完成した。 年表で見る ›
- 寛永の大飢饉かんえいのだいききん1642〜1643年
江戸時代初期に全国を襲った大飢饉。干ばつや冷害、長雨などの異常気象が重なって各地で米が大凶作となり、重い年貢負担もあって多くの餓死者が出た。幕府はこれを教訓に、農民の暮らしを守ることが年貢を確保する土台だと考え、田畑永代売買禁止令などで農村の安定をはかった。 年表で見る ›
- 由井正雪ゆいしょうせつ1605〜1651年
江戸時代前期の兵学者で、慶安の変の首謀者。江戸で軍学塾を開いて多くの門人を集め、3代将軍家光の死の直後、大名の取りつぶしで増えた浪人たちとともに幕府転覆を計画したが、事前に発覚して駿府で自害した。この事件をきっかけに幕府は大名の取りつぶしを減らし、武力ではなく法や儀礼で治める文治政治に転換した。 年表で見る ›
関連江戸幕府
- 明暦の大火めいれきのたいか1657年
江戸の大半を焼いた大火事で、振袖火事とも呼ばれる。強い北風にあおられた火は3日間燃え広がり、江戸城の天守閣も焼け落ちて、死者は10万人ともいわれる。幕府はこの経験から大名屋敷や寺社を移転させ、火よけの広小路や空き地を設けるなど、江戸の町の造りを大きく変えた。 年表で見る ›
- ケンペルけんぺる1651〜1716年
ドイツ出身の医師・博物学者で、オランダ東インド会社の医師として1690年に長崎の出島に来日し、約2年間滞在した。2度の江戸参府で5代将軍綱吉にも会い、日本の政治や社会、自然を詳しく記録した。死後に出版された『日本誌』はヨーロッパで広く読まれ、その一部の翻訳から「鎖国」という言葉が生まれた。 年表で見る ›
- 元禄小判げんろくこばん1695年
5代将軍徳川綱吉の時代に、勘定吟味役の荻原重秀の提案で発行された小判。金銀の産出量の減少や寺社の造営などで財政難に陥った幕府は、金の含有量を減らした小判に作り直し、その差額を収入とした。幕府の財政は一時的に潤ったが、貨幣の価値が下がって物価が上がり、人々の生活を苦しめた。 年表で見る ›
- 享保の改革きょうほうのかいかく1716〜1745年
8代将軍徳川吉宗が行った幕府政治の改革。財政難を立て直すため、倹約を命じるとともに、大名に米を納めさせる上げ米や新田開発、年貢の増徴を進め、目安箱の設置や公事方御定書の制定も行った。財政は一時好転したが、年貢の負担が重くなった農民の一揆も増えた。 年表で見る ›
- 徳川吉宗とくがわよしむね1684〜1751年
江戸幕府の8代将軍。紀伊藩主から将軍となり、享保の改革を行って幕府の財政を立て直し、米の値段の安定に力を注いだことから「米将軍」と呼ばれた。目安箱の設置や公事方御定書の制定、町火消の組織、漢訳洋書の輸入制限の緩和など、実用を重んじた政治を行った。 年表で見る ›
- 町火消まちびけし1720年
江戸の町人たちによってつくられた消防組織。火事の多い江戸では武家の火消だけでは町の防火が十分でなかったため、8代将軍吉宗のもとで町奉行の大岡忠相が組織させ、1720年には「いろは47組」(のち48組)がつくられた。建物を壊して延焼を防ぐ方法が中心で、江戸の町人文化の象徴の一つにもなった。 年表で見る ›
- 堂島米会所どうじまこめかいしょ1730年
大坂の堂島にあった米の取引所。全国の諸藩の年貢米が集まる大坂では米の売買が盛んで、米価を安定させたい8代将軍吉宗が1730年にこの取引所を公認した。ここでは米の現物だけでなく将来の値段で売買する先物取引も行われ、世界で最も早い時期に組織的な先物市場が整えられた例とされる。 年表で見る ›
- 公事方御定書くじかたおさだめがき1742年
8代将軍徳川吉宗のもとで定められた、裁判や刑罰の基準をまとめた法典。それまでの判例を整理し、裁判を公平で迅速に行うことを目指したもので、上巻は法令、下巻は「御定書百箇条」と呼ばれる刑罰の規定からなる。奉行など一部の役人だけが見られる法典だったが、江戸時代の裁判の基本として使われ続けた。 年表で見る ›
- 寛政の改革かんせいのかいかく1787〜1793年
老中松平定信が行った幕府政治の改革。天明の飢饉や打ちこわしで社会が混乱した後、田沼意次の政治を改め、祖父吉宗の享保の改革を手本に、倹約令や飢饉に備える囲米、旗本・御家人の借金を帳消しにする棄捐令、寛政異学の禁などを出した。しかし統制が厳しすぎて反発を招き、定信は約6年で老中を退いた。 年表で見る ›
- ラクスマンらくすまん1766年〜没年不詳
ロシアの軍人で、日本に来た最初のロシアの正式な使節。エカチェリーナ2世の命で、伊勢の漂流民大黒屋光太夫らを送り届けるため1792年に根室に来航し、通商を求めた。幕府は長崎への入港を許す許可証(信牌)を与えて帰国させたが通商には応じず、この来航は幕府が北方の防備を意識するきっかけとなった。 年表で見る ›
- 伊能忠敬いのうただたか1745〜1818年
江戸時代後期の測量家で、日本全国を歩いて正確な日本地図をつくった人物。下総の佐原で商人として成功した後、50歳で隠居して江戸で天文学や測量を学び、1800年の蝦夷地測量から17年かけて全国を測量した。その成果は死後に「大日本沿海輿地全図」として完成し、明治以降も使われるほど正確だった。 年表で見る ›
関連シーボルト
- 十返舎一九じっぺんしゃいっく1765〜1831年
江戸時代後期の戯作者で、滑稽本『東海道中膝栗毛』の作者として知られる。弥次郎兵衛と喜多八の2人が東海道を旅しながら失敗や騒動を繰り広げる物語で、大評判となって続編が次々に書かれた。庶民の旅行が盛んになった時代を背景に、笑いを通して各地の風俗を描き、化政文化を代表する作品の一つとなった。 年表で見る ›
関連滝沢馬琴
- ゴローニン事件ごろーにんじけん1811〜1813年
ロシア軍艦の艦長ゴローニン(ゴロヴニーン)が、国後島で松前奉行の役人に捕らえられた事件。数年前にロシア軍艦が樺太や択捉島の日本の拠点を襲撃しており、幕府は警戒を強めていた。ロシア側は報復として商人高田屋嘉兵衛を捕らえたが、嘉兵衛の仲介で交渉が進んで1813年にゴローニンは解放され、日露の緊張はやわらいだ。 年表で見る ›
- 滝沢馬琴たきざわばきん1767〜1848年
江戸時代後期の読本作者で、曲亭馬琴とも名のる。代表作の『南総里見八犬伝』は、仁・義・礼などの文字が入った玉を持つ8人の剣士が活躍する壮大な物語で、善を勧め悪を懲らしめる勧善懲悪を軸に28年かけて書き上げられた。晩年は失明したが、口述で書き続けて作品を完成させた。 年表で見る ›
関連十返舎一九
- 松前藩まつまえはん1604〜1871年
蝦夷地(現在の北海道)の南部を治めた藩。米がとれない土地のため、アイヌとの交易を独占することを幕府から認められてその利益を財政の基盤とし、不利な交易に苦しんだアイヌは1669年にシャクシャインの戦いを起こした。ロシアの南下に備えて蝦夷地は一時幕府の直轄地となったが、1821年に松前藩に戻された。 年表で見る ›
- シーボルトしーぼると1796〜1866年
ドイツ出身の医師・博物学者で、オランダ商館の医師として1823年に長崎の出島に来日した。長崎郊外に鳴滝塾を開いて高野長英らに西洋医学や自然科学を教えたが、帰国の際に持ち出し禁止の日本地図を持っていたことが発覚して国外追放となった(シーボルト事件)。帰国後は『日本』などを著して、日本をヨーロッパに紹介した。 年表で見る ›
- 会沢正志斎あいざわせいしさい1782〜1863年
江戸時代後期の水戸藩の儒学者で、後期水戸学を代表する人物。外国船がたびたび日本近海に現れ、幕府が異国船打払令を出した1825年に『新論』を書き、天皇を中心とする国のあり方(国体)を説いて、外国の脅威に備え国内の体制を固めるべきだと論じた。この書は幕末の志士たちに広く読まれ、尊王攘夷運動の理論的な支えとなった。 年表で見る ›
関連佐久間象山
- 天保の飢饉てんぽうのききん1833〜1839年
江戸時代後期に全国で起きた大飢饉。冷夏や大雨による凶作が数年にわたって続き、米の値段が大きく上がって多くの餓死者が出た。各地で百姓一揆や打ちこわしが相次ぎ、1837年には大坂で大塩平八郎の乱が起きるなど、幕府や藩の支配の揺らぎが明らかになり、天保の改革が行われるきっかけとなった。 年表で見る ›
- 大塩平八郎の乱おおしおへいはちろうのらん1837年
大坂町奉行所の元与力で陽明学者の大塩平八郎が、門弟らとともに起こした反乱。天保の飢饉で人々が苦しむなか、奉行所が救済策をとらず、米を江戸へ送り続けたことに憤って兵を挙げたが、乱は半日で鎮圧され、大塩は後に自害した。元幕府役人が幕府の直轄地で反乱を起こしたことは、幕府に大きな衝撃を与えた。 年表で見る ›
- 天保の改革てんぽうのかいかく1841〜1843年
老中水野忠邦が行った幕府政治の改革。天保の飢饉や外国船の接近で内外の危機が深まるなか、享保・寛政の改革を手本に、厳しい倹約令やぜいたくの禁止、物価を下げるための株仲間の解散などを行った。しかし江戸・大坂周辺を幕府の直轄地にしようとした上知令が大名や旗本の強い反対を受け、約2年で失敗に終わった。 年表で見る ›
- 水野忠邦みずのただくに1794〜1851年
江戸時代後期の老中で、天保の改革を行った人物。浜松藩主として幕府の要職に就き、11代将軍家斉の死後に幕政の実権を握った。アヘン戦争で清が敗れたことに危機感を持ち、倹約令や株仲間の解散、上知令などで幕府の権威と財政の立て直しをはかったが、改革は厳しすぎて反発を受け、老中を罷免された。 年表で見る ›
- 佐久間象山さくましょうざん1811〜1864年
幕末の思想家・兵学者。信濃の松代藩士で、アヘン戦争をきっかけに西洋の砲術や科学を学んで海防の強化を説き、「東洋道徳、西洋芸術(技術)」という言葉で知られる。勝海舟や吉田松陰、坂本龍馬らが彼のもとで学んだが、開国と公武合体を唱えたことで尊王攘夷派に京都で殺害された。 年表で見る ›
- 上知令あげちれい1843年
老中水野忠邦が天保の改革の中で出した法令。海防を固めることと幕府の財政を立て直すことを目的に、江戸と大坂の周辺の大名や旗本の領地を幕府の直轄地とし、代わりの土地を与えようとした。しかし領地を取り上げられる大名・旗本の強い反対を受けて撤回され、水野忠邦は失脚して天保の改革は失敗に終わった。 年表で見る ›
- ペリーぺりー1794〜1858年
アメリカの海軍軍人で、日本に開国を求めた東インド艦隊の司令長官。捕鯨船の補給基地や中国貿易の中継地を求めるアメリカの方針のもと、1853年に4隻の軍艦(黒船)を率いて浦賀に来航し、大統領の国書を渡して開国を迫った。翌年再び来航して日米和親条約を結ばせ、日本の鎖国を終わらせるきっかけとなった。 年表で見る ›
- 日米和親条約にちべいわしんじょうやく1854年
江戸幕府がアメリカとの間で結んだ条約で、神奈川条約ともいう。ペリーの再来航を受けて結ばれ、下田と箱館の2港を開いて、アメリカ船に燃料や水、食料を供給することや、下田に領事を置くこと、アメリカに一方的な最恵国待遇を与えることを定めた。これにより200年余り続いた鎖国体制が終わった。 年表で見る ›
- 安政の大獄あんせいのたいごく1858〜1859年
大老井伊直弼が、自分の政策に反対する大名や公家、志士らを厳しく処罰した事件。井伊は天皇の許しを得ないまま日米修好通商条約を結び、将軍の後継ぎ問題でも反対派を押し切ったため、これを批判した徳川斉昭らは謹慎となり、吉田松陰や橋本左内らは処刑された。強引な弾圧への反発から、井伊は桜田門外の変で暗殺された。 年表で見る ›
- 日米修好通商条約にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく1858年
江戸幕府がアメリカと結んだ通商条約で、大老井伊直弼が天皇の許しを得ないまま調印した。神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)・箱館を開港して貿易を始めることを定めたが、アメリカに領事裁判権を認め、日本に関税自主権がない不平等な内容だった。同様の条約はオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも結ばれた。 年表で見る ›
- 咸臨丸かんりんまる1860年
江戸幕府がオランダから購入した軍艦で、日本の船として初めて太平洋を横断した。日米修好通商条約の批准書交換のための遣米使節に随行し、勝海舟が指揮をとり、福沢諭吉らも乗り込んで、アメリカ人乗組員の協力も得て37日かけてサンフランシスコに到着した。日本人が西洋の文化に直接触れる貴重な機会となった。 年表で見る ›
- 遣米使節けんべいしせつ1860年
日米修好通商条約の批准書を交換するため、江戸幕府がアメリカに派遣した使節団。正使は新見正興で、一行はアメリカ軍艦ポーハタン号で太平洋を渡り、咸臨丸も随行した。ワシントンで大統領に会って批准書を交換し、各地で工場や造船所などを見学したもので、江戸幕府が欧米に送った最初の公式な使節となった。 年表で見る ›
- 桜田門外の変さくらだもんがいのへん1860年
江戸城桜田門の外で、大老井伊直弼が暗殺された事件。井伊が天皇の許しを得ずに日米修好通商条約を結び、安政の大獄で反対派を厳しく処罰したことに、水戸藩などの浪士が反発して襲撃した。幕府の最高責任者が白昼に討たれたことで幕府の権威は大きく落ち、以後は朝廷と協調する公武合体策が進められた。 年表で見る ›
- 和宮かずのみや1846〜1877年
孝明天皇の妹で、14代将軍徳川家茂の妻となった皇女。桜田門外の変の後、幕府は朝廷との結びつきで権威を回復しようとする公武合体策を進め、その象徴として和宮の降嫁を求め、婚約者がいた和宮は1862年に家茂と結婚した。家茂の死後は静寛院宮と名のり、戊辰戦争の際には徳川家の存続のために尽力した。 年表で見る ›
- 寺田屋事件てらだやじけん1862年
京都伏見の旅館寺田屋で、薩摩藩の急進的な尊王攘夷派の藩士が、同じ藩の命を受けた藩士に討たれた事件。公武合体の立場をとる藩の実力者島津久光が、倒幕の挙兵を計画した藩士たちを鎮めようとし、説得が失敗して斬り合いとなった。なお1866年には同じ寺田屋で坂本龍馬が襲われる事件も起きている。 年表で見る ›
- 生麦事件なまむぎじけん1862年
島津久光の行列が江戸から京都へ戻る途中、横浜近くの生麦村で、行列を横切ったイギリス人を薩摩藩士が殺傷した事件。イギリスは幕府と薩摩藩に謝罪と賠償を求めたが、薩摩藩は応じなかったため、翌年イギリス艦隊が鹿児島を攻撃する薩英戦争が起きた。この戦いを経て薩摩藩は攘夷の難しさを悟り、イギリスに接近していった。 年表で見る ›
- 薩英戦争さつえいせんそう1863年
生麦事件をきっかけに、イギリス艦隊と薩摩藩の間で起きた戦い。イギリスは賠償などを求めて鹿児島湾に艦隊を送り、交渉が決裂して戦闘となって、鹿児島の町は砲撃で大きな被害を受け、イギリス艦隊も損害を受けた。薩摩藩は西洋の軍事力を実感して攘夷を改め、その後イギリスと接近して軍備の近代化を進めた。 年表で見る ›
- 新選組しんせんぐみ1863〜1869年
幕末の京都で、尊王攘夷派の取り締まりにあたった浪士の組織。将軍の上洛を警護するために集められた浪士組の一部が京都守護職の松平容保の配下に入ったもので、近藤勇や土方歳三らが率い、1864年の池田屋事件で名を上げた。戊辰戦争では旧幕府軍として戦い、箱館での降伏によって終わった。 年表で見る ›
- 禁門の変きんもんのへん1864年
長州藩が京都に攻め上り、御所の門の周辺で会津藩・薩摩藩などと戦った事件で、蛤御門の変ともいう。前年の八月十八日の政変で京都を追われた長州藩は、池田屋事件をきっかけに勢力の回復を目指して兵を出したが敗れた。長州藩は朝廷の敵とされ、幕府による長州征討が行われることになった。 年表で見る ›
- 薩長同盟さっちょうどうめい1866年
薩摩藩と長州藩が結んだ軍事同盟。禁門の変などで敵対していた両藩は、土佐藩出身の坂本龍馬らの仲介で、薩摩の西郷隆盛と長州の木戸孝允が京都で盟約を結び、薩摩は幕府による長州征討に協力しないことなどを約束した。この同盟により倒幕の動きが強まり、大政奉還や戊辰戦争へとつながった。 年表で見る ›
日本史:明治時代 1868〜1912年
- 五箇条の御誓文ごかじょうのごせいもん1868年
明治天皇が神々に誓う形で示した、新政府の基本方針。「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と世論に基づく政治を掲げ、古い習慣を改めることや、知識を世界に求めることなどを示した。戊辰戦争のさなかに出され、新政府の方針を内外に示して支持を集めるねらいがあった。 年表で見る ›
- 戊辰戦争ぼしんせんそう1868〜1869年
新政府軍と旧幕府勢力の間で起きた内戦。王政復古の後、徳川慶喜の官職・領地の返上をめぐって対立が深まり、京都郊外の鳥羽・伏見の戦いで始まった。江戸城は勝海舟と西郷隆盛の話し合いで戦わずに明け渡されたが、会津などでは激しい戦いが続き、箱館の五稜郭の降伏で終わって新政府による全国支配が確立した。 年表で見る ›
- 版籍奉還はんせきほうかん1869年
全国の大名が、領地(版)と領民(籍)を天皇に返したこと。中央集権の国家をつくるため、新政府はまず薩摩・長州・土佐・肥前の4藩主に申し出させ、ほかの藩もこれに続いた。旧藩主はそのまま知藩事に任命されたため実際の支配は大きく変わらず、2年後の廃藩置県によって藩そのものが廃止された。 年表で見る ›
- 岩倉使節団いわくらしせつだん1871〜1873年
岩倉具視を全権大使とする明治政府の使節団。大久保利通・木戸孝允・伊藤博文らが加わり、津田梅子ら留学生を含めて100人以上でアメリカ・ヨーロッパを訪れた。目的の一つだった不平等条約の改正交渉はうまくいかなかったが、各国の政治や産業、文化を視察し、帰国後の近代化政策に大きな影響を与えた。 年表で見る ›
- 廃藩置県はいはんちけん1871年
明治政府が藩を廃止して、全国に府と県を置いた改革。版籍奉還の後も旧藩主が知藩事として地方を治めていたため、政府は薩摩・長州・土佐から集めた兵力を背景に一気に藩を廃止し、知藩事を東京に移住させて、中央から府知事・県令を派遣した。これにより中央集権の国家体制が整った。 年表で見る ›
- 学制がくせい1872年
明治政府が定めた、日本で初めての近代的な学校制度。フランスの制度などを手本に全国を学区に分けて小学校などを設け、身分や男女の区別なくすべての子どもが学ぶことを目指した。しかし学校の建設費や授業料は地元の負担とされ、子どもが働き手でもあった農村では反発も起き、就学率は初め3割ほどにとどまった。 年表で見る ›
- 太陽暦たいようれき1872年
明治政府が、それまでの太陰太陽暦をやめて採用した暦で、欧米諸国が使っていたグレゴリオ暦にあたる。1872年12月3日を1873年1月1日とし、1日を24時間とする定時法も取り入れた。欧米との交流をしやすくするためとされるが、改暦で12月がほぼなくなり、役人の給料1か月分を節約できたともいわれる。 年表で見る ›
関連学制
- 渋沢栄一しぶさわえいいち1840〜1931年
明治から昭和初期にかけて活躍した実業家で、「日本資本主義の父」と呼ばれる。農家に生まれ、幕臣としてパリ万国博覧会に随行してヨーロッパの経済制度を学び、大蔵省で働いた後に第一国立銀行を設立した。その後も約500の会社の設立に関わり、利益と道徳の両立を説いて、教育や社会福祉の事業にも力を注いだ。 年表で見る ›
関連横浜正金銀行
- 征韓論せいかんろん1873年
明治初期に、武力を背景に朝鮮に開国をせまろうとした主張。朝鮮が新政府との国交を拒んだことに対し、西郷隆盛は自ら使節として朝鮮に渡ることを求め、板垣退助らも賛成した。しかし岩倉使節団から帰国した大久保利通らが国内の改革を優先すべきだと反対して派遣は中止され、敗れた西郷や板垣らは政府を去った(明治六年の政変)。 年表で見る ›
- 地租改正ちそかいせい1873年
明治政府が行った、土地にかかる税の制度の改革。米で納める年貢は収穫によって変動して政府の収入が安定しなかったため、土地の価格(地価)を定めて地券を発行し、地価の3%を土地の所有者が現金で納めることにした。政府の財政は安定したが、負担は軽くならず各地で一揆が起き、1877年に税率は2.5%に下げられた。 年表で見る ›
- 徴兵令ちょうへいれい1873年
満20歳になった男子に兵役の義務を課した法令。それまでの武士に代わって国民から兵士を集め、近代的な軍隊をつくることを目的に、山県有朋が中心となって進めた。当初は戸主やその跡継ぎ、代人料270円を納めた者などは免除されたが、働き手を奪われる農民の反発は強く、各地で反対の一揆(血税一揆)が起きた。 年表で見る ›
- 板垣退助いたがきたいすけ1837〜1919年
明治時代の政治家で、自由民権運動の指導者。土佐藩出身で戊辰戦争で活躍して新政府の参議となったが、征韓論をめぐる政変で政府を去り、1874年に民撰議院設立建白書を提出して国会の開設を求め、1881年には自由党を結成した。遊説中に襲われた際の「板垣死すとも自由は死せず」の言葉が広まった。 年表で見る ›
- 屯田兵とんでんへい1874〜1904年
明治時代に北海道の開拓と警備にあたった兵士。ロシアの南下に備えながら土地を開墾するため、開拓使の黒田清隆の提案で設けられ、初めは職を失った士族が中心となって家族とともに移住し、平時は農業を営んだ。北海道の開拓が進む一方で、アイヌの人々は土地や生活の場を奪われていった。 年表で見る ›
関連松前藩
- 民撰議院設立建白書みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ1874年
板垣退助・後藤象二郎らが政府に提出した、国民が選ぶ議会の開設を求める意見書。征韓論の政変で政府を去った人々が、大久保利通ら一部の官僚による政治(有司専制)を批判したものだった。新聞に掲載されて大きな反響を呼び、国会開設を求める自由民権運動が全国に広がるきっかけとなった。 年表で見る ›
- 大阪会議おおさかかいぎ1875年
大久保利通が、政府を去っていた木戸孝允と板垣退助を大阪に招いて話し合った会議。台湾出兵に反対した木戸の離脱などで弱まった政府を立て直すため、伊藤博文や井上馨が仲介した。会議の結果、木戸と板垣は政府に戻り、立憲政治へ段階的に進むことで合意して、漸次立憲政体樹立の詔が出された。 年表で見る ›
- 新聞紙条例しんぶんしじょうれい1875年
明治政府が出した、新聞・雑誌を取り締まる法令。自由民権運動が広がり、新聞で政府を批判する記事が増えたことに対抗するため、同時に出された讒謗律とともに言論を厳しく規制し、政府を批判した記者や編集者が次々と処罰された。民権運動を抑えようとするこうした法令は、のちの集会条例にもつながった。 年表で見る ›
- 漸次立憲政体樹立の詔ぜんじりっけんせいたいじゅりつのみことのり1875年
明治天皇が出した、段階的に立憲政治の体制をつくっていくことを示した詔。大阪会議の合意にもとづき、立法にあたる元老院、最高裁判所にあたる大審院、府知事・県令からなる地方官会議を設けた。自由民権運動の高まりに応えつつも国会開設は急がない姿勢を示したもので、立憲体制づくりの第一歩となった。 年表で見る ›
- 日朝修好条規にっちょうしゅうこうじょうき1876年
日本と朝鮮の間で結ばれた条約。江華島事件をきっかけに、日本は軍艦を背景に朝鮮に開国を迫って締結させ、朝鮮を清から独立した国と位置づけたうえで、釜山など3港の開港や日本の領事裁判権を認めさせた。日本が欧米から押しつけられた条約と同様の、朝鮮にとって不平等な内容だった。 年表で見る ›
- 西南戦争せいなんせんそう1877年
西郷隆盛を中心とする鹿児島の士族が起こした反乱。廃刀令や秩禄処分で特権を失った士族の不満が高まり、西郷の私学校の生徒らが中心となって挙兵したが、熊本城を落とせず、徴兵令でつくられた政府軍に敗れて西郷は自害した。日本最後の大規模な内戦となり、以後、政府への批判は言論による自由民権運動が中心となった。 年表で見る ›
- 琉球処分りゅうきゅうしょぶん1872〜1879年
明治政府が琉球王国を廃止して、日本の領土に組み入れた一連の措置。琉球は薩摩藩の支配を受けつつ清にも朝貢する立場にあったが、政府は1872年に琉球藩を置き、1879年には軍隊と警察を送って首里城を明け渡させ、沖縄県を設置した。清はこれに抗議したが、日清戦争後に琉球の帰属問題は事実上決着した。 年表で見る ›
- 集会条例しゅうかいじょうれい1880年
明治政府が自由民権運動を取り締まるために出した法令。国会期成同盟が結成されるなど国会開設を求める運動が盛り上がるなか、政治集会に警察の許可を必要とし、警察官が集会を解散させることもできるようにし、軍人や教員、生徒の政治活動も禁じた。新聞紙条例などとともに、民権運動を抑える役割を果たした。 年表で見る ›
- 横浜正金銀行よこはましょうきんぎんこう1880〜1946年
貿易のための金融を専門とする銀行として、横浜に設立された。当時は外国の商社や銀行が貿易の決済を握っていたため、政府の支援を受けて貿易の資金や外国為替を扱う銀行がつくられた。のちに日本の外国為替の中心的な銀行となり、戦後は東京銀行として再出発し、現在の三菱UFJ銀行につながっている。 年表で見る ›
関連渋沢栄一
- 明治十四年の政変めいじじゅうよねんのせいへん1881年
参議の大隈重信が政府から追放された事件。開拓使官有物払下げ事件で政府への批判が高まるなか、早期の国会開設を主張していた大隈が批判に関わっていると疑われた。政府は大隈を辞めさせると同時に払下げを中止し、1890年に国会を開設するという国会開設の勅諭を出し、これを受けて自由党や立憲改進党が結成された。 年表で見る ›
- 軍人勅諭ぐんじんちょくゆ1882年
明治天皇が陸海軍の軍人に与えた心得。自由民権運動の高まりや竹橋事件などを受け、軍の規律を固めて軍人を政治から切り離すために出された。天皇が軍を直接率いることを示し、忠節・礼儀・武勇・信義・質素の5つの徳目を説いた。敗戦まで軍人教育の基本とされた。 年表で見る ›
- 壬午軍乱じんごぐんらん1882年
朝鮮の漢城で、待遇に不満をもつ旧式軍隊の兵士が起こした反乱。日本の指導で軍制改革を進める閔氏政権に反発したもので、興宣大院君がこれを利用して一時政権に返り咲き、日本公使館も襲われた。清が軍を送って鎮圧したため朝鮮での清の影響力が強まり、日本は済物浦条約で公使館を守る兵の駐留を認めさせた。 年表で見る ›
- 立憲改進党りっけんかいしんとう1882年
明治十四年の政変で政府を追われた大隈重信が、1882年に結成した政党。イギリス流の議会政治をめざし、都市の知識人や実業家に支持された。自由党と並ぶ民権派の政党として初期議会で政府と対立し、のちに進歩党・憲政本党などを経て、戦前の二大政党の一方の流れにつながった。 年表で見る ›
- 甲申政変こうしんせいへん1884年
朝鮮の金玉均ら急進開化派が、日本公使の支援を受けて起こしたクーデター。清仏戦争で清が手薄になった機会をとらえ、日本にならった近代化をめざして閔氏政権を倒そうとした。清軍の介入で3日ほどで失敗し、翌年の天津条約で日清両国は朝鮮からの撤兵と、出兵する際の事前通告を取り決めた。 年表で見る ›
- 秩父事件ちちぶじけん1884年
埼玉県秩父地方の農民が困民党を組織して起こした大規模な武装蜂起。松方財政によるデフレで生糸や繭の価格が下がり、借金に苦しむ農民が負債の返済延期や減税を求めた。自由党員も加わって一時郡役所などを占拠したが、軍隊や警察によって鎮圧された。自由民権運動の激化事件の代表とされる。 年表で見る ›
- 伊藤博文いとうひろぶみ1841〜1909年
長州藩出身の政治家で、明治政府の中心人物。岩倉使節団に加わり、のちヨーロッパで憲法を調査して大日本帝国憲法の起草を主導した。1885年に初代内閣総理大臣となって4度首相を務め、立憲政友会も結成した。初代韓国統監として韓国の保護国化を進め、1909年にハルビンで安重根に暗殺された。 年表で見る ›
- 内閣制度ないかくせいど1885年
1885年、それまでの太政官制にかわって設けられた政府のしくみ。憲法の制定と国会の開設に備え、各省の長官である国務大臣が内閣総理大臣のもとで行政を担う体制をつくった。初代総理大臣には伊藤博文が就任し、身分にかかわらず能力のある人物が大臣に選ばれるようになった。形を変えながら現在の内閣につながっている。 年表で見る ›
- ノルマントン号事件のるまんとんごうじけん1886年
和歌山県沖でイギリスの貨物船ノルマントン号が沈没した事件。イギリス人の船長と乗組員はボートで脱出したが、日本人乗客25人は全員が亡くなった。領事裁判で船長は当初無罪とされ、その後も軽い刑にとどまったため国民の怒りが高まり、領事裁判権の撤廃をめざす条約改正の世論が強まった。 年表で見る ›
- 東京美術学校とうきょうびじゅつがっこう1887年
1887年に設立が決まり、1889年に開校した官立の美術学校。岡倉天心やフェノロサらが、西洋化の中で軽視されがちだった日本の伝統美術を守り育てる目的で設立に関わった。のちに西洋画科も設けられ、多くの画家や彫刻家を育てた。戦後、東京音楽学校と統合されて東京芸術大学となった。 年表で見る ›
- 大日本帝国憲法だいにっぽんていこくけんぽう1889年
1889年2月11日に発布された日本最初の近代憲法。伊藤博文らがドイツ(プロイセン)の憲法を参考に起草し、天皇が定めて国民に与える欽定憲法の形をとった。天皇が統治権や軍の統帥権をもつ一方、帝国議会を設け、国民の権利を法律の範囲内で認めた。アジアで初めての本格的な立憲国家の基礎となり、1947年まで続いた。 年表で見る ›
- 教育勅語きょういくちょくご1890年
1890年、明治天皇の名で出された教育の基本方針。欧化への反発や道徳教育の強化を求める声を背景に、井上毅・元田永孚らが起草した。親への孝行や忠君愛国などの徳目を示し、学校の儀式で読み上げられて国民道徳の柱とされた。戦後の1948年に国会の決議によって失効が確認された。 年表で見る ›
- 衆議院しゅうぎいん1890年〜
帝国議会を構成した二つの院のうち、選挙で選ばれた議員からなる院。1890年に第1回総選挙が行われたが、選挙権は直接国税15円以上を納める25歳以上の男子に限られ、有権者は人口の約1%だった。予算の審議などで政府と対立して政党政治の舞台となり、戦後の日本国憲法のもとでも参議院とともに国会を構成している。 年表で見る ›
- 大津事件おおつじけん1891年
来日中のロシア皇太子ニコライが、滋賀県大津で警備の巡査津田三蔵に切りつけられ負傷した事件。大国ロシアの報復を恐れた政府は、皇族への罪を定めた大逆罪を適用して死刑にするよう求めた。しかし大審院長の児島惟謙は通常の謀殺未遂罪として無期徒刑の判決を出させ、司法権の独立を守った例として知られる。 年表で見る ›
関連シベリア鉄道
- 文官任用令ぶんかんにんようれい1893年
高級官僚である文官の採用方法を定めた勅令。縁故による採用を改め、試験によって能力のある人材を登用するしくみをつくり、高等文官試験の制度が整った。1899年には山県有朋内閣が改正し、政党員が高級官僚に就くことを制限した。その後は山本権兵衛内閣が任用の範囲を広げるなど、政党と官僚の関係を左右した。 年表で見る ›
- 北里柴三郎きたさとしばさぶろう1853〜1931年
近代日本を代表する細菌学者。ドイツでコッホに学び、破傷風菌の純粋培養に成功して、血清療法を開発した。1894年には香港でペスト菌を発見した。帰国後は伝染病研究所や北里研究所を設立し、志賀潔や野口英世ら多くの研究者を育てて、日本の医学の発展に大きく貢献した。 年表で見る ›
- 日英通商航海条約にちえいつうしょうこうかいじょうやく1894年
1894年に日本とイギリスが結んだ条約。外務大臣陸奥宗光のもとで交渉が進められ、日清戦争開戦の直前に調印された。これにより領事裁判権が撤廃され、関税自主権も一部回復した。続いて他の国々とも同様の条約が結ばれて1899年に発効し、幕末以来の不平等条約の改正が大きく前進した。 年表で見る ›
- 日清戦争にっしんせんそう1894〜1895年
朝鮮への影響力をめぐって日本と清が戦った戦争。朝鮮で甲午農民戦争が起こり、日清両国が出兵したことがきっかけとなった。日本は陸戦・海戦で勝利し、下関条約で清に朝鮮の独立を認めさせ、台湾などの領土と多額の賠償金を得た。日本の国際的地位は高まったが、三国干渉を経てロシアとの対立が深まった。 年表で見る ›
- 下関条約しものせきじょうやく1895年
日清戦争の講和条約。日本側の伊藤博文・陸奥宗光と清の李鴻章が下関で調印した。清は朝鮮の独立を認め、遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本にゆずり、賠償金2億両を支払うことなどを約束した。しかし直後にロシア・ドイツ・フランスの三国干渉により遼東半島は返還され、日本国内ではロシアへの反感が強まった。 年表で見る ›
- 樋口一葉ひぐちいちよう1872〜1896年
明治時代の女性小説家。東京で貧しい暮らしを送りながら、家計を支えるために小説を書いた。「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」などで、社会の中で生きる女性や子どもの姿を細やかに描き、森鴎外らに高く評価された。24歳で亡くなったが、近代女性文学の先駆けとされ、五千円札の肖像にもなった。 年表で見る ›
- 金本位制きんほんいせい1897年
金を通貨の価値の基準とし、紙幣を金と交換できるようにする制度。日本では日清戦争の賠償金を準備金として、1897年の貨幣法で確立した。欧米の主要国と同じ制度に移ったことで為替が安定し、貿易や外国資本の導入が進んだ。のちに第一次世界大戦や世界恐慌で動揺し、1931年の金輸出再禁止によって事実上終わった。 年表で見る ›
- 軍部大臣現役武官制ぐんぶだいじんげんえきぶかんせい1900年
陸軍大臣・海軍大臣を現役の大将・中将に限る制度。1900年、第2次山県有朋内閣が政党の影響が軍に及ぶのを防ぐために定めた。軍が大臣を出さなければ内閣が組織できないため、倒閣の手段にも使われた。1913年に山本権兵衛内閣が現役の規定を外したが、1936年の広田弘毅内閣で復活し、軍部の政治介入を強めた。 年表で見る ›
- 立憲政友会りっけんせいゆうかい1900年
1900年に伊藤博文が結成した政党。藩閥政府と政党の対立を和らげるため、旧自由党系の憲政党の議員らを集めて組織された。その後、西園寺公望や原敬が総裁となり、1918年には原敬が本格的な政党内閣を組織した。戦前を通じて最大級の政党として、のちに立憲民政党と二大政党をなした。 年表で見る ›
- 内村鑑三うちむらかんぞう1861〜1930年
明治・大正期のキリスト教思想家。札幌農学校でキリスト教に入信し、1891年には教育勅語への拝礼をためらったことで非難され、教職を追われた(不敬事件)。日露戦争の際には新聞『万朝報』で非戦論を唱えた。教会や儀式にとらわれず聖書に基づく信仰を重んじる無教会主義を説き、多くの知識人に影響を与えた。 年表で見る ›
- 桂太郎かつらたろう1848〜1913年
長州藩出身の陸軍軍人・政治家。山県有朋の後継者として3度首相を務めた。第1次内閣では日英同盟を結んで日露戦争を指導し、第2次内閣では韓国併合や大逆事件の対応にあたった。西園寺公望と交互に政権を担った時期は桂園時代とよばれる。1912年の第3次内閣は第一次護憲運動により短期間で倒れた。 年表で見る ›
- 社会民主党しゃかいみんしゅとう1901年
1901年に安部磯雄・片山潜・幸徳秋水らが結成した、日本で最初の社会主義政党。産業の発展とともに労働問題が広がる中、貧富の差の解消や軍備の縮小、普通選挙の実現などを掲げた。しかし治安警察法により結成の2日後に禁止された。その後の日本の社会主義運動の出発点と位置づけられている。 年表で見る ›
- 田中正造たなかしょうぞう1841〜1913年
栃木県出身の政治家で、足尾銅山鉱毒事件の解決に生涯をささげた人物。渡良瀬川流域で鉱毒による農業や漁業の被害が広がると、衆議院議員として政府に銅山の操業停止などを繰り返し求めた。1901年には議員を辞職して明治天皇への直訴を試みた。日本の公害反対運動の先駆けとして知られる。 年表で見る ›
- 与謝野晶子よさのあきこ1878〜1942年
明治から昭和にかけて活躍した歌人・作家。1901年の歌集『みだれ髪』で恋愛や女性の感情を大胆に詠み、浪漫主義の歌人として注目された。日露戦争の際には、出征した弟を思う詩「君死にたまふことなかれ」を発表した。『源氏物語』の現代語訳や、女性の自立・教育をめぐる評論でも活躍した。 年表で見る ›
- 日英同盟にちえいどうめい1902年
1902年に日本とイギリスが結んだ同盟。ロシアの東アジア進出を警戒する点で両国の利害が一致した。一方が他国と戦争になれば他方は中立を守り、二国以上と戦う場合は参戦することを定めた。日露戦争で日本を有利にし、第一次世界大戦参戦の根拠ともなったが、ワシントン会議での四か国条約の成立により廃棄された。 年表で見る ›
- 国定教科書こくていきょうかしょ1903年
文部省がつくった教科書を全国の小学校で使わせる制度。それまでの検定教科書の採用をめぐる汚職事件(教科書疑獄事件)をきっかけに1903年に導入され、翌年から使用された。国が教育内容を統一的に管理するようになり、天皇中心の国家観を教えることにも用いられた。戦後の1947年に廃止され、検定制度に戻った。 年表で見る ›
- 長岡半太郎ながおかはんたろう1865〜1950年
明治から昭和にかけて活躍した物理学者。1903年、正の電気をもつ中心のまわりを電子が土星の輪のように回るという「土星型原子模型」を発表した。これはのちのラザフォードによる原子核の発見を先取りする考え方として評価された。東京帝国大学教授や大阪帝国大学の初代総長を務め、日本の物理学の発展に貢献した。 年表で見る ›
- 平民新聞へいみんしんぶん1903年
幸徳秋水・堺利彦らが平民社をつくって発行した週刊新聞。日露戦争に向けて世論が開戦に傾く中、社会主義の立場から非戦論を唱えた。『共産党宣言』の翻訳を載せるなどして政府の弾圧を受け、1905年に廃刊となった。社会主義運動の拠点となり、のちの日本社会党の結成にもつながった。 年表で見る ›
- 第一次日韓協約だいいちじにっかんきょうやく1904年
日露戦争中の1904年に日本が韓国と結んだ協約。日本政府が推薦する財政顧問と外交顧問を韓国政府に置き、重要な外交案件は事前に日本と協議することを定めた。これにより韓国の財政と外交は日本の強い影響下に置かれ、翌年の第2次日韓協約で外交権が奪われる前段階となった。 年表で見る ›
- 日露戦争にちろせんそう1904〜1905年
満州と韓国の支配をめぐって日本とロシアが戦った戦争。義和団事件の後もロシアが満州に軍をとどめたことから、両国の対立が深まった。日本は旅順攻略や奉天会戦、日本海海戦で勝利したが国力は限界に達し、アメリカの仲介でポーツマス条約を結んだ。賠償金が得られなかったため、国内では日比谷焼き打ち事件が起こった。 年表で見る ›
- 日韓議定書にっかんぎていしょ1904年
日露戦争の開戦直後に日本が韓国に結ばせた協定。中立を宣言していた韓国に対し、日本軍が韓国内で軍事行動をとるために必要な土地を使えることなどを認めさせた。これにより日本は韓国を戦争の拠点として利用できるようになり、その後の日韓協約による保護国化への第一歩となった。 年表で見る ›
- 桂・タフト協定かつらたふときょうてい1905年
1905年に首相の桂太郎とアメリカの陸軍長官タフトが東京で交わした秘密の覚書。アメリカは日本が韓国を指導・保護することを認め、日本はアメリカのフィリピン統治に干渉しないことを確認した。同じ年の第2次日英同盟などとともに、日本による韓国の保護国化を列強が認める流れをつくった。 年表で見る ›
- 第2次日韓協約だいにじにっかんきょうやく1905年
日露戦争後の1905年に日本が韓国に結ばせた協約。韓国の外交権を奪って保護国とし、漢城に統監府を置いて伊藤博文が初代統監となった。韓国では強い反対運動が起こり、皇帝高宗はハーグ密使事件で協約の無効を訴えたが、列強は認めなかった。韓国では乙巳条約ともよばれる。 年表で見る ›
- 日本海海戦にほんかいかいせん1905年
日露戦争中の1905年5月、対馬沖で日本の連合艦隊とロシアのバルチック艦隊が戦った海戦。東郷平八郎が率いる連合艦隊は、ヨーロッパから長い航海を経てやってきたバルチック艦隊をほぼ全滅させた。この勝利で日本は海上の支配を確実にし、アメリカの仲介によるポーツマス条約での講和へと進んだ。 年表で見る ›
- 奉天会戦ほうてんかいせん1905年
日露戦争で最大の陸上の戦い。満州の奉天(現在の瀋陽)付近で、日本軍約25万とロシア軍約32万が2月下旬から3月10日まで約3週間にわたって戦った。日本軍はロシア軍を退却させて奉天を占領したが、大きな損害を受け、追撃する余力はなかった。この戦いの後、日本は日本海海戦の勝利を経て講和を求めることになった。 年表で見る ›
- 西園寺公望さいおんじきんもち1849〜1940年
公家出身の政治家。フランスに留学して自由主義の思想にふれ、伊藤博文の後を継いで立憲政友会の総裁となった。桂太郎と交互に2度首相を務め、桂園時代を築いた。大正以降は最後の元老として、次の首相を天皇に推薦する役割を担い、政党内閣の実現を後押しした。1940年に90歳(満年齢)で亡くなった。 年表で見る ›
- 鉄道国有法てつどうこくゆうほう1906年
1906年、第1次西園寺公望内閣のもとで公布された法律。日露戦争後、軍事輸送の効率化や経済の発展をめざし、全国の主要な私鉄17社を政府が買収することを定めた。これにより全国の鉄道の約9割が国有となり、統一した運営が進められた。国有鉄道はのちの国鉄となり、1987年の分割民営化でJRとなった。 年表で見る ›
- 日本社会党にほんしゃかいとう1906年
1906年に堺利彦・片山潜らが結成した、日本で最初の合法的な社会主義政党。第1次西園寺公望内閣が社会主義にやや寛容な姿勢をとったため、結成が認められた。しかし党内で幸徳秋水らの直接行動派の主張が強まり、1907年に治安警察法によって解散させられた。戦後に結成された同名の政党とは別の組織である。 年表で見る ›
- 南満州鉄道みなみまんしゅうてつどう1906年
1906年に設立された半官半民の国策会社と、その鉄道。ポーツマス条約でロシアから得た長春以南の鉄道と付属の権益をもとに設立され、満鉄とよばれた。鉄道の経営だけでなく、炭鉱や製鉄所、沿線の都市経営なども行い、日本の満州経営の中心となった。1931年にはその線路の爆破が満州事変のきっかけとなった。 年表で見る ›
- 義務教育ぎむきょういく1886年〜
国が子どもに一定期間の教育を受けさせることを保護者に義務づける制度。日本では1872年の学制で国民皆学が掲げられ、1886年の小学校令で義務教育が明確に定められた。就学率が9割を超えた1907年には期間が4年から6年に延長された。戦後の1947年には教育基本法などにより小学校・中学校の9年間となった。 年表で見る ›
- 第3次日韓協約だいさんじにっかんきょうやく1907年
ハーグ密使事件の後、1907年に日本が韓国に結ばせた協約。統監が韓国の内政を指導する権限をもち、日本人を韓国政府の官僚に任命できるようにした。秘密の覚書により韓国軍は解散させられ、これに反発した元兵士が加わって義兵闘争が各地に広がった。韓国併合への道がさらに進んだ。 年表で見る ›
- 日露協約にちろきょうやく1907〜1916年
日露戦争後、日本とロシアが4回にわたって結んだ協約。1907年の第1次協約では満州を南北に分けて互いの勢力範囲を認め、日本の韓国、ロシアの外モンゴルにおける特殊な利益を確認した。満州への進出をねらうアメリカに対抗して両国の協調が進んだが、1917年のロシア革命で消滅した。 年表で見る ›
- ハーグ密使事件はーぐみっしじけん1907年
韓国皇帝の高宗が、オランダのハーグで開かれた第2回万国平和会議に密使を送った事件。第2次日韓協約が韓国の意思に反するもので無効だと国際社会に訴えようとしたが、各国は韓国に外交権がないことを理由に参加を認めなかった。日本はこれを機に高宗を退位させ、第3次日韓協約で韓国の内政も支配下に置いた。 年表で見る ›
- 韓国併合かんこくへいごう1910年
1910年に日本が韓国併合条約によって大韓帝国を植民地とした出来事。日露戦争後の日韓協約で保護国化を進め、伊藤博文が暗殺された翌年に併合を断行した。韓国は朝鮮とよばれ、朝鮮総督府が置かれて統治が行われた。土地調査事業や同化政策が進められ、支配は1945年の日本の敗戦まで続いた。 年表で見る ›
- 志賀直哉しがなおや1883〜1971年
大正・昭和期の小説家。1910年に武者小路実篤らと文芸雑誌『白樺』を創刊し、人間の個性や理想を重んじる白樺派の中心となった。むだのない簡潔で正確な文章で知られ、「小説の神様」ともよばれた。代表作に「城の崎にて」「小僧の神様」、長編『暗夜行路』があり、のちの作家たちの文章の手本とされた。 年表で見る ›
- 鈴木梅太郎すずきうめたろう1874〜1943年
明治から昭和にかけて活躍した農芸化学者。脚気の原因を研究し、1910年に米ぬかから脚気に効く成分を取り出して、のちにオリザニンと名づけた。これは現在のビタミンB1にあたり、ビタミン研究の先駆けとなった。日本語での発表が中心だったため海外では広く知られなかったが、栄養学の発展に大きく貢献した。 年表で見る ›
- 大逆事件たいぎゃくじけん1910年
1910年、天皇の暗殺を計画したとして多くの社会主義者・無政府主義者が検挙された事件。一部の者による計画が発覚したことを機に、政府は関係の薄い人々まで大逆罪で起訴した。翌年、24人に死刑判決が出され、幸徳秋水ら12人が処刑された。社会主義運動はきびしく抑えられ、「冬の時代」とよばれる時期に入った。 年表で見る ›
- 遠野物語とおのものがたり1910年
民俗学者の柳田国男が1910年に発表した作品。岩手県遠野地方出身の佐々木喜善が語った、その土地に伝わる昔話や伝説、河童や天狗などの話をまとめた。文字に残されにくい庶民の暮らしや信仰に光を当てたことで、日本の民俗学の出発点とされる。初版はわずか350部だったが、のちに広く読まれるようになった。 年表で見る ›
日本史:大正時代 1912〜1926年
- 大正天皇たいしょうてんのう1879〜1926年
明治天皇の子で、第123代天皇。1912年に即位し、元号が大正となった。生まれつき病弱で、晩年は病状が悪化したため、1921年から皇太子の裕仁親王(のちの昭和天皇)が摂政として政務を代行した。在位中は政党政治が発展し、大正デモクラシーとよばれる民主主義的な風潮が高まった。 年表で見る ›
- 山本権兵衛やまもとごんべえ1852〜1933年
薩摩藩出身の海軍軍人・政治家。日露戦争前後に海軍大臣として海軍の拡張を進めた。1913年に首相となり、軍部大臣現役武官制を改めて予備役などの将官も大臣になれるようにし、文官任用令も改正した。しかし1914年のシーメンス事件で総辞職した。1923年には関東大震災の直後に再び組閣した。 年表で見る ›
- 立憲同志会りっけんどうしかい1913年
1913年、桂太郎が立憲政友会に対抗するためにつくろうとした政党。桂の死後、加藤高明を総裁として正式に結成された。第2次大隈重信内閣の与党となり、1916年には他の会派と合同して憲政会となった。憲政会はのちに護憲三派の中心となり、さらに立憲民政党へと発展した。 年表で見る ›
- シーメンス事件しーめんすじけん1914年
1914年に発覚した、海軍高官の汚職事件。ドイツの電機会社シーメンス社などが、軍艦や兵器の購入をめぐって日本海軍の高官にわいろを贈っていたことが明らかになった。国民の批判が高まって議会の周辺では抗議の集会が開かれ、海軍出身の山本権兵衛内閣は総辞職に追い込まれた。その後、第2次大隈重信内閣が成立した。 年表で見る ›
- 大戦景気たいせんけいき1915〜1918年
第一次世界大戦中に日本で起こった好景気。ヨーロッパ諸国がアジア市場から後退した間に、日本は綿織物などの輸出を大きく伸ばし、世界的な船不足で造船業や海運業も急成長した。日本は債務国から債権国に転じ、急に財を成した「成金」も現れた。一方で物価が上がって民衆の生活は苦しくなり、米騒動の背景となった。 年表で見る ›
- 二十一か条の要求にじゅういっかじょうのようきゅう1915年
第一次世界大戦中の1915年、第2次大隈重信内閣が中国の袁世凱政府に出した要求。ドイツが持っていた山東省の権益の継承や、旅順・大連や南満州鉄道の租借期限の延長などを求めた。日本は最後通牒を出して大部分を認めさせたが、中国では受け入れた5月9日が国恥記念日とされ、反日感情が強まり、五・四運動の背景となった。 年表で見る ›
- 吉野作造よしのさくぞう1878〜1933年
大正期の政治学者で、大正デモクラシーを代表する思想家。1916年に雑誌『中央公論』で、主権がどこにあるかは問わず、政治の目的を民衆の幸福におき、民衆の意向を政治に反映させるべきだとする民本主義を唱えた。普通選挙の実現や政党内閣を主張し、護憲運動や普通選挙運動に大きな影響を与えた。 年表で見る ›
- 米騒動こめそうどう1918年
1918年、米価の急な値上がりに対して民衆が起こした全国的な騒動。大戦景気による物価上昇に加え、シベリア出兵を見込んだ米の買い占めで米価が高騰した。富山県の漁村の女性たちの行動をきっかけに全国に広がり、軍隊も出動した。寺内正毅内閣は責任を取って総辞職し、原敬による本格的な政党内閣が成立した。 年表で見る ›
- シベリア出兵しべりあしゅっぺい1918〜1922年
ロシア革命に干渉するため、日本・アメリカ・イギリス・フランスなどがシベリアに出兵したこと。チェコスロヴァキア軍の救出を名目とし、日本は約7万人を超える大軍を送った。各国が1920年までに撤退した後も日本は駐留を続け、内外から批判を受けて1922年に撤退した。出兵を見込んだ米の買い占めは米騒動の一因となった。 年表で見る ›
- 委任統治いにんとうち1920年〜
第一次世界大戦で敗れたドイツやオスマン帝国の植民地・領土の統治を、国際連盟が戦勝国に任せた制度。形の上では住民の自立を助けるための統治とされたが、実際には植民地支配と大きく変わらなかった。日本は赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島を委任統治領とし、パラオに南洋庁を置いた。第二次世界大戦後は国際連合の信託統治に引き継がれた。 年表で見る ›
- 新婦人協会しんふじんきょうかい1920年
1920年に平塚らいてう・市川房枝・奥むめおらが結成した女性団体。女性の政治的権利の獲得をめざし、女性が政治集会に参加することを禁じた治安警察法第5条の改正運動を進めた。1922年には一部改正が実現し、女性も政治演説会に参加できるようになった。協会は同年に解散したが、のちの婦人参政権運動につながった。 年表で見る ›
- 戦後恐慌せんごきょうこう1920年
第一次世界大戦後の1920年に日本で起こった恐慌。大戦中の好景気の反動に加え、ヨーロッパ諸国の生産回復によって輸出が減り、株価や生糸・綿糸の価格が大きく下落した。多くの企業や銀行が経営難に陥り、日本経済はその後も震災恐慌、金融恐慌と不況が続く1920年代を迎えた。 年表で見る ›
- 全国水平社ぜんこくすいへいしゃ1922年
1922年に結成された、被差別部落の人々による部落解放運動の団体。明治時代の解放令の後も続いた差別に対し、他人の同情や施しにたよらず、自らの力で差別からの解放をめざした。創立大会で採択された水平社宣言は「人の世に熱あれ、人間に光あれ」で結ばれ、日本で最初の人権宣言ともいわれる。 年表で見る ›
- 日本共産党にほんきょうさんとう1922年
1922年、コミンテルンの日本支部として非合法のうちに結成された政党。ロシア革命の影響を受け、堺利彦・山川均らが参加した。天皇制の廃止などを掲げたため、治安維持法などによって繰り返し弾圧を受け、多くの党員が検挙された。戦後の1945年に合法政党として再建され、現在も活動を続けている。 年表で見る ›
- 日本農民組合にほんのうみんくみあい1922年
1922年に杉山元治郎・賀川豊彦らが結成した、日本で最初の全国的な農民組合。小作料の引き下げなどを求める小作争議が各地で増える中、小作人の権利を守るために組織された。全国の小作争議を指導して勢力を広げたが、のちに路線の違いから分裂を繰り返した。戦後の農地改革につながる農民運動の流れをつくった。 年表で見る ›
- 甘粕事件あまかすじけん1923年
関東大震災直後の1923年9月、憲兵大尉の甘粕正彦らが無政府主義者の大杉栄と伊藤野枝、大杉のおいの少年を連行し、殺害した事件。震災後の混乱の中で社会主義者や朝鮮人をめぐる流言が広がり、軍や警察による弾圧が行われていた。甘粕は軍法会議で懲役10年の判決を受けたが約3年で出獄し、のちに満州で活動した。 年表で見る ›
- 関東大震災かんとうだいしんさい1923年
1923年9月1日、関東地方南部を襲ったマグニチュード7.9の大地震による災害。昼食時に発生したため各地で火災が起こり、東京や横浜を中心に死者・行方不明者は約10万5000人に達した。混乱の中でデマが広がり、多くの朝鮮人や中国人が殺害された。経済にも大きな打撃を与え、震災手形の処理がのちの金融恐慌の一因となった。 年表で見る ›
- 護憲三派ごけんさんぱ1924年
1924年、清浦奎吾内閣の打倒をめざして手を結んだ憲政会・立憲政友会・革新倶楽部の3党。貴族院を中心とする清浦内閣を特権的な内閣だと批判して第二次護憲運動を進め、総選挙で圧勝した。憲政会総裁の加藤高明が首相となって連立内閣をつくり、普通選挙法と治安維持法を成立させた。以後、1932年まで政党内閣が続いた。 年表で見る ›
- 治安維持法ちあんいじほう1925年
1925年に制定された、国体(天皇制)の変革や私有財産制度の否認をめざす結社や運動を取り締まる法律。普通選挙の実施や日ソ国交樹立で共産主義の影響が広がることを警戒し、普通選挙法と同じ年に定められた。1928年には最高刑が死刑に引き上げられ、のちには宗教団体や自由主義者まで取り締まりの対象となった。1945年に廃止された。 年表で見る ›
- 日ソ基本条約にっそきほんじょうやく1925年
1925年に日本とソ連が国交を樹立した条約。シベリア出兵の後も北樺太に残っていた日本軍の撤兵を決め、日本は北樺太の石油や石炭の利権を得た。日本はソ連との国交を開く一方で、共産主義思想の広がりを警戒し、同じ年に治安維持法を制定した。ロシア革命以来の日ソ関係の正常化となった。 年表で見る ›
- 普通選挙法ふつうせんきょほう1925年
1925年、加藤高明内閣のもとで成立した衆議院議員選挙法の改正。納税額による制限を撤廃し、満25歳以上のすべての男子に選挙権を与えた。有権者は約4倍に増え、人口の約20%となった。一方で女性の選挙権は認められず、同時に治安維持法が制定された。1928年に初めてこの法による総選挙が行われた。 年表で見る ›
- 社会民衆党しゃかいみんしゅうとう1926年
1926年に安部磯雄・片山哲らが結成した無産政党。普通選挙法の成立で労働者や農民が選挙権を得たことを背景に、議会を通じた社会改革をめざした。共産主義とは一線を画す穏健な社会民主主義の立場をとり、1928年の最初の普通選挙で議席を獲得した。1932年に他の政党と合同して社会大衆党となった。 年表で見る ›
- 日本放送協会にっぽんほうそうきょうかい1926年
1926年、東京・大阪・名古屋の放送局を統合して設立された公益法人。1925年に始まったラジオ放送を全国に広める役割を担い、ニュースや娯楽番組を通じてラジオは急速に普及した。戦時中は政府の情報統制のもとで戦意の高揚にも利用された。戦後の1950年に放送法に基づく特殊法人として再出発し、現在のNHKとなった。 年表で見る ›
日本史:昭和時代(戦前・戦中) 1926〜1945年
- 昭和天皇しょうわてんのう1901〜1989年
大正天皇の子で、第124代天皇。1921年から摂政を務め、1926年に即位した。在位中に満州事変や日中戦争、太平洋戦争が起こり、1945年にはポツダム宣言の受諾を決断した。戦後は日本国憲法のもとで日本国と日本国民統合の象徴となり、在位は62年余りと歴代の天皇で最も長かった。 年表で見る ›
- 芥川龍之介あくたがわりゅうのすけ1892〜1927年
大正期を代表する小説家。夏目漱石に「鼻」を認められて文壇に登場した。「羅生門」「蜘蛛の糸」「杜子春」など、古典や説話を題材に人間の心理を鋭く描いた短編を数多く残した。1927年に35歳で自ら命を絶ち、その死は時代の不安を象徴するものとして社会に衝撃を与えた。のちに彼の名を冠した芥川賞が創設された。 年表で見る ›
- 金融恐慌きんゆうきょうこう1927年
1927年に日本で起こった金融の大混乱。関東大震災後の震災手形の処理が問題となる中、国会での大蔵大臣の失言をきっかけに預金の引き出しが銀行に殺到した。鈴木商店の破綻で台湾銀行も経営危機に陥り、多くの銀行が休業した。田中義一内閣はモラトリアム(支払猶予令)で混乱を収め、その後は大銀行への預金の集中が進んだ。 年表で見る ›
- 山東出兵さんとうしゅっぺい1927〜1928年
田中義一内閣が中国の山東省に3度にわたって出兵したこと。蔣介石の国民革命軍が北伐を進める中、日本人居留民と権益を守ることを名目とした。第2次出兵では国民革命軍と衝突する済南事件が起こり、中国での反日感情が強まった。日本の中国政策が強硬な姿勢に転じたことを示す出来事となった。 年表で見る ›
- 鈴木商店すずきしょうてん1874〜1927年
神戸を拠点とした総合商社。砂糖や樟脳の取引から始まり、第一次世界大戦中の好景気で急成長して、一時は三井物産をしのぐ取引高を誇った。しかし戦後の不況で経営が悪化し、多額の融資をしていた台湾銀行が新規の貸し出しを停止したため、1927年に破綻した。これが金融恐慌を深刻化させた。 年表で見る ›
- 田中義一たなかぎいち1864〜1929年
長州出身の陸軍軍人・政治家。立憲政友会の総裁となり、1927年に金融恐慌のさなか首相に就任した。中国に対しては山東出兵や東方会議など強硬な積極外交を進め、国内では共産党員を大量に検挙し、治安維持法を改正した。1928年の張作霖爆殺事件の処理をめぐって昭和天皇の不信を買い、翌年総辞職した。 年表で見る ›
- 東方会議とうほうかいぎ1927年
1927年、田中義一内閣が中国政策を決めるために開いた会議。外務省・陸軍・関東軍などの首脳が集まり、満州・内モンゴルでの日本の権益を実力で守る方針を確認した。協調外交から積極外交に転じた田中内閣の姿勢を示し、山東出兵や張作霖爆殺事件など、満州をめぐる強硬な行動につながった。 年表で見る ›
- 立憲民政党りっけんみんせいとう1927年
1927年、憲政会と政友本党が合同して成立した政党。浜口雄幸が初代総裁となり、立憲政友会と並ぶ二大政党の一つとして交互に政権を担った。浜口内閣は協調外交や金解禁、ロンドン海軍軍縮条約の調印を進めた。軍部の発言力が強まる中、1940年に解党して大政翼賛会に合流した。 年表で見る ›
- ロンドン海軍軍縮条約ろんどんかいぐんぐんしゅくじょうやく1930年
1930年にロンドンで結ばれた、補助艦の保有量を制限する条約。ワシントン会議で決めた主力艦の制限に続き、巡洋艦などの補助艦について、日本の保有量をアメリカの約7割とすることで合意した。浜口雄幸内閣が調印したが、海軍軍令部や野党は統帥権の侵害だと激しく批判し、浜口首相は狙撃されて重傷を負った。 年表で見る ›
- 犬養毅いぬかいつよし1855〜1932年
岡山県出身の政治家。立憲改進党の結成に参加し、第一次護憲運動では尾崎行雄とともに「憲政の神様」とよばれた。1931年に立憲政友会総裁として首相となり、金輸出再禁止を断行して景気の回復を図った。満州国の承認には慎重な態度をとったが、1932年の五・一五事件で海軍の青年将校らに暗殺され、政党内閣の時代は終わった。 年表で見る ›
- 金輸出再禁止きんゆしゅつさいきんし1931年
1931年12月、犬養毅内閣の高橋是清大蔵大臣が行った、金の輸出を再び禁止する政策。浜口内閣が実施した金解禁は世界恐慌と重なり、昭和恐慌を深刻にしていた。再禁止により円と金との交換が停止され、日本は管理通貨制度に移った。円安を生かして輸出が伸び、日本は他の国より早く恐慌から抜け出した。 年表で見る ›
- 三月事件さんがつじけん1931年
1931年3月、陸軍の中堅将校らの秘密結社「桜会」が計画したクーデター未遂事件。政党政治を倒して、宇垣一成陸軍大臣を首班とする軍部政権を樹立しようとしたが、宇垣が同意しなかったため実行されずに終わった。関係者はほとんど処分されず、軍内部の急進派が勢いづき、同じ年の十月事件につながった。 年表で見る ›
- 十月事件じゅうがつじけん1931年
1931年10月、桜会の橋本欣五郎らが計画したクーデター未遂事件。満州事変の勃発を受けて、首相らを襲撃し、荒木貞夫中将を首班とする軍部政権を樹立しようとしたが、計画が事前に漏れて関係者が検挙された。処分は軽く済まされ、軍部の急進派による政治テロがその後も続く背景となった。 年表で見る ›
- 満州事変まんしゅうじへん1931〜1933年
1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破した関東軍が、これを中国軍のしわざとして始めた軍事行動。政府の不拡大方針に反して戦線を広げ、翌年までに満州の主要地域を占領した。1932年には満州国を建国させたが、国際連盟はリットン調査団の報告に基づいてこれを認めず、日本は国際連盟を脱退した。 年表で見る ›
- 五・一五事件ごいちごじけん1932年
1932年5月15日、海軍の青年将校らが首相官邸などを襲撃し、犬養毅首相を暗殺した事件。昭和恐慌による社会不安や政党政治への不信を背景とし、陸軍士官学校の生徒や農民らも加わった。事件後、海軍大将の斎藤実が首相となり、戦前の政党内閣の時代は終わった。犯人らへの同情が世間に広がり、処罰も軽く済まされた。 年表で見る ›
- 社会大衆党しゃかいたいしゅうとう1932年
1932年、社会民衆党と全国労農大衆党が合同して結成した無産政党。労働者や農民の利益を代表することをめざし、1937年の総選挙では議席を大きく伸ばした。しかし次第に軍部に接近して国家社会主義的な傾向を強め、1940年には自ら解党して大政翼賛会に合流した。戦前の無産政党運動の終わりを示す出来事となった。 年表で見る ›
- 満州国まんしゅうこく1932〜1945年
1932年、関東軍が満州事変によって中国東北部に建国させた国家。清朝最後の皇帝溥儀を執政(のちに皇帝)とし、「五族協和」「王道楽土」を掲げたが、実権は関東軍と日本人官僚が握っていた。日本からは多くの開拓移民が送られた。国際連盟は独立を認めず、日本の連盟脱退の原因となり、1945年の日本の敗戦とともに消滅した。 年表で見る ›
- リットン調査団りっとんちょうさだん1932年
満州事変を調査するため、国際連盟が派遣した調査団。イギリスのリットンを団長とし、1932年に日本・中国・満州を調べて報告書をまとめた。報告書は日本の行動を自衛とは認めず、満州国も住民の自発的な独立運動によるものではないとした。1933年に連盟総会がこれをもとに勧告を採択すると、日本は国際連盟から脱退した。 年表で見る ›
- 国際連盟脱退こくさいれんめいだったい1933年
1933年3月、日本が国際連盟からの脱退を通告したこと。リットン調査団の報告をもとに、連盟総会が満州国を認めず日本軍の撤退を求める勧告を42対1で可決したため、日本の全権の松岡洋右は議場から退場した。これにより日本は国際的な孤立を深め、同じ年にはドイツも連盟から脱退した。 年表で見る ›
- 滝川事件たきがわじけん1933年
1933年、京都帝国大学法学部の滝川幸辰教授の刑法学説が自由主義的で危険だとして、文部大臣の鳩山一郎が休職処分にした事件。法学部の教授会は大学の自治と学問の自由を守るために抗議し、教授全員が辞表を提出したが、政府は処分を押し通した。学問や思想への国家の統制が強まる流れを示した。 年表で見る ›
- プロレタリア作家ぷろれたりあさっか1920年代〜1930年代
労働者や農民など無産階級(プロレタリア)の立場から社会の矛盾を描いた作家たち。社会主義運動の高まりを背景に1920年代に盛んになり、小林多喜二の『蟹工船』や徳永直の『太陽のない街』などが知られる。しかし治安維持法による弾圧が強まり、1933年には小林多喜二が取り調べ中に亡くなった。その後、多くの作家が転向し運動は衰えた。 年表で見る ›
- 華北分離工作かほくぶんりこうさく1935年
1935年ごろから日本の軍部が進めた、中国の華北地方を国民政府から切り離そうとする工作。満州国の安全を確保し、資源や市場を得ることを目的に、梅津・何応欽協定などで国民政府の勢力を華北から排除した。冀東防共自治委員会などの親日政権も作らせたが、中国の抗日運動を激化させ、日中戦争の背景となった。 年表で見る ›
- 天皇機関説事件てんのうきかんせつじけん1935年
1935年、憲法学者美濃部達吉の天皇機関説が、国体に反するとして攻撃された事件。天皇機関説は統治権は国家にあり天皇はその最高機関だとする学説で、それまで学界の定説だった。貴族院での批判をきっかけに軍部や右翼が排撃運動を起こし、岡田啓介内閣は国体明徴声明を出して機関説を否定した。美濃部の著書は発禁となった。 年表で見る ›
- 二・二六事件にいにろくじけん1936年
1936年2月26日、陸軍の皇道派の青年将校らが約1400人の兵を率いて起こしたクーデター事件。首相官邸などを襲い、高橋是清大蔵大臣・斎藤実内大臣らを殺害し、東京の中心部を占拠した。昭和天皇が強く鎮圧を求めたため反乱軍は鎮圧された。事件後は統制派が陸軍の主導権を握り、軍部の政治への発言力はさらに強まった。 年表で見る ›
- 防共協定ぼうきょうきょうてい1936年
1936年に日本とドイツが結んだ協定。コミンテルン(共産主義インターナショナル)の活動に対抗して協力することを定め、秘密の付属協定ではソ連を想定した取り決めもあった。翌年にはイタリアが加わって日独伊三国防共協定となり、これがのちの日独伊三国同盟へと発展する基礎となった。 年表で見る ›
- 北一輝きたいっき1883〜1937年
大正・昭和初期の国家主義者。若いころは社会主義に関心をもち、中国の辛亥革命にも関わった。著書『日本改造法案大綱』で、天皇のもとでクーデターによる国家改造を行うことを説き、陸軍の青年将校に大きな影響を与えた。二・二六事件の思想的な指導者とされ、直接は参加していなかったが軍法会議で死刑とされた。 年表で見る ›
- 国民精神総動員運動こくみんせいしんそうどういんうんどう1937年
日中戦争が始まった1937年に、第1次近衛文麿内閣が始めた国民運動。「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」をスローガンに、国民に戦争への協力や節約・貯蓄を求めた。町内会や部落会などを通じて、ぜいたくの禁止や金属類の回収などが進められた。1940年には大政翼賛会にその役割が引き継がれた。 年表で見る ›
- 近衛文麿このえふみまろ1891〜1945年
公家の名門出身の政治家。国民の幅広い人気を背景に1937年に首相となり、まもなく日中戦争が始まった。「国民政府を対手とせず」との声明を出して和平の道を狭め、国家総動員法を制定した。第2次内閣では新体制運動を進めて大政翼賛会をつくり、日独伊三国同盟を結んだ。戦後、戦犯として逮捕命令を受け、自ら命を絶った。 年表で見る ›
- 日中戦争にっちゅうせんそう1937〜1945年
1937年7月の盧溝橋事件をきっかけに始まった日本と中国の全面戦争。日本は短期決戦をめざして首都南京などを占領したが、国民政府は拠点を重慶に移し、共産党と協力して抗戦を続けた。戦争は長期化し、日本は国家総動員法で国民生活を統制した。1941年からは太平洋戦争と一体となり、1945年の日本の敗戦で終わった。 年表で見る ›
- 矢内原忠雄やないはらただお1893〜1961年
東京帝国大学の経済学者で、植民政策の研究者。無教会派のキリスト教徒として内村鑑三に学んだ。日中戦争が始まった1937年、日本の大陸政策を批判する論文を発表したことが問題とされ、教授を辞職に追い込まれた(矢内原事件)。戦後は東京大学に復帰し、のちに総長を務めた。 年表で見る ›
- 盧溝橋事件ろこうきょうじけん1937年
1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で日本軍と中国軍が衝突した事件。夜間演習中の日本軍に向けた銃撃をきっかけとし、11日には現地で停戦協定が結ばれた。しかし同じ日に近衛文麿内閣が華北への派兵を決め、戦闘は拡大して日中戦争に発展した。日本と中国の全面的な戦争の始まりとなった。 年表で見る ›
- 国家総動員法こっかそうどういんほう1938年
1938年、第1次近衛文麿内閣のもとで制定された法律。日中戦争の長期化に備え、政府が議会の承認なしに、勅令によって物資や労働力、物価などを統制できるようにした。この法律に基づいて国民徴用令や価格等統制令などが出された。議会の権限は大きく弱まり、国民生活は戦争のために統制されていった。 年表で見る ›
- 張鼓峰事件ちょうこほうじけん1938年
1938年7〜8月、朝鮮・満州・ソ連の国境が接する張鼓峰付近で起こった日本軍とソ連軍の武力衝突。国境線の解釈をめぐる対立から戦闘となり、日本軍は戦車や航空機を用いるソ連軍に苦戦して大きな損害を受けた。停戦協定で収まったが、翌年のノモンハン事件とともに、ソ連軍の強さを日本に示した。 年表で見る ›
- 汪兆銘おうちょうめい1883〜1944年
中国国民党の政治家。孫文の側近として活躍したが、日中戦争中に日本との和平を主張し、1938年に重慶を脱出した。1940年に日本の支援を受けて南京に国民政府を樹立したが、実権は乏しく、日本の傀儡政権とみなされた。日本は蔣介石政府との和平の道を自ら狭めることになり、汪は1944年に名古屋で病死した。 年表で見る ›
- 大政翼賛会たいせいよくさんかい1940〜1945年
1940年、第2次近衛文麿内閣のもとで結成された国民統制の組織。ナチ党のような強力な一国一党体制をめざす新体制運動の中で、政党は次々と解散して合流した。しかし政治結社ではなく公事結社とされ、首相を総裁として、部落会・町内会・隣組を通じて国民を戦争協力に動員する組織となった。 年表で見る ›
- 日独伊三国同盟にちどくいさんごくどうめい1940年
1940年9月、日本・ドイツ・イタリアがベルリンで結んだ軍事同盟。ヨーロッパとアジアでの互いの指導的地位を認め、当時戦争に加わっていない国から攻撃を受けた場合には互いに援助することを約束した。主にアメリカをけん制するねらいだったが、かえって日米関係を悪化させ、太平洋戦争への道を開いた。 年表で見る ›
- 国民学校こくみんがっこう1941〜1947年
1941年の国民学校令によって、それまでの小学校が改められた初等教育の学校。戦時体制のもとで「皇国民の錬成」を目的とし、国家主義的・軍国主義的な教育が行われた。義務教育を8年に延長することも定められたが、戦争の激化で実施されなかった。戦後の1947年、学校教育法により再び小学校となった。 年表で見る ›
- 真珠湾攻撃しんじゅわんこうげき1941年
1941年12月8日(現地時間7日)、日本海軍の機動部隊がハワイのアメリカ太平洋艦隊の基地を奇襲攻撃した作戦。アメリカの戦艦などに大きな損害を与えたが、空母は港におらず無事だった。交渉打ち切りの通告が攻撃開始に遅れたため、アメリカでは「だまし討ち」と受け止められ、国民が団結して参戦する結果となった。 年表で見る ›
- 太平洋戦争たいへいようせんそう1941〜1945年
1941年12月8日の日本軍による真珠湾攻撃とマレー半島上陸から始まった、日本とアメリカ・イギリスなど連合国との戦争。日本は当初東南アジアの広い地域を占領したが、ミッドウェー海戦以後は劣勢となった。本土空襲や沖縄戦、広島・長崎への原爆投下を経て、1945年8月にポツダム宣言を受諾して降伏した。当時の日本では「大東亜戦争」とよばれた。 年表で見る ›
- 日米交渉にちべいこうしょう1941年
1941年、日米間の戦争を回避するため、野村吉三郎駐米大使とハル国務長官の間で行われた交渉。日本の南部仏印進駐に対し、アメリカは石油の対日輸出禁止などの措置をとって対立が深まった。11月にアメリカは中国・仏印からの撤兵などを求めるハル・ノートを示し、日本はこれを最後通告とみなして開戦を決めた。 年表で見る ›
- 日ソ中立条約にっそちゅうりつじょうやく1941年
1941年4月、外務大臣松岡洋右がモスクワで結んだ日本とソ連の条約。互いの領土を尊重し、一方が第三国と戦争になった場合は中立を守ることを約束した。日本は北方の安全を確保して南方への進出を進め、ソ連もドイツとの戦いに備えた。有効期間は5年だったが、1945年8月にソ連は条約を破って日本に宣戦した。 年表で見る ›
- ガダルカナル島の戦いがだるかなるとうのたたかい1942〜1943年
南太平洋のソロモン諸島にあるガダルカナル島をめぐる日本とアメリカの戦い。1942年8月、日本軍が建設していた飛行場をアメリカ軍が占領し、半年にわたる争奪戦が続いた。補給が絶たれた日本軍は飢えや病気で多くの犠牲を出し、1943年2月に撤退した。ミッドウェー海戦とともに戦局の転換点となった。 年表で見る ›
- ミッドウェー海戦みっどうぇーかいせん1942年
太平洋中部のミッドウェー島付近で日本海軍とアメリカ海軍が戦った海戦。真珠湾攻撃以来優勢だった日本はアメリカ艦隊の撃滅をねらったが、暗号を解読されて待ち伏せを受け、主力空母4隻を失った。この敗北で日本は海上の主導権を失い、太平洋戦争の転換点となった。 年表で見る ›
- 翼賛選挙よくさんせんきょ1942年
1942年に東条英機内閣のもとで行われた衆議院議員総選挙。太平洋戦争の初期で戦勝の気分が広がるなか、政府は翼賛政治体制協議会をつくり、その推薦候補を当選させるよう選挙に干渉した。推薦候補が議席の8割以上を占め、議会は戦争遂行に協力する機関となり、政党政治の役割は失われた。 年表で見る ›
- 学徒出陣がくとしゅつじん1943年
太平洋戦争の戦況悪化を受け、それまで徴兵を猶予されていた大学・高等専門学校などの学生を軍に入隊させたこと。1943年に文科系学生の徴兵猶予が停止され、同年10月には明治神宮外苑で出陣学徒壮行会が開かれた。多くの学生が戦場に送られ、特攻隊員として戦死した者もいた。 年表で見る ›
- 大東亜会議だいとうあかいぎ1943年
1943年に東京で開かれた、日本と日本の影響下にあったアジアの国々の代表による会議。満州国・中華民国(汪兆銘政権)・タイ・フィリピン・ビルマの代表が集まり、日本は戦況が悪化するなかで大東亜共栄圏の結束を示そうとした。大東亜共同宣言が採択されたが、実態は戦争協力の確認にとどまった。 年表で見る ›
- ビルマ国びるまこく1943〜1945年
第二次世界大戦中、日本の占領下にあったビルマ(現在のミャンマー)で成立した国家。日本はイギリスの植民地支配からの解放を掲げ、バー・モウを首相として独立を認めたが、実際には日本軍の強い影響下に置かれた。1945年にはアウン・サンらの軍が日本に反旗をひるがえし、日本の敗戦とともに消滅した。 年表で見る ›
- インパール作戦いんぱーるさくせん1944年
1944年、日本軍がビルマからインド北東部のインパールの攻略をめざした作戦。イギリス軍の拠点をたたき、連合国による中国への補給路を断つねらいがあった。しかし補給を軽視した無謀な計画のため、食料や弾薬が不足して作戦は失敗し、撤退の途中で多くの将兵が飢えや病気で亡くなった。 年表で見る ›
- 沖縄戦おきなわせん1945年
1945年3月末から6月にかけて、沖縄でアメリカ軍と日本軍との間で行われた地上戦。日本軍は本土決戦の準備の時間をかせぐため持久戦をとり、多くの住民が戦闘に巻き込まれた。県民の約4人に1人が亡くなったとされる。戦後、沖縄はアメリカの統治下に置かれ、1972年に日本へ返還された。 年表で見る ›
- 東京大空襲とうきょうだいくうしゅう1945年
1945年3月10日未明、アメリカ軍のB29爆撃機が東京の下町を中心に行った大規模な空襲。サイパン島などを確保したアメリカは日本本土への爆撃を強め、木造住宅の密集地に焼夷弾を大量に投下した。一夜で約10万人が亡くなったとされ、以後、全国の多くの都市が同様の空襲を受けた。 年表で見る ›
- 広島・長崎ひろしまながさき1945年
1945年8月、アメリカが広島(6日)と長崎(9日)に原子爆弾を投下したこと。戦争の早期終結などを理由に使用され、その年の末までに広島で約14万人、長崎で約7万人が亡くなったとされる。被爆者はその後も放射線による病気に苦しんだ。日本のポツダム宣言受諾につながり、核兵器廃絶を求める運動の原点となった。 年表で見る ›
- ポツダム宣言ぽつだむせんげん1945年
1945年7月、アメリカ・イギリス・中国の名で日本に無条件降伏を求めた宣言。ドイツ降伏後のポツダムでの会談をもとに発表され、軍国主義の除去、領土の制限、民主化などを条件とした。日本は当初これを黙殺したが、原爆投下とソ連の参戦を受けて8月14日に受諾を決め、太平洋戦争は終結した。 年表で見る ›
- マッカーサーまっかーさー1880〜1964年
アメリカの陸軍軍人。太平洋戦争では南西太平洋方面の連合国軍を指揮し、日本の降伏後は連合国軍最高司令官として占領下の日本に着任した。GHQを通じて憲法改正、財閥解体、農地改革などの民主化政策を進めた。朝鮮戦争では国連軍司令官を務めたが、方針をめぐってトルーマン大統領と対立し、1951年に解任された。 年表で見る ›
日本史:昭和時代(戦後) 1945〜1989年
- 極東委員会きょくとういいんかい1946〜1952年
連合国が日本の占領政策を決めるために設けた最高機関。アメリカ・イギリス・ソ連・中国など11か国(のち13か国)で構成され、ワシントンに置かれた。政策の基本方針を決め、GHQがそれを実施するしくみだったが、実際にはアメリカの影響力が強く、占領政策はアメリカ主導で進められた。サンフランシスコ平和条約の発効で廃止された。 年表で見る ›
- 公職追放令こうしょくついほうれい1946年
GHQの指令にもとづき、戦争に協力した政治家・軍人・官僚などを公職から退けた命令。軍国主義や超国家主義の影響を取り除き、日本を民主化することが目的だった。約20万人が追放されたが、冷戦の深まりとともに方針が転換され、1950年代初めまでに多くの人が追放を解除されて政界などに復帰した。 年表で見る ›
- 新円切替しんえんきりかえ1946年
1946年、政府が金融緊急措置令を出し、旧円紙幣の使用を止めて新しい円紙幣に切り替えた政策。終戦直後の物不足と通貨の大量発行によって激しいインフレが進んでいたため、預金を封鎖し、引き出しを一定額に制限して出回るお金を減らそうとした。効果は一時的で、インフレはその後も続いた。 年表で見る ›
- 天皇の人間宣言てんのうのにんげんせんげん1946年
1946年1月1日、昭和天皇が出した詔書で、天皇を現人神とする考えを自ら否定したもの。GHQは、天皇の神格化が軍国主義を支えたと考え、その見直しを求めていた。詔書は五箇条の御誓文を引用して民主主義の伝統を強調し、天皇を国民統合の象徴とする日本国憲法の考え方につながった。 年表で見る ›
- 農地改革のうちかいかく1946〜1950年
GHQの指示で行われた土地制度の改革。地主が小作人から高い小作料を取る寄生地主制が農村の貧困を生み、軍国主義の背景になったと考えられた。1946年からの第2次改革では、政府が不在地主の全小作地と在村地主の一定面積以上の小作地を買い上げて小作人に安く売り渡した。その結果、多くの自作農が生まれた。 年表で見る ›
- 連合国軍最高司令官総司令部れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ1945〜1952年
第二次世界大戦後、日本を占領した連合国軍の最高司令官の総司令部。略称GHQ。最高司令官マッカーサーのもと、日本政府に指令や勧告を出す間接統治の形で占領政策を進めた。非軍事化と民主化を目標に、憲法改正、財閥解体、農地改革、教育改革などを指導した。1952年のサンフランシスコ平和条約の発効で占領が終わり、廃止された。 年表で見る ›
- 日本国憲法にほんこくけんぽう1947年
1946年11月3日に公布され、1947年5月3日に施行された日本の憲法。GHQの草案をもとに政府が改正案をつくり、帝国議会での審議を経て、大日本帝国憲法を改正する形で成立した。国民主権・基本的人権の尊重・平和主義を三つの柱とし、天皇は日本国と日本国民統合の象徴とされた。戦後日本の政治と社会の土台となった。 年表で見る ›
- 文化財保護法ぶんかざいほごほう1950年
1950年に制定された、文化財を保存し活用するための法律。前年の1949年に法隆寺金堂の壁画が火災で焼損したことがきっかけとなった。それまでの国宝保存法などをまとめ、建造物や美術品だけでなく、芸能や工芸技術などの無形文化財や史跡・名勝・天然記念物も保護の対象とした。国宝や重要文化財の指定もこの法律にもとづく。 年表で見る ›
- レッドパージれっどぱーじ1950年
1950年ごろ、GHQの指示によって共産党員やその支持者とみなされた人々を職場から追い出したこと。冷戦の激化と朝鮮戦争の始まりを背景に、占領政策が民主化から反共へと転換したことを示す。報道機関や官公庁、民間企業などで1万人以上が職を失った。一方で、戦争協力者の公職追放は解除が進められた。 年表で見る ›
- サンフランシスコ平和条約さんふらんしすこへいわじょうやく1951年
1951年9月、日本とアメリカ・イギリスなど48か国の間で結ばれた講和条約。冷戦が進むなか、アメリカは日本を西側陣営の一員として早く独立させようとした。翌1952年の発効で日本は主権を回復したが、ソ連などは調印せず、中国は会議に招かれなかった。沖縄や小笠原諸島はアメリカの統治下に残された。 年表で見る ›
- 日米安全保障条約にちべいあんぜんほしょうじょうやく1951年
1951年、サンフランシスコ平和条約と同じ日に日本とアメリカの間で結ばれた条約。独立後の日本の防衛のため、アメリカ軍が引き続き日本に駐留することを認めた。冷戦下でアメリカは日本を東アジアの拠点と位置づけた。ただしアメリカの日本防衛義務が明記されていないなど不平等な点があり、1960年に改定された。 年表で見る ›
- 血のメーデー事件ちのめーでーじけん1952年
1952年5月1日のメーデーに、東京の皇居前広場でデモ隊と警官隊が衝突した事件。サンフランシスコ平和条約の発効直後で、使用を禁止された皇居前広場にデモ隊が入ろうとしたことから大きな衝突になり、死者や多数の負傷者が出た。この事件は破壊活動防止法の制定を後押しすることになった。 年表で見る ›
- 日米行政協定にちべいぎょうせいきょうてい1952年
1952年、日米安全保障条約にもとづいて結ばれた協定。日本に駐留するアメリカ軍に基地を提供することや、その費用の分担、アメリカ兵が罪を犯した場合の裁判の扱いなどを定めた。国会の承認を経ずに結ばれ、アメリカ側に有利な内容が多かった。1960年の新安保条約とともに日米地位協定に引き継がれた。 年表で見る ›
- 日華平和条約にっかへいわじょうやく1952年
1952年、日本と台湾の中華民国政府との間で結ばれた講和条約。サンフランシスコ講和会議に中国の代表は招かれなかったため、日本はアメリカの意向を受けて中華民国を講和の相手に選んだ。日中戦争の戦争状態の終了を確認したが、1972年の日中共同声明で日本が中華人民共和国を承認したことにより、終了したものとされた。 年表で見る ›
- 破壊活動防止法はかいかつどうぼうしほう1952年
1952年、暴力によって社会の秩序を壊すような活動をした団体を規制するために制定された法律。占領終了直後、血のメーデー事件など左翼勢力による騒乱が起きたことが背景にある。団体の活動制限や解散指定などを定め、調査を担う公安調査庁が設けられた。思想や表現の自由を侵すおそれがあるとして、反対運動も起こった。 年表で見る ›
- 李承晩ラインりしょうばんらいん1952年
1952年、韓国の李承晩大統領が日本海などの公海上に一方的に設定した境界線。周辺の水産資源を自国のものとして守ることを主張し、竹島をその内側に含めた。ラインを越えたとして日本の漁船が多数拿捕され、乗組員が抑留された。1965年の日韓基本条約と同時に日韓漁業協定が結ばれ、ラインは事実上廃止された。 年表で見る ›
- MSA協定えむえすえーきょうてい1954年
1954年に日本とアメリカが結んだ日米相互防衛援助協定などの総称。アメリカの相互安全保障法(MSA)にもとづき、日本はアメリカから兵器や経済の援助を受ける代わりに、自国の防衛力を強化する義務を負った。この協定を受けて同年に防衛庁と自衛隊が発足し、日本の再軍備が本格化した。 年表で見る ›
- 自衛隊じえいたい1954年
1954年、防衛庁の設置とともに発足した日本の防衛組織。朝鮮戦争の際に設けられた警察予備隊が保安隊を経て改組されたもので、MSA協定による防衛力強化の義務が背景にある。陸・海・空の3隊からなる。憲法9条との関係がたびたび議論されてきた。冷戦後は国連平和維持活動や災害派遣など、活動の範囲を広げた。 年表で見る ›
- 第五福竜丸だいごふくりゅうまる1954年
1954年3月、太平洋のビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験で、静岡県焼津港のマグロ漁船第五福竜丸が放射性降下物(死の灰)を浴びた事件。乗組員23人全員が被ばくし、半年後に無線長の久保山愛吉が亡くなった。この事件を受けて原水爆禁止を求める署名運動が全国に広がり、翌年の原水爆禁止世界大会につながった。 年表で見る ›
- 日本民主党にほんみんしゅとう1954〜1955年
1954年、鳩山一郎を総裁として結成された保守政党。吉田茂首相の長期政権に反発する保守勢力が集まり、憲法改正と自主外交を掲げた。吉田内閣の退陣後、鳩山内閣を成立させた。翌1955年には吉田派の流れをくむ自由党と合同して自由民主党となり、五五年体制の一方の柱となった。 年表で見る ›
- 原水爆禁止げんすいばくきんし1955年
原子爆弾や水素爆弾の製造・実験・使用に反対し、その廃絶を求める運動。1954年の第五福竜丸事件をきっかけに東京都杉並区の主婦らが始めた署名運動が全国に広がり、3000万人以上の署名が集まった。1955年には広島で第1回原水爆禁止世界大会が開かれた。のちに政党間の対立から運動は分裂したが、平和運動の中心の1つとなった。 年表で見る ›
- 高度経済成長こうどけいざいせいちょう1955〜1973年ごろ
1950年代半ばから1970年代初めまで、日本経済が年平均で約10%という高い成長を続けた時期。技術革新による設備投資の拡大、豊富な労働力、安い原油などが成長を支えた。1968年には国民総生産(GNP)が資本主義国で第2位となった。一方で公害や過密・過疎などの問題が生じた。1973年の石油危機で終わりを迎えた。 年表で見る ›
- 五五年体制ごじゅうごねんたいせい1955〜1993年
1955年に左右に分かれていた日本社会党が統一し、これに対抗して保守の自由党と日本民主党が合同して自由民主党が成立したことで生まれた政治体制。自民党が政権を握り続け、社会党が野党第一党として対抗する状態が約38年続いた。1993年の総選挙で自民党が過半数を割り、細川護熙内閣が成立して終わった。 年表で見る ›
- 春闘しゅんとう1955年
毎年春に労働組合が一斉に賃上げなどを求めて企業と交渉する、日本独特の労働運動の方式。1955年に産業別の労働組合が共同で取り組んだのが始まりとされる。個々の組合では弱い交渉力を、時期をそろえることで強める工夫だった。高度経済成長期には賃金の上昇を広く社会に広げる役割を果たした。 年表で見る ›
関連高度経済成長
- 経済白書けいざいはくしょ1956年
政府の経済企画庁が経済の状況を分析して毎年発表した報告書。特に1956年版は、日本経済が戦前の水準を回復したことを受けて「もはや戦後ではない」と記したことで知られる。戦後の復興による成長は終わり、今後は技術革新などによる成長が必要だと訴えたもので、高度経済成長期の始まりを象徴する言葉として広まった。 年表で見る ›
関連高度経済成長
- 日ソ共同宣言にっそきょうどうせんげん1956年
1956年、鳩山一郎首相がモスクワを訪れてソ連と調印した宣言。両国の戦争状態を終わらせて国交を回復し、ソ連は日本の国連加盟を支持することを約束した。平和条約を結んだ後に歯舞群島と色丹島を日本に引き渡すことも定められたが、領土問題で合意できず、平和条約はいまも結ばれていない。 年表で見る ›
- 日本の国際連合加盟にほんのこくさいれんごうかめい1956年
1956年12月、日本が国際連合への加盟を認められ、80番目の加盟国となったこと。日本は1952年に加盟を申請していたが、安全保障理事会でソ連が拒否権を使い、実現していなかった。同年の日ソ共同宣言で国交が回復し、ソ連の支持を得られたことで加盟が決まった。日本の国際社会への本格的な復帰を示した。 年表で見る ›
- 水俣病みなまたびょう1956年
熊本県水俣市周辺で発生した公害病。チッソ水俣工場が排水とともに流したメチル水銀が魚介類に蓄積し、それを食べた人々に手足のしびれや言語障害などの神経障害が起こった。1956年に公式に確認されたが、政府が原因を公式に認めたのは1968年だった。四大公害病の1つで、患者の救済と補償をめぐる問題は長く続いた。 年表で見る ›
- 岸信介きしのぶすけ1896〜1987年
山口県出身の官僚・政治家。戦前は商工省の官僚として満州国の経営に関わり、東条英機内閣では大臣を務めた。戦後はA級戦犯容疑者として逮捕されたが不起訴となり、政界に復帰して1957年に首相となった。日米安全保障条約の改定を進め、1960年の新安保条約の成立後、激しい反対運動の責任をとって退陣した。安倍晋三の祖父にあたる。 年表で見る ›
- 砂川事件すながわじけん1957年
東京都砂川町(現在の立川市)で、アメリカ軍立川基地の拡張に反対する運動の中で起きた事件。1957年、デモ隊の一部が基地内に立ち入って起訴された。1959年に東京地方裁判所は、アメリカ軍の駐留は憲法9条に違反するとして無罪としたが、最高裁判所は、安保条約のような高度に政治的な問題は司法判断になじまないとして判決を取り消した。 年表で見る ›
- 新安保条約しんあんぽじょうやく1960年
1960年、岸信介内閣が結んだ日米相互協力及び安全保障条約。旧安保条約を改め、アメリカの日本防衛義務を明記し、在日アメリカ軍の行動について事前協議の制度を設けた。しかし日本が戦争に巻き込まれるとして反対運動(安保闘争)が全国に広がった。衆議院で強行採決が行われた後、条約は自然成立し、岸内閣は退陣した。 年表で見る ›
- 東海道新幹線とうかいどうしんかんせん1964年
1964年10月、東京オリンピックの開幕直前に東京―新大阪間で開業した高速鉄道。当時の国鉄が建設し、時速200kmを超える営業運転を行う世界初の高速鉄道として注目された。東京と大阪の間を約4時間(翌年には3時間10分)で結んだ。日本の技術力を世界に示し、高度経済成長期の大動脈として人とモノの移動を大きく変えた。 年表で見る ›
- 東京オリンピックとうきょうおりんぴっく1964年
1964年10月に東京で開かれた、アジアで初めてのオリンピック。戦後の復興と高度経済成長を世界に示す大会と位置づけられ、開幕に合わせて東海道新幹線や首都高速道路などが整備された。日本は金メダル16個を獲得し、衛星中継で世界に放送された。2021年には新型コロナウイルスの影響で1年延期された2度目の東京大会が開かれた。 年表で見る ›
- 家永三郎いえながさぶろう1913〜2002年
日本の歴史学者。東京教育大学の教授として日本思想史などを研究した。自らが執筆した高校日本史教科書が文部省の検定で修正を求められたことに対し、1965年、検定は表現の自由や教育の自由を保障する憲法に反するとして国を訴えた(家永教科書裁判)。裁判は3次にわたって32年間続き、教科書検定のあり方をめぐる議論に大きな影響を与えた。 年表で見る ›
- 日韓基本条約にっかんきほんじょうやく1965年
1965年、佐藤栄作内閣のもとで日本と韓国が国交を正常化した条約。韓国併合以前の条約が「もはや無効」であることを確認し、韓国政府を朝鮮にある唯一の合法的な政府と認めた。同時に結ばれた協定で、日本は韓国に経済協力を行い、両国の請求権の問題は解決済みとされた。植民地支配への評価をめぐる問題は、その後も両国の課題として残った。 年表で見る ›
- 阿賀野川水銀中毒あがのがわすいぎんちゅうどく1965年
新潟県の阿賀野川流域で発生した公害病。新潟水俣病、第二水俣病とも呼ばれる。上流にあった昭和電工鹿瀬工場が排水とともに流したメチル水銀が川魚に蓄積し、それを食べた住民に水俣病と同じ神経障害が起こった。1965年に確認され、1967年に患者らが企業を訴えた。四大公害病の1つで、1971年に患者側が勝訴した。 年表で見る ›
- 公害対策基本法こうがいたいさくきほんほう1967年
1967年に制定された、公害を防ぐための基本的な法律。高度経済成長のなかで水俣病や四日市ぜんそくなどの公害が深刻な社会問題となったことが背景にある。大気汚染や水質汚濁などを公害と定め、企業・国・地方公共団体の責任を示した。1970年の改正で経済との調和を重視する条項が削られ、1993年に環境基本法へと引き継がれた。 年表で見る ›
- 非核三原則ひかくさんげんそく1967年
核兵器を「持たず、つくらず、持ち込ませず」という日本政府の基本方針。1967年に佐藤栄作首相が国会で表明し、1971年には衆議院で決議された。唯一の戦争被爆国としての立場を示すもので、佐藤首相のノーベル平和賞受賞の理由の1つにもなった。一方で、アメリカ軍による核の持ち込みをめぐる密約の存在がのちに問題となった。 年表で見る ›
- 大阪万博おおさかばんぱく1970年
1970年に大阪府吹田市の千里丘陵で開かれた日本万国博覧会。「人類の進歩と調和」をテーマに、アジアで初めて開かれた万国博覧会で、77か国が参加した。会期中に約6400万人が訪れ、岡本太郎の太陽の塔が象徴となった。東京オリンピックに続き、高度経済成長を遂げた日本の姿を世界に示した。 年表で見る ›
- 沖縄返還協定おきなわへんかんきょうてい1971年
1971年に日本とアメリカが調印した、沖縄の施政権を日本に返すための協定。翌1972年5月15日に発効し、沖縄は日本に復帰した。サンフランシスコ平和条約でアメリカの統治下に置かれた沖縄では、祖国復帰運動が高まっていた。返還は「核抜き・本土並み」をめざしたが、広大なアメリカ軍基地はそのまま残された。 年表で見る ›
- 環境庁かんきょうちょう1971年
1971年に設置された、公害対策や自然保護を担当する国の行政機関。高度経済成長にともなう公害が深刻化し、1970年のいわゆる公害国会で多くの公害関係の法律が整えられたことを受けて発足した。各省庁に分かれていた環境行政をまとめる役割を担った。2001年の中央省庁再編で環境省に格上げされた。 年表で見る ›
- 日中共同声明にっちゅうきょうどうせいめい1972年
1972年、田中角栄首相が中華人民共和国を訪れ、周恩来首相と調印した声明。日本は中華人民共和国を中国の唯一の合法政府と認め、両国の国交が正常化した。日本は戦争で中国に大きな損害を与えた責任を反省し、中国は日本への戦争賠償の請求を放棄した。前年のアメリカの中国接近が背景にあり、日本は台湾との正式な外交関係を断った。 年表で見る ›
- 石油危機せきゆきき1973年
1973年の第四次中東戦争をきっかけに、アラブの産油国が原油の値上げや輸出制限を行い、世界経済が混乱したこと。第一次石油危機とも呼ばれる。原油価格は約4倍に上がり、石油を輸入に頼る日本では「狂乱物価」と呼ばれる激しい物価上昇が起こった。1974年には戦後初めてマイナス成長となり、高度経済成長は終わった。1979年には第二次石油危機も起きた。 年表で見る ›
- 変動為替相場制へんどうかわせそうばせい1973年
為替レートを固定せず、外国為替市場での通貨の需要と供給によって決める制度。ニクソン・ショックの後、1971年のスミソニアン協定で固定相場制の立て直しが図られたが、ドルへの不信は続いた。1973年に日本や西ヨーロッパの主要国が変動相場制に移り、固定相場制の時代は終わった。その後、プラザ合意後などに急速な円高が進んだが、2010年代以降は円安に振れる時期もあった。 年表で見る ›
- ロッキード事件ろっきーどじけん1976年
アメリカのロッキード社が旅客機を売り込むため、日本の政治家などに多額の賄賂を贈った汚職事件。1976年にアメリカ議会の公聴会で明らかになり、前首相の田中角栄が受託収賄などの疑いで逮捕された。田中は一審・二審で有罪とされたが、上告中に亡くなった。政治とお金の問題に対する国民の不信を深めた。 年表で見る ›
関連日中共同声明
- 日中平和友好条約にっちゅうへいわゆうこうじょうやく1978年
1978年、福田赳夫内閣のもとで日本と中華人民共和国が結んだ条約。1972年の日中共同声明で国交は正常化していたが、交渉は特定の国の覇権に反対する「反覇権条項」をめぐって長引いた。両国の平和友好関係の発展と、紛争を武力によらず解決することを定めた。これをきっかけに日本の中国への経済協力が本格化した。 年表で見る ›
- 中曽根康弘なかそねやすひろ1918〜2019年
群馬県出身の政治家。1982年から約5年間首相を務めた。「戦後政治の総決算」を掲げ、行政改革を進めて日本電信電話公社・日本専売公社・国鉄の民営化を実現した。外交ではアメリカのレーガン大統領と親しい関係を築き、日米の同盟関係を強めた。在任中の1985年にはプラザ合意が結ばれ、円高が進んだ。 年表で見る ›
- 男女雇用機会均等法だんじょこようきかいきんとうほう1985年
1985年に成立し、翌1986年に施行された、職場における男女の平等をめざす法律。国連で採択された女子差別撤廃条約を日本が批准するため、国内の制度を整える必要があった。募集・採用や昇進などで女性を男性と同じく扱うことを企業の努力義務とした。1997年の改正で差別が禁止され、その後もセクシュアルハラスメント対策などが強化された。 年表で見る ›
関連日本国憲法
- プラザ合意ぷらざごうい1985年
1985年9月、ニューヨークのプラザホテルで日・米・英・西独・仏の5か国(G5)の財務大臣と中央銀行総裁が結んだ合意。アメリカの巨額の貿易赤字を減らすため、各国が協調してドル高を是正することを決めた。その後急速な円高が進み、日本は円高不況となった。その対策として行われた金融緩和が、のちのバブル経済の一因となった。 年表で見る ›
日本史:平成・令和 1989年〜
- 国連平和維持活動こくれんへいわいじかつどう1992年
国際連合が紛争地域に部隊などを送り、停戦の監視や選挙の支援などを行って平和の回復を助ける活動。略称PKO。日本では湾岸戦争で人的貢献がないと批判されたことを受け、1992年にPKO協力法が成立した。同年、自衛隊がカンボジアに派遣され、初めて国連平和維持活動に参加した。憲法9条との関係から、参加には停戦合意などの条件が定められた。 年表で見る ›
- 細川護熙ほそかわもりひろ1938年〜
熊本藩主細川家の子孫で、日本の政治家。日本新党を結成し、1993年の総選挙で自民党が過半数を割ると、非自民・非共産の8党派による連立内閣の首相となった。これにより38年間続いた五五年体制は終わった。小選挙区比例代表並立制を導入する政治改革を実現したが、自らの資金問題で1994年に約8か月で退陣した。 年表で見る ›
- 小選挙区比例代表並立制しょうせんきょくひれいだいひょうへいりつせい1994年
衆議院の選挙で、1つの選挙区から1人を選ぶ小選挙区制と、政党の得票に応じて議席を配分する比例代表制を組み合わせた制度。1994年、細川護熙内閣のもとで政治改革関連法が成立して導入された。お金のかかる選挙や派閥政治をなくし、政権交代が起きやすくするねらいがあった。1996年の総選挙から実施された。 年表で見る ›
- 村山富市むらやまとみいち首相 1994〜1996年
大分県出身の政治家。日本社会党の委員長として、1994年に自民党・社会党・新党さきがけの連立内閣の首相となった。社会党の首相は約47年ぶりだった。首相として自衛隊を合憲と認めるなど党の方針を大きく転換した。戦後50年の1995年には、アジア諸国への植民地支配と侵略への反省とおわびを表した「村山談話」を発表した。 年表で見る ›
- 阪神・淡路大震災はんしんあわじだいしんさい1995年
1995年1月17日の早朝、兵庫県南部を震源とするマグニチュード7.3の地震によって起きた大災害。神戸市などで震度7の激しい揺れが観測され、建物の倒壊や火災によって6400人以上が亡くなった。全国から多くのボランティアが駆けつけ、この年は「ボランティア元年」と呼ばれた。建物の耐震化や防災体制の見直しが進むきっかけとなった。 年表で見る ›
- 橋本龍太郎はしもとりゅうたろう1937〜2006年
岡山県選出の政治家。1996年、村山富市の後を継いで首相となった。行政改革や財政構造改革など6つの改革を掲げ、中央省庁を1府12省庁に再編する方針を決めた。アメリカとの間で沖縄の普天間飛行場の返還に合意した。しかし消費税率の引き上げなどの後に景気が悪化し、1998年の参議院選挙で敗れて退陣した。 年表で見る ›
- 小泉純一郎こいずみじゅんいちろう1942年〜
神奈川県出身の政治家。2001年に首相となり、約5年半の長期政権を築いた。「聖域なき構造改革」を掲げ、郵政民営化や規制緩和、公共事業の削減などを進めた。2002年には北朝鮮を訪問し、日朝首脳会談で拉致を認めさせ、被害者5人の帰国を実現した。アメリカのイラク戦争を支持し、自衛隊をイラクに派遣した。 年表で見る ›
- 情報公開法じょうほうこうかいほう2001年
国の行政機関が持つ文書を、国民の請求に応じて原則として公開することを定めた法律。1999年に成立し、2001年4月に施行された。国民主権の考え方にもとづき、行政が国民への説明責任を果たし、国民が政治や行政を監視しやすくすることが目的だった。地方自治体では国に先がけて情報公開条例を定める動きが広がっていた。 年表で見る ›
関連中央省庁再編
- 中央省庁再編ちゅうおうしょうちょうさいへん2001年
2001年1月、国の中央省庁が1府22省庁から1府12省庁に再編されたこと。縦割り行政の弊害をなくし、首相と内閣の指導力を強めることを目的として、橋本龍太郎内閣が進めた行政改革にもとづく。内閣府が新設され、大蔵省は財務省に、文部省と科学技術庁は文部科学省に、環境庁は環境省になるなど、多くの省庁が統合・改編された。 年表で見る ›
- 日朝首脳会談にっちょうしゅのうかいだん2002年
2002年9月、小泉純一郎首相が北朝鮮の平壌を訪れ、金正日総書記と行った初めての日朝首脳会談。北朝鮮は日本人の拉致を初めて認めて謝罪し、両者は国交正常化をめざす日朝平壌宣言に署名した。翌月には拉致被害者5人が帰国した。しかし北朝鮮の核開発や拉致問題の解決が進まず、国交正常化は実現していない。 年表で見る ›
- 武力攻撃事態法ぶりょくこうげきじたいほう2003年
日本が外国から武力攻撃を受けた場合などの対処の手続きを定めた法律。北朝鮮の不審船事件や同時多発テロなどで安全保障への関心が高まったことを背景に、2003年に関連法とともに成立した。戦後初めての本格的な有事法制とされ、政府の対処方針の決め方や地方公共団体の責務などを定めた。翌年には国民保護法も成立した。 年表で見る ›
- 自衛隊のイラク派遣じえいたいのいらくはけん2004〜2009年
イラク戦争後の復興支援のため、イラク復興支援特別措置法にもとづいて自衛隊をイラクに派遣したこと。2004年から陸上自衛隊が南部のサマワで給水や医療支援、道路の補修などを行い、航空自衛隊は物資や人員の輸送を担った。戦闘が続く国への初めての派遣で、憲法との関係や安全面から国内で大きな議論となった。 年表で見る ›
- 郵政民営化関連法ゆうせいみんえいかかんれんほう2005年
2005年に成立した、日本郵政公社を民営化するための法律。小泉純一郎首相は郵政民営化を構造改革の中心に置いたが、法案は参議院で否決された。首相は衆議院を解散し、総選挙で自民党が大勝したことで法案は成立した。2007年に日本郵政グループが発足し、郵便・貯金・保険の事業が株式会社に引き継がれた。 年表で見る ›
- 裁判員制度さいばんいんせいど2009年
2009年5月に始まった、国民の中からくじで選ばれた裁判員が刑事裁判に参加し、裁判官とともに有罪か無罪か、どのような刑罰にするかを決める制度。司法制度改革の一環として導入され、国民の感覚を裁判に反映させ、司法への理解と信頼を深めることを目的とした。殺人など重大な事件の第一審が対象となる。 年表で見る ›
- 政権交代せいけんこうたい2009年
2009年8月の衆議院議員総選挙で民主党が大勝し、自民党から民主党への本格的な政権交代が起きたこと。長引く景気の低迷や年金記録問題などへの不満が背景にあった。鳩山由紀夫を首相とする民主党中心の連立内閣が成立した。しかし普天間基地の移設問題や東日本大震災への対応などで支持を失い、2012年の総選挙で自民党が政権を取り戻した。 年表で見る ›
- 東日本大震災ひがしにほんだいしんさい2011年
2011年3月11日、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震と、それにともなう大津波などによる大災害。東北地方の太平洋沿岸を中心に大きな被害が出て、震災関連死を含めた死者・行方不明者は約2万2000人にのぼった。東京電力福島第一原子力発電所の事故も起こり、多くの住民が長期の避難を強いられた。 年表で見る ›
- 福島第一原子力発電所ふくしまだいいちげんしりょくはつでんしょ2011年
福島県大熊町・双葉町にある東京電力の原子力発電所。2011年3月の東日本大震災の津波で電源を失い、原子炉を冷やせなくなって炉心溶融(メルトダウン)や水素爆発が起こった。大量の放射性物質が放出され、周辺の住民は避難を強いられた。国際評価でチェルノブイリと同じ最悪のレベル7とされ、日本のエネルギー政策を見直すきっかけとなった。 年表で見る ›
- 安倍晋三あべしんぞう1954〜2022年
山口県選出の政治家で、岸信介の孫。2006年に戦後最年少の52歳で首相となったが約1年で退陣した。2012年に再び首相となって2020年まで務め、通算在任期間は憲政史上最長となった。大胆な金融緩和などの経済政策(アベノミクス)を進め、安全保障関連法を成立させた。2022年、選挙の応援演説中に銃撃されて亡くなった。 年表で見る ›
- 異次元の金融緩和いじげんのきんゆうかんわ2013年
2013年4月、日本銀行の黒田東彦総裁のもとで始まった大規模な金融緩和。正式には量的・質的金融緩和という。長く続いたデフレからの脱却をめざし、2%の物価上昇を目標に、国債などを大量に買い入れて世の中に出回るお金を大幅に増やした。アベノミクスの柱の1つで、円安や株価の上昇をもたらした。2024年にマイナス金利の解除などで大きく転換した。 年表で見る ›
- 集団的自衛権しゅうだんてきじえいけん2014年
自国が直接攻撃されていなくても、密接な関係にある国が攻撃を受けた場合に、共同で反撃する権利。国連憲章で認められているが、日本政府は長く、憲法9条のもとでは行使できないと解釈してきた。2014年、安倍内閣は閣議決定でこの解釈を変更し、日本の存立が脅かされる場合などに限って行使を認めた。翌年の安全保障関連法で法的に整備された。 年表で見る ›
- 安全保障関連法あんぜんほしょうかんれんほう2015年
2015年9月に成立した、自衛隊法など10の法律の改正と1つの新しい法律からなる法律の総称。前年の閣議決定を受け、限定的な集団的自衛権の行使を認めたほか、他国軍への後方支援の範囲を広げた。安全保障環境の変化を理由としたが、憲法違反との批判も強く、国会の周辺では大規模な反対デモが行われた。 年表で見る ›
- 天皇の退位てんのうのたいい2019年
2019年4月30日、明仁天皇(現在の上皇)が退位し、翌5月1日に皇太子徳仁親王が即位したこと。2016年に天皇が高齢による務めへの不安をビデオメッセージで示したことがきっかけとなった。皇室典範には退位の規定がなかったため、一代限りの特例法が制定された。天皇の退位は約200年ぶりで、元号は平成から令和に改められた。 年表で見る ›
世界史:古代 〜500年ごろ
- メソポタミア文明めそぽたみあぶんめい紀元前3500年ごろ〜
チグリス川とユーフラテス川の流域で生まれた、世界最古級の文明。大河の水を引く灌漑農業で豊かな収穫を得て、シュメール人がウルクなどの都市国家を築いた。粘土板に刻む楔形文字や、60進法、太陰暦などが生み出された。その後もアッカドやバビロニアなど多くの王国が興亡し、周辺地域の文化の土台となった。 年表で見る ›
- インダス文明いんだすぶんめい紀元前2600〜前1800年ごろ
インダス川の流域に栄えた古代文明。モヘンジョ・ダロやハラッパーなどの都市は碁盤の目のような街路をもち、排水溝や大浴場などの設備が整っていた。印章に刻まれたインダス文字は今も解読されていない。気候の変化や川の流れの変化などが原因で衰えたと考えられており、のちのインド文化との関係が研究されている。 年表で見る ›
- ハンムラビ法典はんむらびほうてん紀元前18世紀
バビロン第1王朝のハンムラビ王が、メソポタミアを統一したのちに定めた法典。石碑に楔形文字で約280条が刻まれ、「目には目を、歯には歯を」という同害復讐の考え方で知られる。刑罰は身分によって差があった。広い領土を一つの法で治めようとしたもので、まとまった形で残る古い法典として歴史上重要である。 年表で見る ›
- 殷王朝いんおうちょう紀元前16〜前11世紀ごろ
中国の黄河流域に栄えた、実在が確かめられている最古の王朝。王は神意を占って政治を行い、亀の甲羅や牛の骨に結果を刻んだ。これが甲骨文字で、漢字のもとになった。祭りに使う精巧な青銅器も多く作られた。紀元前11世紀ごろ周に滅ぼされたが、その文字や祭祀の文化は後の中国文明の基礎となった。 年表で見る ›
- ポリスぽりす紀元前8〜前6世紀ごろ成立
古代ギリシアの都市国家。山の多い地形のもとで、城壁に囲まれた市街と周辺の農地からなる小さな国が各地に生まれた。アテナイやスパルタが代表で、市民は広場や民会に集まって政治に参加した。人口が増えると地中海や黒海の沿岸に植民市を築いた。市民が自ら国を運営する仕組みは、のちの民主政の源流となった。 年表で見る ›
- 新バビロニアしんばびろにあ紀元前626〜前539年
メソポタミア南部のカルデア人が建てた王国。ナボポラッサルがアッシリアから独立し、メディアと協力してアッシリアを滅ぼした。次のネブカドネザル2世の時代に最も栄え、首都バビロンは壮大な城門や神殿で飾られた。ユダ王国を滅ぼして住民を連れ去ったことでも知られる。紀元前539年、アケメネス朝に征服された。 年表で見る ›
- ドラコンの成文法どらこんのせいぶんほう紀元前621年ごろ
古代アテナイの立法者ドラコンが定めたとされる、アテナイ最初の成文法。それまで貴族が慣習に従って勝手に裁いていた法を文字に書き表し、誰にでも分かるようにした。刑罰が非常に重かったことで知られ、「ドラコン的」は厳しすぎる法の代名詞になった。法を公開したことは、平民の権利を守る第一歩とされる。 年表で見る ›
- バビロン捕囚ばびろんほしゅう紀元前586〜前538年
新バビロニアがユダ王国を滅ぼし、首都エルサレムの住民の多くをバビロンへ連れ去った出来事。神殿も破壊された。人々は異国の地で信仰を守り、唯一神ヤハウェへの信仰や律法を重んじる考えが強まり、ユダヤ教が形づくられた。アケメネス朝が新バビロニアを滅ぼすと、人々は故郷へ帰ることを許された。 年表で見る ›
- アケメネス朝あけめねすちょう紀元前550〜前330年
キュロス2世が開いたペルシア人の王朝。メディアや新バビロニアを征服し、ダレイオス1世のころにはエジプトからインダス川までを支配する大帝国となった。各地に知事を置き、「王の道」と呼ばれる道路や駅伝制を整えた。服属した民族の宗教や習慣を認める寛容な統治を行ったが、アレクサンドロス大王に滅ぼされた。 年表で見る ›
- ピタゴラスぴたごらす紀元前570年ごろ〜前495年ごろ
古代ギリシアの哲学者・数学者。南イタリアのクロトンに移り住み、弟子たちと宗教的な共同体をつくった。万物の根源は「数」であると考え、音の高さと弦の長さの比の関係などを研究した。直角三角形の辺の関係を示す「三平方の定理」に名を残すが、本人の業績と教団の業績の区別は難しい。後の哲学や数学に大きな影響を与えた。 年表で見る ›
- クレイステネスくれいすてねす紀元前6世紀後半
古代アテナイの政治家。紀元前508年ごろ、血縁にもとづく古い部族を廃止し、住む地域を単位とする10部族に市民を分け直す改革を行った。五百人評議会を設け、独裁者になりそうな人物を投票で国外に追放する陶片追放も始めたとされる。貴族の力を弱めて市民の政治参加を広げ、アテナイ民主政の基礎を築いた。 年表で見る ›
- 護民官ごみんかん紀元前494年
共和政ローマで、平民(プレブス)の権利を守るために置かれた役職。貴族が政治を独占することに反発した平民が、町の外の聖山に立てこもって抗議したことをきっかけに設けられた。護民官は平民会で選ばれ、政務官や元老院の決定に拒否権を持った。身分闘争の大きな成果で、のちの平民の地位向上につながった。 年表で見る ›
- ペルシア戦争ぺるしあせんそう紀元前500〜前449年
アケメネス朝ペルシアとギリシアのポリスとの戦争。ペルシアに支配されていたイオニア地方のギリシア人の反乱をアテナイが助けたことがきっかけで、ペルシアは何度もギリシアに遠征した。ギリシア側はマラトンの戦いやサラミスの海戦で勝利した。勝利の後、アテナイは海上の強国となり、民主政も最盛期を迎えた。 年表で見る ›
- マラトンの戦いまらとんのたたかい紀元前490年
ペルシア戦争の中で、ギリシア本土に上陸したペルシア軍をアテナイ軍がマラトンの平野で破った戦い。数で劣るアテナイの重装歩兵が密集隊形で戦い、勝利を収めた。勝利の知らせを伝えるために兵士が走ったという言い伝えが、陸上競技のマラソンの由来となった。この勝利でギリシア側の士気は大きく高まった。 年表で見る ›
- サラミスの海戦さらみすのかいせん紀元前480年
ペルシア戦争で、アテナイを中心とするギリシア艦隊がペルシア艦隊を破った海戦。指導者テミストクレスの作戦で、大艦隊を狭いサラミス水道に誘い込み、動きを封じて大勝した。この勝利でペルシアのギリシア征服は挫折した。軍船の漕ぎ手として活躍した無産市民の発言力が高まり、アテナイ民主政の発展につながった。 年表で見る ›
- デロス同盟でろすどうめい紀元前478〜前404年
ペルシアの再来に備えて、アテナイを盟主に結ばれたギリシアのポリスの軍事同盟。加盟国は軍船や資金を出し合い、共同の金庫はデロス島に置かれた。しかしアテナイは金庫を自国に移し、資金をパルテノン神殿の建設などにも使ったため、同盟は事実上アテナイの支配の道具となった。スパルタとの対立を深め、ペロポネソス戦争を招いた。 年表で見る ›
- パルテノン神殿ぱるてのんしんでん紀元前447〜前432年
アテナイのアクロポリスの丘に建てられた、女神アテナをまつる神殿。ペルシア戦争の勝利の後、政治家ペリクレスの指導のもとで建設され、デロス同盟の資金も使われた。ドーリア式の柱が並ぶ均整のとれた姿で、彫刻家フェイディアスが装飾を監督した。古代ギリシア建築の最高傑作とされ、世界遺産となっている。 年表で見る ›
- ペロポネソス戦争ぺろぽねそすせんそう紀元前431〜前404年
アテナイ中心のデロス同盟と、スパルタ中心のペロポネソス同盟との間の戦争。アテナイの勢力拡大にスパルタが反発して始まった。アテナイでは疫病の流行で指導者ペリクレスが亡くなり、政治が混乱した。最後はペルシアの援助を受けたスパルタが勝利した。長い戦争でギリシア全体が疲れ、ポリス社会は衰退に向かった。 年表で見る ›
- ソクラテスそくらてす紀元前469年ごろ〜前399年
古代アテナイの哲学者。人々と問答を重ねて、相手が本当は分かっていないことに気づかせる方法で真理を探り、「無知の知」を説いた。正しく生きることや魂を大切にすることを重んじた。しかし若者を惑わせたなどとして訴えられ、死刑判決を受けて毒を飲んで亡くなった。著作は残さず、思想は弟子プラトンの書物で伝えられた。 年表で見る ›
- アカデメイアあかでめいあ紀元前387年ごろ
哲学者プラトンがアテナイの郊外に開いた学園。哲学だけでなく数学や天文学なども研究され、アリストテレスも約20年間ここで学んだ。プラトンは師ソクラテスの教えを受け継ぎ、物事の本当の姿である「イデア」を説いた。学園は長く続き、529年に東ローマ皇帝ユスティニアヌスが閉鎖したとされる。英語のアカデミーの語源となった。 年表で見る ›
- リキニウス・セクスティウス法りきにうすせくすてぃうすほう紀元前367年
共和政ローマで、護民官リキニウスとセクスティウスが提案して成立した法。最高の官職である2人のコンスル(執政官)のうち、1人を平民から選ぶことを定めた。また、有力者が公有地を大量に占有することを制限した。貴族と平民の身分闘争の中で平民の政治参加を大きく進めたもので、のちのホルテンシウス法につながった。 年表で見る ›
- 秦の孝公しんのこうこう紀元前381〜前338年
中国の戦国時代の秦の君主。法家の商鞅を登用して変法と呼ばれる大改革を行った。戸籍を整えて住民に連帯責任を負わせ、戦場での手柄に応じて爵位を与え、農業を奨励した。都を咸陽に移し、郡県制も進めた。厳しい法による統治で秦は強国となり、およそ100年後に始皇帝が中国を統一する土台が築かれた。 年表で見る ›
関連劉邦
- アリストテレスありすとてれす紀元前384〜前322年
古代ギリシアの哲学者。プラトンのアカデメイアで学び、のちにマケドニアの王子アレクサンドロスの家庭教師を務めた。アテナイにリュケイオンという学園を開き、論理学、政治学、生物学、自然学など幅広い分野を体系的に研究した。その学問は「万学の祖」と呼ばれ、イスラーム世界や中世ヨーロッパの学問に長く大きな影響を与えた。 年表で見る ›
- イッソスの戦いいっそすのたたかい紀元前333年
マケドニアのアレクサンドロス大王が、小アジア南東部のイッソスでアケメネス朝の王ダレイオス3世の大軍を破った戦い。ダレイオス3世は戦場から逃れ、母や妻子が捕らえられた。この勝利で大王はシリアやエジプトへ進むことができた。東方遠征の大きな転換点となり、ペルシア帝国の崩壊を早めた。 年表で見る ›
- ガウガメラの戦いがうがめらのたたかい紀元前331年
アレクサンドロス大王が、メソポタミア北部のガウガメラでダレイオス3世のペルシア軍と再び戦い、決定的な勝利を収めた戦い。ペルシア軍は数で勝っていたが、大王の騎兵の突撃によって崩れた。この敗北でアケメネス朝は事実上滅んだ。大王の帝国はインダス川流域まで広がり、ギリシアとオリエントの文化が融合するヘレニズム時代が始まった。 年表で見る ›
- マウリヤ朝まうりやちょう紀元前317年ごろ〜前180年ごろ
チャンドラグプタがナンダ朝を倒して開いた、インド最初の統一王朝。アレクサンドロス大王の撤退後の北インドをまとめた。第3代のアショーカ王の時代に最盛期を迎え、南端を除くインドの大部分を支配した。アショーカ王は戦争の悲惨さを悔いて仏教を厚く保護し、各地に詔を刻んだ石柱を建てた。仏教がアジアに広まるきっかけとなった。 年表で見る ›
- ホルテンシウス法ほるてんしうすほう紀元前287年
共和政ローマで、独裁官ホルテンシウスのもとで成立した法。平民会で決めたことが、元老院の承認がなくても、貴族を含むローマ市民全体を拘束する国法となることを定めた。これにより貴族と平民の法的な平等がほぼ実現し、約200年続いた身分闘争は終わった。ただし実際の政治は、新たな有力者層が元老院を通じて動かした。 年表で見る ›
- 第一次ポエニ戦争だいいちじぽえにせんそう紀元前264〜前241年
地中海の覇権をめぐる、ローマとカルタゴのポエニ戦争の最初の戦い。シチリア島をめぐる争いから始まった。陸軍国だったローマは艦隊を急いで整え、海上でもカルタゴに勝利した。勝ったローマはシチリアを初めての海外領土である属州とした。ローマが地中海全体に勢力を広げていく出発点となった。 年表で見る ›
- パルティア王国ぱるてぃあおうこく紀元前247年ごろ〜224年
イラン系の遊牧民の首長アルサケスが、セレウコス朝から独立して建てた王国。中国では「安息」と呼ばれた。イラン高原からメソポタミアまでを支配し、東西を結ぶシルクロードの中継貿易で栄えた。西方のローマとはたびたび戦い、互角に渡り合った。224年、ササン朝ペルシアに滅ぼされた。 年表で見る ›
- ザマの戦いざまのたたかい紀元前202年
第二次ポエニ戦争の最後の戦い。カルタゴの名将ハンニバルはイタリアに攻め込みローマを苦しめたが、ローマのスキピオが逆に北アフリカのカルタゴ本国を攻めたため、呼び戻された。北アフリカのザマでスキピオがハンニバルを破った。カルタゴは海外領土と艦隊の大半を失い、ローマが西地中海の覇権を握った。 年表で見る ›
- 劉邦りゅうほう紀元前256年ごろ〜前195年
前漢の初代皇帝(高祖)。農民の出身で、秦の末期の反乱の中で頭角を現した。秦が滅んだのち、楚の項羽と天下を争い、紀元前202年の垓下の戦いで項羽を破って皇帝となった。都を長安に置き、郡県制と封建制を組み合わせた郡国制をとった。秦の厳しい法を改め、約400年続く漢王朝の基礎を築いた。 年表で見る ›
- ロゼッタ・ストーンろぜったすとーん紀元前196年
エジプトのプトレマイオス朝の時代に作られた石碑。同じ内容の文章が、神聖文字(ヒエログリフ)、民用文字(デモティック)、ギリシア文字の3種類で刻まれている。1799年にナポレオンのエジプト遠征の際に発見された。フランスのシャンポリオンがこれを手がかりに神聖文字を解読し、古代エジプト研究が大きく進んだ。 年表で見る ›
- 衛氏朝鮮えいしちょうせん紀元前194年ごろ〜前108年
中国の燕から亡命してきた衛満が、朝鮮半島北部で建てた国。それまでの王を追い出して王となり、都を王険城(現在の平壌付近)に置いた。周りの小国を従えて中継貿易で栄えたが、漢との関係が悪化した。紀元前108年、前漢の武帝に滅ぼされ、その地には楽浪郡などの4つの郡が置かれた。 年表で見る ›
- 呉楚七国の乱ごそしちこくのらん紀元前154年
前漢で、呉や楚など7つの諸侯の王国が起こした反乱。皇帝の景帝が、王国の領地を削って中央の力を強めようとしたことに反発して挙兵した。反乱は約3か月で鎮圧された。その後、諸侯の権限は大きく削られ、郡国制は実質的に郡県制に近い形となった。皇帝による中央集権が強まり、次の武帝の時代の繁栄につながった。 年表で見る ›
- カルタゴかるたご紀元前9世紀ごろ〜前146年
フェニキア人が北アフリカ(現在のチュニジア)に建てた都市国家。地中海の交易で栄えて西地中海の強国となったが、ローマと3度のポエニ戦争を戦った。紀元前146年、第三次ポエニ戦争でローマに攻め落とされて滅び、その地は属州アフリカとなった。この勝利でローマは地中海世界の覇者となった。 年表で見る ›
- センプロニウス農地法せんぷろにうすのうちほう紀元前133年
共和政ローマで、護民官ティベリウス・グラックスが提案した土地改革の法。征服戦争の中で富裕者が大農場を広げ、土地を失った農民が増えていた。この法は公有地の占有を制限し、余った土地を貧しい市民に分け与えようとした。元老院の有力者は強く反発し、ティベリウスは殺害された。ローマが内乱の時代に入るきっかけとなった。 年表で見る ›
- 塩鉄専売えんてつせんばい紀元前119年ごろ
前漢の武帝が始めた、塩と鉄の生産・販売を国が独占する制度。匈奴との戦いや領土の拡大で国の財政が苦しくなったため、生活に欠かせない塩と鉄から利益を得ようとした。物価を調整する均輸・平準法なども行われた。財政は立て直されたが、商人や民衆の負担は重くなった。後の中国王朝でも専売制は財源として受け継がれた。 年表で見る ›
- 司馬遷しばせん紀元前145年ごろ〜前86年ごろ
前漢の歴史家。武帝の時代、匈奴に降伏した将軍をかばったことで皇帝の怒りを買い、重い刑罰を受けた。それでも父から受け継いだ歴史書の完成に力を尽くし、『史記』を書き上げた。『史記』は伝説の時代から武帝までを、皇帝や人物ごとの伝記を中心にまとめた紀伝体で記した。この形式は後の中国の正史の手本となった。 年表で見る ›
- 第三次奴隷戦争だいさんじどれいせんそう紀元前73〜前71年
共和政ローマで、剣闘士スパルタクスが指導した奴隷の大反乱。カプアの剣闘士養成所から脱走した仲間に各地の奴隷や貧しい人々が加わり、勢力は数万人に及んだ。ローマ軍を何度も破ったが、最後はクラッススの軍に鎮圧された。この反乱を鎮めたクラッススやポンペイウスが力を伸ばし、共和政の危機が深まった。 年表で見る ›
- ガリア戦争がりあせんそう紀元前58〜前51年
ローマの将軍カエサルが、ガリア(現在のフランスやベルギーなど)を征服した戦争。ケルト系の諸部族と戦い、最後は指導者ウェルキンゲトリクスの大反乱を鎮めた。カエサル自身がこの戦争の記録『ガリア戦記』を書いた。戦争で名声と忠実な軍隊を手にしたカエサルは、ローマの政治で権力を握り、独裁へ進んだ。 年表で見る ›
- オクタウィアヌスおくたうぃあぬす紀元前63〜後14年
ローマの初代皇帝。カエサルの養子で、カエサルの暗殺後、アントニウスらと第2回三頭政治を行った。その後アクティウムの海戦でアントニウスとクレオパトラを破り、内乱を終わらせた。元老院から「アウグストゥス(尊厳者)」の称号を受け、共和政の形を残しつつ実権を握る元首政を始めた。約200年続く「ローマの平和」の時代が始まった。 年表で見る ›
- 第2回三頭政治だいにかいさんとうせいじ紀元前43〜前33年
カエサルの暗殺後、オクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスの3人が結んだ協定による政治。法にもとづいて国家再建の全権を委ねられ、敵対する者を処罰し、カエサル暗殺者の軍を破った。しかしレピドゥスは失脚し、オクタウィアヌスとアントニウスの対立が深まった。その争いはアクティウムの海戦で決着した。 年表で見る ›
- アクティウムの海戦あくてぃうむのかいせん紀元前31年
ギリシア西岸のアクティウム沖で、オクタウィアヌスの艦隊が、アントニウスとエジプトの女王クレオパトラの連合艦隊を破った海戦。敗れた2人はエジプトへ逃れ、翌年に自ら命を絶った。プトレマイオス朝は滅び、エジプトはローマの領土となった。ローマの長い内乱が終わり、帝政が始まる転機となった。 年表で見る ›
- 王莽おうもう紀元前45〜後23年
前漢の外戚出身の政治家。儒学を重んじる姿勢で人望を集め、幼い皇帝を補佐して実権を握った。8年に皇帝の位を奪い、新という王朝を建てた。周の時代を理想として土地制度や貨幣制度の改革を行ったが、現実に合わず社会は混乱した。赤眉の乱などの反乱が広がる中で殺され、新は1代で滅んだ。 年表で見る ›
- 赤眉の乱せきびのらん18〜27年
王莽の新の時代に起きた農民の大反乱。飢饉や王莽の改革による混乱に苦しんだ農民たちが、山東地方で立ち上がった。反乱軍は眉を赤く染めて仲間の目印としたことから、赤眉と呼ばれた。反乱は各地に広がって新を滅ぼす原動力となった。最後は漢の一族の劉秀(光武帝)に降伏し、後漢が成立した。 年表で見る ›
- 後漢ごかん25〜220年
漢の一族の劉秀(光武帝)が、新の滅亡後に再建した王朝。都を洛陽に置いた。西域の国々との交流が進み、シルクロードを通じて絹などが運ばれ、ローマの使者も来たと記録されている。紙の製法も改良された。しかし後半には外戚や宦官が争って政治が乱れ、黄巾の乱をきっかけに群雄が割拠し、魏・呉・蜀の三国時代へ移った。 年表で見る ›
- イエスいえす紀元前4年ごろ〜後30年ごろ
キリスト教の始祖。ローマ支配下のパレスチナでユダヤ教の形式的な律法主義を批判し、神の愛と隣人愛を説いた。貧しい人々の支持を集めたが、ユダヤ教の指導者に反逆者として訴えられ、ローマ総督により十字架刑に処された。弟子たちはイエスが復活したと信じ、その教えを各地に広めた。これがキリスト教の始まりである。 年表で見る ›
- キリスト教迫害きりすときょうはくがい64年〜4世紀初め
ローマ帝国で、キリスト教徒が罰せられた出来事。64年のローマの大火の責任をキリスト教徒に負わせたネロ帝のものが最初とされる。キリスト教徒は皇帝を神として拝むことを拒んだため、国家への反逆とみなされた。3世紀末のディオクレティアヌス帝の時代が最も大規模だった。それでも信者は増え続け、313年のミラノ勅令で公認された。 年表で見る ›
- 黄巾の乱こうきんのらん184年
後漢の末期に起きた大規模な農民反乱。宗教団体の太平道を率いた張角が、重い税や政治の乱れに苦しむ農民を集めて起こした。参加者は黄色い頭巾を目印としていた。反乱そのものはまもなく鎮圧されたが、討伐で力を持った地方の豪族や武将が独立し、後漢は実権を失った。曹操らが争う三国時代へのきっかけとなった。 年表で見る ›
- 曹操そうそう155〜220年
後漢末の武将・政治家。黄巾の乱の鎮圧で頭角を現し、後漢の皇帝を保護して華北を統一した。208年の赤壁の戦いで孫権・劉備の連合軍に敗れ、天下統一はならなかった。土地を失った農民に耕作させる屯田制で国力を高めた。子の曹丕が皇帝の位を譲り受けて魏を建て、呉・蜀と並ぶ三国時代が始まった。詩人としても名高い。 年表で見る ›
- アントニヌス勅令あんとにぬすちょくれい212年
ローマ皇帝カラカラが出した、帝国内のほぼすべての自由民にローマ市民権を与えるという勅令。それまで市民権はローマ市民や一部の属州の人々に限られていた。相続税などの税を納める人を増やす目的もあったとされる。属州の人々とローマ市民の区別がなくなり、ローマは都市国家から多民族の世界帝国へと変わった。 年表で見る ›
- 五胡十六国ごこじゅうろっこく304〜439年
西晋の末期に、匈奴や鮮卑などの北方・西方の諸民族(五胡)が華北に移り住み、多くの国を建てて争った時代。この間に興亡した主な国が16あったことから、この名がある。戦乱を避けて多くの漢民族が江南へ移り、南の開発が進んだ。華北は鮮卑の北魏によって統一され、南北朝時代へ移った。 年表で見る ›
- ミラノ勅令みらのちょくれい313年
ローマ皇帝コンスタンティヌスとリキニウスが出した、キリスト教を含むすべての信仰の自由を認める勅令。長く迫害されてきたキリスト教が公認され、没収された教会の財産も返された。皇帝は帝国をまとめる力としてキリスト教を利用しようとした。その後キリスト教は392年に国教となり、ヨーロッパ文化の柱となった。 年表で見る ›
- グプタ朝ぐぷたちょう320年ごろ〜550年ごろ
チャンドラグプタ1世が開いた北インドの王朝。チャンドラグプタ2世のころに最も栄えた。バラモン教に民間の信仰が結びついたヒンドゥー教が広まり、サンスクリット語の文学や、数字のゼロの概念などの数学・天文学が発達した。仏教美術も純インド的な様式に発展した。遊牧民エフタルの侵入などで衰えた。 年表で見る ›
関連マウリヤ朝
- ゲルマン人の大移動げるまんじんのだいいどう375〜568年
ゲルマン人の諸部族がローマ帝国の領内へ大規模に移り住んだ出来事。アジア系のフン人が西へ進み、圧迫された西ゴート人がドナウ川を越えたことが始まりとされる。人口の増加や耕地の不足も背景にあった。移動したゲルマン人は各地に王国を建て、476年に西ローマ帝国は滅亡した。ヨーロッパ中世の始まりとなった。 年表で見る ›
- アドリアノープルの戦いあどりあのーぷるのたたかい378年
東ローマ皇帝ウァレンスの軍が、帝国内に移住した西ゴート人の反乱軍と戦い、大敗した戦い。皇帝自身も戦死した。西ゴート人は移住を許されたものの役人の不正などに苦しみ、反乱を起こしていた。ローマ軍がゲルマン人に大敗したことで帝国の弱体化が明らかになり、その後のゲルマン人の大移動を加速させた。 年表で見る ›
- 北魏ほくぎ386〜534年
鮮卑の拓跋氏が華北に建てた王朝。439年に華北を統一し、五胡十六国の時代を終わらせ、南朝と対立する南北朝時代を迎えた。均田制で農民に土地を分け与えて税を確保し、孝文帝のときには都を洛陽に移して漢化政策を進めた。仏教を厚く保護し、雲崗や竜門の石窟寺院を造った。その後東西に分裂した。 年表で見る ›
- 鳩摩羅什くまらじゅう344〜413年ごろ
西域の亀茲国出身の僧。インドの仏教を深く学び、のちに中国の後秦に迎えられて長安で仏典の翻訳にあたった。『法華経』や『阿弥陀経』など約300巻の経典を、分かりやすく正確な漢文に訳した。彼の訳は日本を含む東アジアで広く読まれ、中国の仏教が大きく発展する基礎となった。 年表で見る ›
世界史:中世 500〜1450年ごろ
- 西ローマ帝国にしろーまていこく395〜476年
395年、テオドシウス帝の死後にローマ帝国が東西に分かれて成立した西側の国家。ゲルマン人の大移動で領土の多くを奪われ、皇帝の力は衰えた。476年、ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルが皇帝を退位させ、西ローマ帝国は滅亡した。以後、西ヨーロッパではゲルマン人の王国が分立し、中世が始まった。東ローマ帝国はその後も続いた。 年表で見る ›
- ユスティニアヌスゆすてぃにあぬす483〜565年
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の皇帝(在位527〜565年)。将軍ベリサリウスらを送って北アフリカやイタリアを取り戻し、地中海をほぼ再びローマの海とした。法学者に命じて古代以来のローマ法をまとめた『ローマ法大全』を編纂させ、聖ソフィア大聖堂を再建した。だが度重なる戦争と建設で財政は苦しくなった。 年表で見る ›
- 科挙かきょ587年ごろ〜1905年
中国の隋の文帝が始めた、試験によって官吏を選ぶ制度。それまでの家柄にもとづく推薦制度に代わり、学問の実力で人材を登用しようとした。宋の時代には皇帝自らが試験を行う殿試が加わって整った。儒学の知識が問われ、学者でもある官僚が社会を指導するようになった。約1300年続き、清の末期の1905年に廃止された。 年表で見る ›
関連遣隋使
- ウマイヤ朝うまいやちょう661〜750年
シリアの総督ムアーウィヤがカリフとなって開いたイスラーム王朝。都はダマスクス。カリフの地位をウマイヤ家が世襲した。領土を大きく広げ、西は北アフリカからイベリア半島、東は中央アジアやインダス川流域に及んだ。しかしアラブ人を優遇したため、非アラブ人のイスラーム教徒の不満が高まり、アッバース朝に倒された。 年表で見る ›
- 新羅しらぎ4世紀ごろ〜935年
朝鮮半島南東部に興った国。唐と結んで660年に百済、668年に高句麗を滅ぼし、その後唐の勢力を追い出して、676年に朝鮮半島の大部分を統一した。都は金城(現在の慶州)。唐の制度を取り入れ、仏教文化が栄えて仏国寺などが建てられた。日本とも使節を交わした。10世紀に衰え、高麗に滅ぼされた。 年表で見る ›
- トゥール・ポワティエ間の戦いとぅーるぽわてぃえかんのたたかい732年
フランク王国の宮宰カール・マルテルが、イベリア半島から北上してきたウマイヤ朝のイスラーム軍を、フランス中西部のトゥールとポワティエの間で破った戦い。これによりイスラーム勢力の西ヨーロッパへの進出は止まった。勝利したカール・マルテルの家系は力を強め、のちにその子ピピンがカロリング朝を開いた。 年表で見る ›
- アッバース朝あっばーすちょう750〜1258年
ウマイヤ朝を倒して開かれたイスラーム王朝。アラブ人の特権をなくし、イスラーム教徒であれば民族を問わず平等に扱った。新しい都バグダードは人口100万人ともいわれる大都市となり、東西交易と学問の中心として栄えた。ギリシアの哲学や科学がアラビア語に翻訳された。のちに各地の王朝が自立し、1258年モンゴル軍に滅ぼされた。 年表で見る ›
- タラス河畔の戦いたらすかはんのたたかい751年
中央アジアのタラス河畔で、唐の軍がアッバース朝の軍に敗れた戦い。中央アジアの支配をめぐる争いだった。この敗北で唐の西方への進出は止まり、中央アジアのイスラーム化が進んだ。このとき捕虜となった唐の兵士の中に紙すき職人がいて、製紙法がイスラーム世界に伝わったという話が伝えられている。 年表で見る ›
- 安史の乱あんしのらん755〜763年
唐で、節度使の安禄山とその部下の史思明が起こした大反乱。玄宗が楊貴妃を寵愛し、その一族の楊国忠が権力を握ったことへの反発が背景にあった。反乱軍は洛陽と長安を占領し、玄宗は四川へ逃れた。ウイグルの援軍も得て鎮圧されたが、各地の節度使が自立するようになり、唐は衰えに向かった。 年表で見る ›
- ヴェルダン条約ゔぇるだんじょうやく843年
フランク王国のカール大帝の孫3人が、王国を東フランク、中部フランク、西フランクに分けて相続した条約。その後のメルセン条約で中部フランクの北半分が東西に分けられた。東フランクはのちのドイツ、西フランクはフランス、残った南部はイタリアの原型となった。現在の西ヨーロッパの国々の枠組みのもとになった。 年表で見る ›
- 黄巣の乱こうそうのらん875〜884年
唐の末期に起きた大規模な農民反乱。塩の密売人だった王仙芝と黄巣が、重い税や塩の専売に苦しむ農民を集めて挙兵した。反乱軍は中国各地を移動して勢力を広げ、一時は都の長安を占領した。最後は鎮圧されたが、唐の支配は事実上崩れ、907年に節度使の朱全忠によって唐は滅ぼされた。 年表で見る ›
- ノルマン人のるまんじん8〜12世紀
スカンディナヴィアやデンマークを故郷とする北方ゲルマン人。ヴァイキングとも呼ばれる。8世紀末から船で海や川を渡り、ヨーロッパ各地で交易や略奪を行った。911年に首長ロロがフランスにノルマンディー公国を建て、のちにその子孫がイングランドを征服した。ロシアや南イタリアにも国を建て、各地の歴史に大きな影響を与えた。 年表で見る ›
- 高麗こうらい918〜1392年
王建が朝鮮半島に建てた王朝。都は開城。935年に新羅を、936年に後百済を滅ぼして半島を統一した。科挙を取り入れ、仏教を保護し、大蔵経の版木や高麗青磁などの文化が栄えた。13世紀にはモンゴルの侵入を受けて服属し、元とともに日本に攻めてきた。14世紀末、李成桂に倒されて朝鮮王朝に代わった。 年表で見る ›
- 神聖ローマ帝国しんせいろーまていこく962〜1806年
東フランク王国のオットー1世が、962年にローマ教皇から皇帝の冠を受けたことに始まる帝国。現在のドイツを中心に、オーストリアや北イタリアにまたがった。皇帝はローマ帝国とキリスト教の守り手を自任したが、国内の諸侯の力が強く、統一は弱かった。1806年、ナポレオンの圧迫を受けて解体した。 年表で見る ›
- 澶淵の盟せんえんのめい1004年
中国の北宋と、北方の遊牧民の国である遼(契丹)との間で結ばれた和平の約束。遼の大軍が南下し、両軍が澶州(澶淵)で向き合った末に結ばれた。宋が毎年、遼に絹や銀を贈る代わりに、両国が国境を守り兄弟の関係を結ぶとした。約100年にわたり平和が保たれたが、宋の財政の負担となった。 年表で見る ›
- 西夏せいか1038〜1227年
チベット系のタングート人の李元昊が中国北西部に建てた国。正式な国号は大夏。東西交易路の要所を押さえて栄え、漢字をもとにした独自の西夏文字を作った。宋とはたびたび戦い、和平後は宋から毎年銀や絹を受け取った。仏教も盛んだった。1227年、チンギス・ハンの率いるモンゴル軍に滅ぼされた。 年表で見る ›
- 東西教会の分裂とうざいきょうかいのぶんれつ1054年
キリスト教会が、ローマ教皇を首長とする西のローマ・カトリック教会と、コンスタンティノープル総主教を中心とする東のギリシア正教会に分かれた出来事。聖像崇拝をめぐる対立や、教皇の首位権の問題などで両者は長く対立していた。1054年に互いを破門し、分裂が決定的になった。この分裂は現在まで続いている。 年表で見る ›
- セルジューク朝せるじゅーくちょう1038〜1194年
トルコ系の遊牧民が建てたイスラーム王朝。1055年、指導者トゥグリル・ベクがバグダードに入り、アッバース朝のカリフからスルタンの称号を受け、政治の実権を握った。その後、小アジアに進出して東ローマ帝国(ビザンツ帝国)を圧迫した。東ローマ皇帝が西ヨーロッパに助けを求めたことが、十字軍のきっかけとなった。 年表で見る ›
- 十字軍じゅうじぐん1096〜1270年
西ヨーロッパのキリスト教徒が、聖地エルサレムをイスラーム教徒から取り戻すために行った遠征。セルジューク朝に圧迫されたビザンツ皇帝の救援要請を受け、教皇ウルバヌス2世が呼びかけた。第1回でエルサレムを占領したが、その後は失敗が続いた。教皇の権威は低下したが、東方との交易が盛んになり、都市や商業が発展した。 年表で見る ›
- アンコール・ワットあんこーるわっと12世紀前半
カンボジアのクメール王国(アンコール朝)の王スーリヤヴァルマン2世が建てた寺院。もとはヒンドゥー教のヴィシュヌ神をまつる寺院で、のちに仏教寺院となった。中央の高い塔の周りを回廊と堀が囲む壮大な建築で、壁にはインドの神話を描いた浮き彫りが刻まれている。東南アジアを代表する遺跡で、世界遺産となっている。 年表で見る ›
- 南宋なんそう1127〜1279年
北宋が女真族の金に都の開封を奪われて滅びた後、皇帝の弟の高宗が江南で再建した宋王朝。都は臨安(現在の杭州)。金とは淮河を国境として和平を結んだ。江南の開発で農業や商業、海外貿易が栄え、朱子学も生まれた。日本とも日宋貿易を通じて交流した。1279年、フビライの元に滅ぼされた。 年表で見る ›
- チンギス・ハンちんぎすはん1162年ごろ〜1227年
モンゴル帝国の創始者。本名はテムジン。モンゴル高原の部族を一つにまとめ、1206年の集会(クリルタイ)でハン(君主)に推された。遊牧民を千人隊に組織した強力な騎馬軍団で、中央アジアのホラズム・シャー朝などを征服した。西夏を攻めている最中に亡くなった。子孫がユーラシアの大部分を支配する大帝国の基礎を築いた。 年表で見る ›
- モンゴル帝国もんごるていこく1206〜1388年
チンギス・ハンが建て、その子孫が広げた遊牧民の帝国。西はロシアや東ヨーロッパ、西アジアから東は中国まで、ユーラシアの大部分を支配した。帝国はやがていくつかのハン国に分かれ、中国はフビライの元が治めた。各地を結ぶ駅伝制が整い、東西の交易や文化の交流が活発になった。14世紀に各地で勢力を失った。 年表で見る ›
- マグナ・カルタまぐなかるた1215年
イングランドのジョン王が、貴族たちの求めに応じて認めた文書。大憲章ともいう。ジョン王はフランスとの戦いに敗れて領地を失い、重い税を課したため、貴族が反発した。マグナ・カルタは、新しい税を課すには貴族らの同意が必要で、法によらずに人を逮捕しないことなどを定めた。王も法に従うという考えのもととなった。 年表で見る ›
関連百年戦争
- フビライふびらい1215〜1294年
モンゴル帝国の第5代皇帝で、元の初代皇帝。チンギス・ハンの孫。都を大都(現在の北京)に移し、1271年に国号を中国風に「元」と改めた。1279年に南宋を滅ぼして中国全土を支配した。日本にも服属を求めたが拒まれ、2度にわたって軍を送った(元寇)。大運河を整え、海と陸の交易網を発達させた。 年表で見る ›
- ボニファティウス8世ぼにふぁてぃうすはっせい1235年ごろ〜1303年
中世のローマ教皇(在位1294〜1303年)。教皇の権威は皇帝や国王より上であると主張し、聖職者への課税をめぐってフランス王フィリップ4世と対立した。1303年、イタリアのアナーニで国王側に捕らえられ、まもなく亡くなった(アナーニ事件)。この事件は教皇権の衰えを示し、その後のアヴィニョン捕囚につながった。 年表で見る ›
- アヴィニョン捕囚あゔぃにょんほしゅう1309〜1377年
ローマ教皇庁が南フランスのアヴィニョンに移され、約70年にわたってフランス王の強い影響下に置かれた出来事。古代のバビロン捕囚になぞらえてこう呼ばれる。教皇がローマに戻った後、ローマとアヴィニョンに別々の教皇が立つ教会大分裂が起き、教皇の権威は大きく低下した。王権の強まりを示す出来事でもある。 年表で見る ›
- 百年戦争ひゃくねんせんそう1337〜1453年
イングランドとフランスの間で断続的に続いた戦争。フランスの王位継承問題や、毛織物の産地フランドル地方をめぐる対立が原因だった。初めはイングランドが優勢だったが、ジャンヌ・ダルクの活躍などでフランスが巻き返し、イングランドは大陸の領地をほとんど失った。戦争を通じて諸侯や騎士が衰え、両国で王権が強まった。 年表で見る ›
- 黒死病こくしびょう1347〜1351年ごろ
14世紀半ばにヨーロッパで大流行したペストのこと。感染すると皮膚が黒ずむことからこう呼ばれた。中央アジアから黒海を経て広がり、数年でヨーロッパ全体に及んだ。人口の約3分の1が亡くなったとされる。働き手が減って農民の地位が上がり、領主の支配が揺らいだ。中世ヨーロッパの社会が大きく変わるきっかけとなった。 年表で見る ›
関連百年戦争
- 紅巾の乱こうきんのらん1351〜1366年
元の末期に起きた大規模な農民反乱。弥勒菩薩が現れて人々を救うと説く白蓮教の信者が中心となり、紅い頭巾を目印にしたことからこう呼ばれた。黄河の治水工事への動員や、天災、紙幣の乱発による物価の高騰が背景にあった。反乱の中から朱元璋が頭角を現し、元をモンゴル高原に追いやって明を建てた。 年表で見る ›
- 朱元璋しゅげんしょう1328〜1398年
明の初代皇帝(洪武帝)。貧しい農民の出身で、紅巾の乱に加わって頭角を現した。1368年に南京で皇帝となって明を建て、元をモンゴル高原へ追った。皇帝の独裁を強め、民衆を組織して税を集める里甲制を整え、儒教の教えを広めた。民間の海外貿易を禁じる海禁政策をとった。功臣を多く処罰したことでも知られる。 年表で見る ›
- 永楽帝えいらくてい1360〜1424年
明の第3代皇帝。朱元璋の子で、北京を拠点とした燕王だった。甥の建文帝から皇位を奪い(靖難の変)、1402年に即位した。都を北京に移し、紫禁城を造った。モンゴルに自ら遠征し、鄭和に大艦隊を率いさせて南海に派遣するなど、積極的な対外政策をとった。日本の足利義満とも国交を結び、勘合貿易が始まった。 年表で見る ›
- 鄭和ていわ1371〜1434年ごろ
明の武将。イスラーム教徒の家に生まれ、宦官として永楽帝に仕えた。1405年から7回にわたり、大艦隊を率いて東南アジアやインド洋に航海し、一部はアラビア半島やアフリカ東岸にまで達した。各地の国々に明への朝貢をうながし、明の力を示した。この航海で東南アジアと中国の交流が深まり、多くの中国人が移住した。 年表で見る ›
- コンスタンツ公会議こんすたんつこうかいぎ1414〜1418年
神聖ローマ皇帝の呼びかけで、ドイツ南部のコンスタンツで開かれたキリスト教会の会議。ローマなど各地に教皇が並び立っていた教会大分裂を解決し、新しい教皇を1人選んで分裂を終わらせた。一方、教会を批判したボヘミアのフスを異端として火刑とし、のちにフス戦争を招いた。教皇の権威の低下を示す会議だった。 年表で見る ›
世界史:近世 1450〜1750年ごろ
- グーテンベルクぐーてんべるく1400年ごろ〜1468年
ドイツのマインツの金属加工職人で、活版印刷術を実用化した人物。1450年ごろ、金属の活字とぶどう搾り機を応用した印刷機、油性のインクを組み合わせ、本を速く大量に作る方法を確立した。代表作に『グーテンベルク聖書』がある。本が安く手に入るようになり、知識が広く伝わり、ルネサンスや宗教改革を後押しした。 年表で見る ›
関連九十五か条の論題
- オスマン帝国おすまんていこく1299年ごろ〜1922年
トルコ系のオスマン1世が小アジアに建てたイスラーム国家。1453年にメフメト2世がコンスタンティノープルを攻め落としてビザンツ帝国を滅ぼし、イスタンブールと改めて都とした。16世紀のスレイマン1世のころに最盛期を迎え、西アジア、北アフリカ、東ヨーロッパにまたがる大帝国となった。第一次世界大戦後に滅んだ。 年表で見る ›
- コロンブスころんぶす1451年ごろ〜1506年
イタリアのジェノヴァ出身の航海者。地球が丸いという考えにもとづき、大西洋を西へ進めばアジアに着けると考えた。スペインの女王イサベルの援助を受け、1492年にカリブ海のバハマ諸島に到達した。本人はそこをインドの一部と信じていた。この航海をきっかけにヨーロッパ人がアメリカ大陸に進出し、先住民の社会は大きく変わった。 年表で見る ›
- トルデシリャス条約とるでしりゃすじょうやく1494年
スペインとポルトガルが、新しく発見した土地の支配権を分け合うために結んだ条約。コロンブスの航海の後、両国の争いを避けるため、大西洋上に南北の境界線を引き、西側をスペイン、東側をポルトガルの勢力範囲とした。この結果、南アメリカのうちブラジルだけがポルトガル領となった。両国の海外進出の枠組みとなった。 年表で見る ›
- ヴァスコ・ダ・ガマゔぁすこだがま1460年ごろ〜1524年
ポルトガルの航海者。国王の命令で、アフリカ南端の喜望峰を回り、1498年にインド西岸のカリカットに到着し、ヨーロッパからインドへ海路で行く道を開いた。当時ヨーロッパで高値で取引されていた香辛料を、イスラーム商人を通さず直接手に入れられるようになった。ポルトガルはアジアとの海上貿易で栄えた。 年表で見る ›
- サファヴィー朝さふぁゔぃーちょう1501〜1736年
イスマーイール1世がイランに建てたイスラーム王朝。イスラーム教のシーア派を国の宗教としたため、スンナ派のオスマン帝国とは長く対立した。アッバース1世のときに最盛期を迎え、新しい都イスファハーンは壮麗なモスクや広場で飾られ、「世界の半分」とたたえられた。現在のイランがシーア派の国であることの起点となった。 年表で見る ›
関連オスマン帝国
- レオナルド・ダ・ヴィンチれおなるどだゔぃんち1452〜1519年
イタリアのルネサンスを代表する芸術家・科学者。画家として「最後の晩餐」や「モナ・リザ」を描き、遠近法や明暗のぼかしの技法を高めた。また、人体の解剖や飛行機械、建築、土木など幅広い分野を研究し、多くの手稿を残した。多方面に才能を発揮したことから、ルネサンスの「万能の人」の典型とされる。 年表で見る ›
関連ミケランジェロ
- ミケランジェロみけらんじぇろ1475〜1564年
イタリアのルネサンスを代表する彫刻家・画家・建築家。フィレンツェで大理石の「ダヴィデ像」を制作した。ローマ教皇の依頼で、1508年からシスティーナ礼拝堂の天井画を描き、のちに同じ礼拝堂の祭壇画「最後の審判」も描いた。サン・ピエトロ大聖堂の設計にも加わった。力強い人体表現で後の芸術に大きな影響を与えた。 年表で見る ›
- 九十五か条の論題きゅうじゅうごかじょうのろんだい1517年
ドイツの修道士で神学教授のルターが発表した、贖宥状(免罪符)の販売を批判する文書。ローマ教皇はサン・ピエトロ大聖堂の改築資金を集めるため、罪の罰が許されるという贖宥状を売り出していた。ルターは、人は信仰によってのみ救われると主張した。活版印刷で各地に広まり、宗教改革の始まりとなった。 年表で見る ›
- マゼランまぜらん1480年ごろ〜1521年
ポルトガル出身の航海者。スペイン王の援助を受け、1519年に艦隊を率いて西へ出航した。南アメリカ南端の海峡(マゼラン海峡)を通って太平洋を横断し、フィリピンに着いたが、現地の首長との戦いで亡くなった。残った部下が1522年にスペインに帰り、初めての世界周航を成し遂げた。地球が丸いことが実際に証明された。 年表で見る ›
- ムガル帝国むがるていこく1526〜1858年
バーブルが北インドに建てたイスラーム王朝。中央アジアから進出したバーブルがパーニーパットの戦いでロディー朝を破って成立し、アクバルの宗教的寛容策で支配を広げ、タージ・マハルに代表されるインド=イスラーム文化が栄えた。のちイギリスの進出で衰え、インド大反乱の後に滅んだ。 年表で見る ›
- インカ帝国いんかていこく15世紀〜1533年
南アメリカのアンデス山地に栄えた国。都クスコを中心に、太陽の子とされる皇帝が広い領域を治め、道路網や縄の結び目で記録するキープを用いた。1533年、スペインのピサロが皇帝を捕らえて処刑したことで征服され、アンデス地方はスペインの植民地となって、その銀が大量にヨーロッパへ運ばれた。 年表で見る ›
- イエズス会いえずすかい1534年
ロヨラやザビエルらが結成したカトリックの修道会で、1540年に教皇に認められた。宗教改革でプロテスタントが広がるなか、カトリック側の立て直しを目指し、教育と海外布教に力を入れてアジアや南アメリカに宣教師を送った。日本へのキリスト教伝来もこの会の活動によるもので、天正遣欧使節の派遣にも関わった。 年表で見る ›
- アウクスブルクの宗教和議あうくすぶるくのしゅうきょうわぎ1555年
神聖ローマ帝国で結ばれた、宗教対立をおさめるための取り決め。ルターの宗教改革以来争っていたカトリックとルター派について、各諸侯が領内の宗派をどちらかから選べることになった。ただし個人の信仰の自由は認められず、カルヴァン派も除外されたため、のちの三十年戦争の火種が残った。 年表で見る ›
- ユグノー戦争ゆぐのーせんそう1562〜1598年
フランスで起きた、カトリックとプロテスタント(ユグノー)との宗教戦争。カルヴァン派の広がりに貴族の勢力争いが結びつき、聖バルテルミの虐殺をはさんで30年以上も内乱が続いた。ユグノーだったアンリ4世が王位に就いてカトリックに改宗し、ナントの勅令で信仰の自由を認めたことで終結した。 年表で見る ›
- レパントの海戦れぱんとのかいせん1571年
スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊が、ギリシア西岸のレパント沖でオスマン帝国の艦隊を破った海戦。地中海に勢力を広げるオスマン帝国に対し、キリスト教国が手を結んで対抗した。オスマン帝国はすぐに艦隊を立て直したが、無敵とされたオスマン海軍の敗北はヨーロッパに大きな自信を与えた。 年表で見る ›
- 聖バルテルミの虐殺さんばるてるみのぎゃくさつ1572年
パリで起きた、カトリック勢力によるユグノー(プロテスタント)の大量殺害事件。ユグノーの指導者ナヴァル王アンリと王妹の結婚式に集まった人々が、8月24日の聖バルテルミの祝日に襲われ、被害は地方にも広がって数千人以上が殺されたとされる。この事件で宗教対立はさらに深まり、ユグノー戦争は長期化した。 年表で見る ›
- 無敵艦隊むてきかんたい1588年
スペイン王フェリペ2世がイングランド攻撃のために送った大艦隊(アルマダ)。イングランドがオランダの独立を支援し、スペイン船への海賊行為を認めていたことなどが背景にあったが、艦隊は海戦と嵐で多くの船を失い、遠征は失敗した。この後スペインの海上覇権は次第に揺らぎ、イングランドが海洋国家として力をつけた。 年表で見る ›
- ナントの勅令なんとのちょくれい1598年
フランス王アンリ4世が出した、ユグノー(プロテスタント)に信仰の自由を認めた法令。ユグノー戦争をおさめるため、カトリックを国の宗教としながらも、新教徒に一定の礼拝の自由や公職に就く権利を認め、内乱は終わった。しかし1685年にルイ14世が廃止したため、商工業を担っていた多くのユグノーが国外へ逃れた。 年表で見る ›
- イギリス東インド会社いぎりすひがしいんどがいしゃ1600〜1874年
エリザベス1世の特許状によって設立された、アジア貿易を独占する会社。香辛料や綿織物の貿易で利益をあげ、インド各地に拠点を築き、プラッシーの戦いの後はベンガル地方の徴税権を得るなど、商社から植民地を支配する組織へと変わった。インド大反乱の後、インド統治はイギリス政府に移され、会社は解散した。 年表で見る ›
- オランダ東インド会社おらんだひがしいんどがいしゃ1602〜1799年
オランダで複数の貿易会社を合併してつくられた、アジア貿易を担う会社。株式で資金を集める仕組みをもち、世界初の株式会社ともいわれる。ジャワ島のバタヴィア(現在のジャカルタ)を拠点に香辛料貿易を独占し、アンボイナ事件でイギリス勢力を排除したほか、日本とも長崎の出島で貿易を続けた。 年表で見る ›
- ガリレオ・ガリレイがりれおがりれい1564〜1642年
イタリアの天文学者・物理学者。自作の望遠鏡で月の凹凸や木星の4つの衛星を発見して地動説を支持し、振り子の等時性や落体の法則を実験で確かめて、観察と実験にもとづく近代科学の方法を切り開いた。しかし地動説は教会の教えに反するとして宗教裁判にかけられ、説を捨てることを誓わされた。 年表で見る ›
- 三十年戦争さんじゅうねんせんそう1618〜1648年
神聖ローマ帝国を主な舞台に起きた、ヨーロッパ最大規模の宗教戦争。ボヘミアの新教徒がハプスブルク家の支配に反抗したことがきっかけで、やがてデンマーク、スウェーデン、フランスなども参戦し、国家間の勢力争いとなった。ドイツの国土は荒れ果てて人口が大きく減り、ヴェストファーレン条約で終結した。 年表で見る ›
- ピルグリム・ファーザーズぴるぐりむふぁーざーず1620年
メイフラワー号で北アメリカに渡ったイギリスの清教徒(ピューリタン)を中心とする人々。イギリス国教会の圧迫を逃れて信仰の自由を求め、現在のマサチューセッツ州プリマスに上陸して植民地を築き、上陸前には自治を誓う「メイフラワー誓約」を結んだ。彼らは後のアメリカ建国の精神的な祖先とされている。 年表で見る ›
- メイフラワー号めいふらわーごう1620年
ピルグリム・ファーザーズら約100人を乗せて、イギリスから北アメリカへ渡った帆船。信仰の自由を求める清教徒らが乗り込み、約2か月の航海の末に現在のマサチューセッツ州に到着した。船内では自分たちで政治を行うことを誓うメイフラワー誓約が結ばれ、アメリカの自治と民主政治の原点の一つとされる。 年表で見る ›
- アンボイナあんぼいな1623年
モルッカ諸島のアンボイナ島で、オランダがイギリス商館の人々を殺害した事件(アンボイナ事件)。香辛料貿易の主導権をめぐって両国は争っており、オランダはイギリス側に陰謀の疑いをかけて処刑し、日本人の傭兵も巻き込まれた。この事件の後、イギリスは香辛料の産地から手を引き、インドの経営に力を注ぐようになった。 年表で見る ›
- ピューリタン革命ぴゅーりたんかくめい1642〜1649年
イングランドで国王と議会の対立から起きた内戦と革命で、清教徒革命ともいう。国王チャールズ1世が議会を無視して課税や宗教政策を進めたため、クロムウェルの率いる議会派が王党派を破り、1649年に国王を処刑して共和政を始めた。しかし独裁色が強まって支持を失い、1660年に王政が復活した。 年表で見る ›
- 李自成の乱りじせいのらん1630〜1645年ごろ
明の末期に、農民出身の李自成が率いた大規模な反乱。重い税や飢饉に苦しむ農民を集めて勢力を広げ、1644年に北京を占領して崇禎帝を自害に追い込み、明は滅んだ。しかし明の将軍呉三桂が山海関を開いて清軍を招き入れたため、李自成は北京を追われ、清が中国支配を始めるきっかけとなった。 年表で見る ›
- ヴェストファーレン条約ゔぇすとふぁーれんじょうやく1648年
三十年戦争を終わらせるために結ばれた講和条約。ヨーロッパ各国が参加する国際会議で、カルヴァン派が公認され、オランダとスイスの独立が正式に認められた。ドイツの諸侯はほぼ独立した主権を得て神聖ローマ帝国は形だけの存在となり、主権国家が並び立つ近代国際秩序の出発点とされる。 年表で見る ›
- リヴァイアサンりゔぁいあさん1651年
イギリスの思想家ホッブズが著した政治思想の本。ピューリタン革命の内戦を背景に、国家がなければ人間は「万人の万人に対する闘争」の状態になると考え、人々は契約を結んで権利を国家に預け、平和を守るべきだと説いた。この社会契約の考え方は、のちのロックやルソーに受け継がれ、近代政治思想の土台となった。 年表で見る ›
- 英蘭戦争えいらんせんそう1652〜1674年
17世紀後半に、イギリスとオランダが海上貿易の覇権を争って3回にわたり戦った戦争。イギリスがオランダの中継貿易に打撃を与えるために航海法を出したことが、第1次戦争のきっかけとなった。戦いの中でイギリスは北アメリカのニューアムステルダムを奪ってニューヨークと改名し、海上の主導権はしだいにイギリスへ移った。 年表で見る ›
- 康熙帝こうきてい1654〜1722年
清の第4代皇帝で、8歳で即位し約60年にわたって在位した。三藩の乱を鎮め、台湾の鄭氏を降して中国全土の支配を固め、ロシアとはネルチンスク条約を結んで国境を定めた。『康熙字典』の編纂を命じるなど文化の振興にも力を入れ、続く雍正帝・乾隆帝とともに清の最盛期を築いた。 年表で見る ›
- ルイ14世るいじゅうよんせい1638〜1715年
フランス・ブルボン朝の国王で、「太陽王」と呼ばれた。宰相マザランの死後に自ら政治を行い、王権神授説のもとで絶対王政の最盛期を築いて、豪華なヴェルサイユ宮殿を建てた。しかしたびたびの対外戦争やナントの勅令の廃止で国の財政は悪化し、のちのフランス革命の遠因となった。 年表で見る ›
- 三藩の乱さんぱんのらん1673〜1681年
清の時代に、中国南部に置かれた漢人の3人の藩王が起こした反乱。呉三桂ら三藩は、清が中国に入る際に協力した功績で広い領地と兵力を持っていたが、康熙帝が藩の廃止を決めると反発して兵を挙げた。清は8年かけて鎮圧し、これによって中国本土の支配を固めた。 年表で見る ›
- 第二次ウィーン包囲だいにじうぃーんほうい1683年
オスマン帝国の大軍が、ハプスブルク家の都ウィーンを包囲した戦い。1529年に続いて再びウィーン攻略を目指したが、ポーランド王ヤン3世らの救援軍に敗れて撤退した。この敗北の後、1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリーなどをオーストリアに譲り、オスマン帝国のヨーロッパでの後退が始まった。 年表で見る ›
- 名誉革命めいよかくめい1688〜1689年
イングランドで国王ジェームズ2世が追放され、議会が新しい王を迎えた政変。カトリックを復活させようとする国王に議会が反発し、オランダのウィレムとその妻メアリーを招くと、国王は大きな流血もなく国外に逃れた。新国王は権利の章典を認め、議会が王より優位に立つ立憲君主制の基礎が築かれた。 年表で見る ›
- 権利の章典けんりのしょうてん1689年
名誉革命の後、イングランド議会が定めた法律。議会が示した「権利の宣言」を新国王ウィリアム3世とメアリ2世が認めて制定され、議会の同意なしに法律を停止したり、課税したり、平時に常備軍を置いたりすることを禁じた。王の権力を議会が制限する立憲君主制の土台となり、イギリス憲法の重要な柱とされる。 年表で見る ›
- ネルチンスク条約ねるちんすくじょうやく1689年
清とロシアの間で結ばれた国境を定める条約。シベリアを東へ進んだロシアが黒竜江(アムール川)流域に進出し、清と衝突したことが背景にあった。両国の国境をアルグン川とスタノヴォイ山脈(外興安嶺)に定め、貿易についても取り決めたもので、中国が外国と対等な形で結んだ最初の条約とされる。 年表で見る ›
- 北方戦争ほっぽうせんそう1700〜1721年
スウェーデンと、ロシア・デンマーク・ポーランドなどとの間で、バルト海の支配をめぐって起きた戦争で、大北方戦争とも呼ばれる。当初はスウェーデン王カール12世が優勢だったが、1709年のポルタヴァの戦いでロシアのピョートル1世が勝利した。ロシアはバルト海沿岸を手に入れ、新しい都ペテルブルクを築いてヨーロッパの大国となった。 年表で見る ›
- スペイン継承戦争すぺいんけいしょうせんそう1701〜1714年
スペイン王家の後継ぎをめぐって起きたヨーロッパの国際戦争。スペイン・ハプスブルク家が断絶し、ルイ14世の孫がフェリペ5世として王位を継いだことに、フランスの強大化を恐れるイギリス・オーストリア・オランダが反対した。ユトレヒト条約で、フランスとスペインが合併しないことを条件に王位は認められ、イギリスはジブラルタルなどを得た。 年表で見る ›
- グレートブリテン王国ぐれーとぶりてんおうこく1707〜1800年
イングランドとスコットランドが合同して成立した王国。両国は1603年から同じ国王をいただいていたが、1707年の合同法で議会も一つにまとめられ、一つの国家となった。1801年にはアイルランドを併合してグレートブリテン及びアイルランド連合王国となり、現在のイギリスにつながった。 年表で見る ›
- 乾隆帝けんりゅうてい1711〜1799年
清の第6代皇帝で、約60年在位し、祖父康熙帝の治世とともに清の最盛期を築いた。ジュンガルを滅ぼして新疆を領土に加えて清の領域を最大とし、学問を保護して『四庫全書』を編纂させたが、反清的な思想は厳しく取り締まった。治世の後半には財政が悪化し、ヨーロッパとの貿易は広州一港に限った。 年表で見る ›
- オーストリア継承戦争おーすとりあけいしょうせんそう1740〜1748年
マリア・テレジアがハプスブルク家の領地を継いだことに、プロイセンなどが異議を唱えて起きた戦争。プロイセン王フリードリヒ2世はこれをきっかけに資源の豊かなシュレジエン(シレジア)を占領し、フランスなどがプロイセン側、イギリスがオーストリア側についた。アーヘンの和約でマリア・テレジアの継承は認められたが、シュレジエンはプロイセン領となった。 年表で見る ›
- フリードリヒ2世ふりーどりひにせい1712〜1786年
プロイセンの国王で、「大王」とも呼ばれる。オーストリア継承戦争と七年戦争を戦い、シュレジエンを守り抜いてプロイセンをヨーロッパの強国にした。ヴォルテールと交流するなど啓蒙思想に親しみ、「君主は国家第一の僕」と述べて上からの改革を進めたことから、啓蒙専制君主の代表とされる。 年表で見る ›
- マリア・テレジアまりあてれじあ1717〜1780年
オーストリア・ハプスブルク家の領地を継いだ女性君主。父カール6世の死後に家督を継いだが、反対するプロイセンなどとのオーストリア継承戦争でシュレジエンを失い、長年の敵だったフランスと手を結んで(外交革命)七年戦争で奪還を目指したが果たせなかった。国内では行政や教育の改革を進め、娘のマリ・アントワネットはフランス王妃となった。 年表で見る ›
世界史:近代 1750〜1914年
- 七年戦争しちねんせんそう1756〜1763年
オーストリアがシュレジエンの奪還を目指してプロイセンと戦った戦争。オーストリアはフランスやロシアと結び、プロイセンはイギリスの支援を受けて苦戦しながらもシュレジエンを守った。同じ時期にイギリスとフランスは北アメリカやインドでも戦い、勝利したイギリスが植民地帝国の基礎を固めた。 年表で見る ›
- プラッシーの戦いぷらっしーのたたかい1757年
インドのベンガル地方で、イギリス東インド会社の軍がベンガル太守とフランスの連合軍を破った戦い。指揮官クライヴは太守の部下を味方に引き入れ、少ない兵力で勝利した。これによりイギリスはインドでフランスに対して優位に立ち、ベンガル地方の支配を足がかりにインド全体の植民地化を進めた。 年表で見る ›
- エカチェリーナ2世えかちぇりーなにせい1729〜1796年
ロシアの女帝で、ドイツの小貴族の出身ながら夫ピョートル3世を退位させて即位した。啓蒙思想に関心を示す一方で貴族を保護し、プガチョフの乱の後は農奴制を強化した。対外的には黒海北岸に進出してクリミア半島を併合し、ポーランド分割にも加わったほか、日本との通商を求めてラクスマンを根室に派遣した。 年表で見る ›
- ハーグリーヴズはーぐりーゔず1720ごろ〜1778年
イギリスの発明家で、多くの糸を同時に紡ぐことができるジェニー紡績機を発明した。当時イギリスでは綿織物の需要が高まり、織る速度に糸づくりが追いつかなかったが、この機械は一人で何本もの糸を紡げるようにして生産を大きく伸ばした。その後の水力紡績機などとともに、産業革命の始まりを支える発明となった。 年表で見る ›
関連ラッダイト運動
- 印紙法いんしほう1765年
イギリスが北アメリカの13植民地に課した、新聞や証書などの印刷物に印紙を貼らせる税の法律。七年戦争で膨らんだ財政赤字を補うためだったが、植民地の人々は「代表なくして課税なし」と主張して強く反発し、イギリス製品の不買運動も起きた。法律は翌年廃止されたが、本国と植民地の対立は深まった。 年表で見る ›
- ポーランド分割ぽーらんどぶんかつ1772〜1795年
ポーランドの領土が、ロシア・プロイセン・オーストリアの3国によって3回にわたり分け取られた出来事。貴族の力が強く王権の弱かったポーランドは周辺の大国の干渉を受けやすく、コシューシコらの抵抗も実らなかった。1795年の第3回分割でポーランドは地図から消え、国家としての復活は第一次世界大戦後のことだった。 年表で見る ›
- プガチョフの乱ぷがちょふのらん1773〜1775年
ロシアで、コサックのプガチョフが起こした大規模な農民反乱。エカチェリーナ2世の時代に農奴制の負担が重くなり、農民やコサック、少数民族の不満が高まっていた。プガチョフは死んだはずの皇帝ピョートル3世を名乗ってヴォルガ川流域に勢力を広げたが鎮圧され、乱の後、政府はむしろ農奴制を強めた。 年表で見る ›
- ボストン茶会事件ぼすとんちゃかいじけん1773年
北アメリカのボストンで、植民地の人々がイギリス東インド会社の船に乗り込み、積み荷の茶を海に投げ捨てた事件。イギリスが茶法で東インド会社に茶の販売を独占させたことに植民地の人々が反発した。イギリスがボストン港を閉鎖するなど厳しく対応したため対立は決定的となり、アメリカ独立戦争へとつながった。 年表で見る ›
- アメリカ独立戦争あめりかどくりつせんそう1775〜1783年
北アメリカの13植民地がイギリスからの独立を求めて戦った戦争。本国の課税や統制に反発した植民地は、ワシントンを総司令官として戦い、1776年に独立宣言を発表した。フランスやスペインの参戦もあって植民地側が勝利し、1783年のパリ条約でアメリカ合衆国の独立が認められ、フランス革命などにも影響を与えた。 年表で見る ›
- アメリカ独立宣言あめりかどくりつせんげん1776年
北アメリカの13植民地がイギリスからの独立を宣言した文書で、トマス・ジェファソンらが起草し、7月4日に大陸会議で採択された。すべての人は平等につくられ、生命・自由・幸福の追求の権利をもつと述べ、その権利を侵す政府は改めたり廃止したりできるとした。ロックの思想の影響を受け、のちのフランス人権宣言にも影響を与えた。 年表で見る ›
- 純粋理性批判じゅんすいりせいひはん1781年
ドイツの哲学者カントの主著で、人間は何をどこまで知ることができるのかという、認識の仕組みと限界を問い直した。経験を重んじるイギリス経験論と、理性による推論を重んじる大陸合理論とを批判的にまとめ、人間の認識は心に備わった形式によって成り立つと論じた。近代哲学の転換点とされ、ドイツ観念論の出発点となった。 年表で見る ›
- アメリカ合衆国憲法あめりかがっしゅうこくけんぽう1787年
アメリカ合衆国の基本となる憲法で、現在も使われている成文憲法としては世界最古とされる。独立後の各州のゆるやかな連合では中央政府の力が弱かったため、フィラデルフィアの憲法制定会議で起草され、連邦制と三権分立、大統領制を定めた。1788年に発効し、初代大統領にワシントンが選ばれた。 年表で見る ›
- 人権宣言じんけんせんげん1789年
フランス革命のなかで国民議会が採択した宣言で、正式には「人間と市民の権利の宣言」という。人は生まれながらにして自由で平等な権利をもつこと、主権は国民にあること、法の前の平等、所有権の不可侵などをうたった。アメリカ独立宣言や啓蒙思想の影響を受け、近代の人権思想と民主主義の原則を示す文書として各国の憲法に影響を与えた。 年表で見る ›
- フランス革命ふらんすかくめい1789〜1799年
フランスで絶対王政が倒され、市民による新しい社会がつくられた革命。財政難を背景に開かれた三部会で平民と特権身分が対立し、7月14日にパリの民衆がバスティーユ牢獄を襲ったことで始まり、人権宣言が出され、やがて王政が廃止されて国王は処刑された。自由・平等の理念は、ナポレオンの登場を経てヨーロッパに広がった。 年表で見る ›
- ハイチ革命はいちかくめい1791〜1804年
カリブ海のフランス領サン・ドマングで、黒人奴隷たちが起こした革命。砂糖やコーヒーの農園で厳しく働かされていた奴隷たちがフランス革命の影響を受けて立ち上がり、トゥサン・ルヴェルチュールらの指導でナポレオンが送った軍も退けた。1804年にハイチとして独立し、世界初の黒人共和国となった。 年表で見る ›
- 恐怖政治きょうふせいじ1793〜1794年
フランス革命の時期に、ロベスピエールらジャコバン派が行った独裁政治。国外からの干渉戦争や国内の反乱で革命が危機に陥るなか、反対派を次々と逮捕して多くの人を処刑する一方、封建的な地代の無償廃止や物価統制なども進めた。厳しい支配への反発が強まり、テルミドールのクーデタで倒された。 年表で見る ›
- テルミドールのクーデタてるみどーるのくーでた1794年
フランス革命中に、ロベスピエールらジャコバン派の独裁を倒した政変で、革命暦のテルミドール(熱月)に起きたためこう呼ばれる。恐怖政治で処刑が続き、自分たちも狙われることを恐れた国民公会の議員たちが、ロベスピエールを逮捕して処刑した。その後の総裁政府のもとでも政情は安定せず、ナポレオンの台頭を招いた。 年表で見る ›
- ムハンマド・アリーむはんまどありー1769〜1849年
エジプトの総督で、近代エジプトの基礎を築いた人物。オスマン帝国の軍人としてナポレオン軍撤退後のエジプトに派遣され、1805年に総督となって、西洋式の軍隊や工場をつくり、綿花の栽培を広げるなど近代化を進めた。やがてオスマン帝国と戦って自立を強め、彼の一族がエジプトを世襲で治めることが認められた。 年表で見る ›
関連オスマン帝国
- 大陸封鎖令たいりくふうされい1806年
ナポレオンが占領したベルリンで出した、イギリスとの貿易を禁じる命令で、ベルリン勅令ともいう。海上でイギリスに勝てなかったナポレオンは、大陸の国々にイギリスとの通商を禁じて経済的に追い詰めようとした。しかしイギリスに穀物を輸出していたロシアなどは苦しみ、ロシアが命令を破ったことがロシア遠征の原因となった。 年表で見る ›
- ラッダイト運動らっだいとうんどう1811〜1817年
イギリスで、手工業の職人たちが機械を打ち壊した運動。産業革命で機械が普及すると熟練した職人の仕事が奪われて賃金も下がり、ナポレオン戦争による不況も重なって、ノッティンガムなどの織物工が機械を壊して回った。政府は厳しく取り締まったが、労働者が組織的に抵抗した早い例とされ、のちの労働運動につながった。 年表で見る ›
- 米英戦争べいえいせんそう1812〜1814年
アメリカ合衆国とイギリスの間で起きた戦争。ナポレオン戦争のなかで、イギリスがアメリカの船の通商を妨げ、船員を強制的に連れ去ったことなどに反発して、アメリカが宣戦した。決着はつかずに講和となったが、イギリス製品が入らなくなったことでアメリカの工業が発展し、経済的な自立が進むきっかけとなった。 年表で見る ›
- ウィーン会議うぃーんかいぎ1814〜1815年
ナポレオン戦争後のヨーロッパの秩序を話し合うため、ウィーンで開かれた国際会議で、オーストリアの外相メッテルニヒが議長を務めた。各国の利害が対立して「会議は踊る、されど進まず」と言われたが、ナポレオンのエルバ島脱出を機に合意した。革命前の王朝や領土を回復させる正統主義が基本となり、ウィーン体制と呼ばれる保守的な秩序が生まれた。 年表で見る ›
- ドイツ連邦どいつれんぽう1815〜1866年
ウィーン会議の結果、旧神聖ローマ帝国の地域につくられた国家の連合。オーストリアを議長国とし、約40の君主国や自由市が加わったが、各国がそれぞれ主権を持つゆるやかな結びつきで、統一国家ではなかった。普墺戦争でプロイセンがオーストリアに勝つと解体され、ドイツ統一はプロイセン中心に進んだ。 年表で見る ›
- 百日天下ひゃくにちてんか1815年
エルバ島に流されていたナポレオンが脱出して皇帝に復帰し、再び退位するまでの約100日間の支配。ウィーン会議で各国がもめ、フランスで復活したブルボン朝への不満が高まっていた時期に、ナポレオンはパリへ帰還した。しかしワーテルローの戦いで連合軍に敗れて再び退位し、この出来事はウィーン会議での合意を急がせた。 年表で見る ›
- ワーテルローの戦いわーてるろーのたたかい1815年
ベルギーのワーテルロー付近で、ナポレオンがイギリス・プロイセンなどの連合軍に敗れた戦い。エルバ島を脱出して皇帝に返り咲いたナポレオンは先手を打とうと北へ進んだが、ウェリントンの率いるイギリス軍などの粘りとプロイセン軍の到着で大敗した。ナポレオンは退位し、南大西洋のセントヘレナ島に流されてその地で没した。 年表で見る ›
- ギリシア独立戦争ぎりしあどくりつせんそう1821〜1829年
オスマン帝国の支配下にあったギリシアが独立を求めて戦った戦争。フランス革命以来の民族意識の高まりを背景に始まり、ヨーロッパでは古代ギリシアへのあこがれから支援の声が広がって、詩人バイロンも義勇兵として参加した。イギリス・フランス・ロシアが介入してオスマン帝国を破り、1830年にギリシアの独立が国際的に認められた。 年表で見る ›
- モンロー教書もんろーきょうしょ1823年
アメリカ大統領モンローが議会への教書で示した外交方針。ラテンアメリカの国々がスペインなどから独立するなか、ヨーロッパ諸国による再支配の動きを警戒し、アメリカはヨーロッパに干渉しない代わりに、ヨーロッパも南北アメリカに干渉すべきではないと主張した。この相互不干渉の考えはモンロー主義として、長くアメリカ外交の基本となった。 年表で見る ›
- 強制栽培制度きょうせいさいばいせいど1830〜1870年ごろ
オランダが植民地のジャワ島で行った農業政策。ジャワ戦争などで財政が苦しくなったオランダは、農民にコーヒーやサトウキビ、藍などの輸出向け作物を決められた量だけ作らせ、安く買い上げた。オランダ本国は大きな利益を得たが、食料となる米の生産が減ったジャワでは飢饉が起き、農民の生活は苦しくなった。 年表で見る ›
- 七月革命しちがつかくめい1830年
フランスで、国王シャルル10世の専制に反発したパリの民衆が蜂起し、王を退位させた革命。ウィーン体制のもとで復活したブルボン朝が議会を無視した政治を進めたため、3日間の市街戦で王は国外に逃れ、自由主義的なルイ・フィリップが新国王となった(七月王政)。この革命はベルギーの独立など、ヨーロッパ各地の運動に影響を与えた。 年表で見る ›
- 第1回選挙法改正だいいっかいせんきょほうかいせい1832年
イギリスで行われた、議会の選挙制度の改革。産業革命で工業都市が発達したにもかかわらず人口の少ない古い選挙区(腐敗選挙区)が議席を持ち続けていたため、これを廃止して新しい都市に議席を配分し、産業資本家などの中産階級に選挙権を広げた。しかし労働者には選挙権が与えられず、のちのチャーティスト運動につながった。 年表で見る ›
関連ラッダイト運動
- アヘン戦争あへんせんそう1840〜1842年
イギリスと清の間で起きた戦争。イギリスはインド産のアヘンを清に密輸して茶の輸入で流出した銀を取り戻しており、清の林則徐がアヘンを没収・廃棄すると軍を送った。敗れた清は南京条約で香港を譲り、上海など5港を開き、この結果に衝撃を受けた幕府は異国船打払令を改めて薪水給与令を出した。 年表で見る ›
- 共産党宣言きょうさんとうせんげん1848年
マルクスとエンゲルスが共同で書いた文書。産業革命の進展で労働者が厳しい条件で働かされていた時代に、歴史は階級闘争の歴史であると述べ、労働者が団結して資本家の支配を倒し、生産手段を共有する社会を目指すべきだと訴えた。「万国の労働者よ、団結せよ」の言葉で知られ、のちの社会主義運動に大きな影響を与えた。 年表で見る ›
- 二月革命にがつかくめい1848年
フランスで、選挙権の拡大を求める民衆が蜂起し、国王ルイ・フィリップを退位させた革命。七月王政のもとでは選挙権が一部の富裕層に限られており、改革を求める集会が禁止されたことがきっかけとなって共和政(第二共和政)が成立した。その影響はウィーンやベルリンなどにも広がり(三月革命)、ウィーン体制は崩壊した。 年表で見る ›
- 太平天国たいへいてんごく1851〜1864年
清の末期に洪秀全が建てた国、およびその反乱。キリスト教の影響を受けた宗教結社を率いた洪秀全は広西省で挙兵し、南京を占領して都とし、土地の平等な分配や纏足の禁止などを掲げて清朝打倒を目指した。しかし曾国藩らの郷勇(義勇軍)や、外国人が指揮する常勝軍に敗れて滅んだ。 年表で見る ›
- クリミア戦争くりみあせんそう1853〜1856年
ロシアとオスマン帝国の戦争に、イギリス・フランスなどがオスマン側について参戦した戦争。ロシアは聖地管理権問題を口実に南下し、黒海から地中海への進出を目指したが、クリミア半島のセヴァストーポリ要塞をめぐる激戦の末に敗れた。ナイティンゲールの看護活動でも知られ、敗れたロシアは農奴解放などの改革に取り組んだ。 年表で見る ›
- アロー戦争あろーせんそう1856〜1860年
イギリスとフランスが清と戦った戦争で、第2次アヘン戦争ともいう。イギリス船籍を名乗る船アロー号の乗組員が清の官憲に捕らえられた事件を口実に、イギリスがフランスを誘って出兵し、英仏軍は北京を占領して離宮の円明園を破壊した。清は天津条約・北京条約で開港場の増加やキリスト教布教の自由などを認めた。 年表で見る ›
- インド大反乱いんどだいはんらん1857〜1859年
イギリスの支配に対してインドで起きた大規模な反乱で、かつてはセポイの乱とも呼ばれた。東インド会社に雇われたインド人兵士(シパーヒー)が、新式銃の弾薬包に牛や豚の脂が使われているといううわさをきっかけに蜂起し、旧支配層や農民も加わって北インド一帯に広がった。鎮圧後、ムガル帝国は滅び、東インド会社も解散してインドはイギリス政府の直接統治下に置かれた。 年表で見る ›
- 天津条約てんしんじょうやく1858年
アロー戦争の途中で、清がイギリス・フランス・ロシア・アメリカと結んだ条約。外国の外交官が北京に住むことや、長江沿いの港を含む新たな開港、キリスト教布教の自由、外国人の国内旅行などを認めさせられた。しかし清が批准書の交換を拒んだことから戦闘が再開され、1860年の北京条約で内容が確認された。 年表で見る ›
- 種の起源しゅのきげん1859年
イギリスの博物学者ダーウィンが著した、生物の進化に関する本。ビーグル号での航海で集めた観察などをもとに、生物は環境に適したものが生き残る自然選択によって、長い時間をかけて変化してきたと論じた。神が生物を一つ一つ創造したという考えと対立して大きな論争を呼んだが、生物学の基礎となり、思想や社会にも広く影響を与えた。 年表で見る ›
- ガリバルディがりばるでぃ1807〜1882年
イタリア統一運動で活躍した軍人・革命家で、若いころから統一運動に加わり、南アメリカでも戦った。1860年に義勇兵の「赤シャツ隊(千人隊)」を率いてシチリアと南イタリアを征服し、その地をサルデーニャ王に献上した。これによってイタリアの統一が大きく進み、翌年イタリア王国が成立した。 年表で見る ›
関連イタリア王国
- 北京条約ぺきんじょうやく1860年
アロー戦争の後、清がイギリス・フランス、さらにロシアと結んだ条約。天津条約の内容を確認したうえで、天津の開港やイギリスへの九竜半島南部の割譲などを認め、仲介をしたロシアには沿海州を譲った。これにより清はさらに不利な立場に立たされ、外国の勢力が中国に深く入り込むことになった。 年表で見る ›
- リンカンりんかん1809〜1865年
アメリカ合衆国の第16代大統領。奴隷制の拡大に反対する共和党から1860年に当選すると、南部の州が合衆国から離脱して南北戦争が始まり、1863年に奴隷解放宣言を出し、ゲティスバーグでは「人民の、人民による、人民のための政治」と演説した。北部の勝利で合衆国の統一を守ったが、戦争終結の直後に暗殺された。 年表で見る ›
- アレクサンドル2世あれくさんどるにせい1818〜1881年
ロシアの皇帝。クリミア戦争の敗北でロシアの遅れが明らかになったことから上からの近代化を進め、1861年に農奴解放令を出して農奴に人格的な自由を与え、地方自治や司法の改革も行った。しかし土地の取得には重い負担が課されて改革は不十分に終わり、のちに専制を強めた皇帝は革命派によって暗殺された。 年表で見る ›
関連クリミア戦争
- イタリア王国いたりあおうこく1861〜1946年
サルデーニャ王国を中心に統一されて成立した王国。小国に分かれていたイタリアでは、首相カヴールのもとでサルデーニャが北部を統一し、ガリバルディが南部を征服して王に献上したことで、1861年にヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が初代国王となった。のちヴェネツィアとローマ教皇領も併合して統一を完成させた。 年表で見る ›
関連ガリバルディ
- 南北戦争なんぼくせんそう1861〜1865年
アメリカ合衆国で、北部と南部の対立から起きた内戦。奴隷制を基盤に綿花を輸出したい南部と、工業化を進め奴隷制の拡大に反対する北部が対立し、リンカンの大統領当選を機に南部の州が合衆国から離脱した。両軍あわせて約60万人以上の死者を出したが、北部が勝利して合衆国の統一が守られ、奴隷制が廃止された。 年表で見る ›
- ビスマルクびすまるく1815〜1898年
プロイセンの首相で、ドイツ統一を成し遂げた政治家。「鉄と血によって」問題は解決されると述べて軍備を拡張し、普墺戦争と普仏戦争に勝利して1871年にドイツ帝国を成立させた。帝国の宰相としては社会主義者鎮圧法と社会保険制度を組み合わせた政策をとり、外交では三帝同盟などでフランスを孤立させた。 年表で見る ›
- 赤十字せきじゅうじ1863年
戦争で傷ついた兵士を、敵味方の区別なく救護することを目的とする国際的な組織。スイスのアンリ・デュナンが、イタリア統一戦争の戦場で多くの負傷兵が放置されているのを見て救護団体の設立を訴えたことから始まり、1864年にはジュネーヴ条約が結ばれた。日本でも西南戦争の際に博愛社がつくられ、のちに日本赤十字社となった。 年表で見る ›
- 奴隷解放宣言どれいかいほうせんげん1863年
南北戦争中に、アメリカ大統領リンカンが出した宣言で、合衆国に反乱している南部の州の奴隷を自由にするとした。北部の戦争目的に奴隷解放という大義を加え、奴隷制を廃止していたイギリスなどが南部を支持しにくくなる効果もあった。戦後の1865年には憲法の修正によって、アメリカ全土で奴隷制が廃止された。 年表で見る ›
- 普墺戦争ふおうせんそう1866年
ドイツ統一の主導権をめぐって、プロイセンとオーストリアが戦った戦争。オーストリアを除いたドイツ統一を目指すプロイセン首相ビスマルクのもと、プロイセンは近代的な軍隊と鉄道を使った作戦で約7週間で勝利した。ドイツ連邦は解体され、プロイセンを中心とする北ドイツ連邦がつくられて、ドイツ統一へ大きく前進した。 年表で見る ›
- 資本論しほんろん1867年
ドイツの経済学者マルクスの主著で、資本主義経済の仕組みを分析した本。第1巻はマルクス自身が出版し、第2巻・第3巻は彼の死後にエンゲルスがまとめた。労働者が生み出した価値の一部を資本家が利潤として得ることで資本が増えていく仕組みを明らかにしようとし、社会主義の理論的な柱として20世紀の世界に大きな影響を与えた。 年表で見る ›
関連共産党宣言
- 大陸横断鉄道たいりくおうだんてつどう1869年
アメリカ合衆国の東部と西部を結んだ最初の鉄道。南北戦争中に建設が始まり、東から進んだユニオン・パシフィック鉄道と西から進んだセントラル・パシフィック鉄道がユタ州で結ばれ、西側の建設では多くの中国人労働者が働いた。東西の移動や物流が大きく変わって西部の開拓が進む一方、先住民の土地はさらに奪われていった。 年表で見る ›
関連南北戦争
- 普仏戦争ふふつせんそう1870〜1871年
プロイセンとフランスの間で起きた戦争。スペイン王位の継承問題をめぐる対立の中、ビスマルクが電報を書きかえて公表し(エムス電報事件)、フランスを挑発して開戦させ、ドイツ諸邦はセダンの戦いでナポレオン3世を捕虜にするなど圧勝した。戦争中にドイツ帝国が成立し、フランスはアルザス・ロレーヌを失った。 年表で見る ›
- ドイツ帝国どいつていこく1871〜1918年
プロイセンを中心に統一されたドイツの国家。普仏戦争のさなか、プロイセン王ヴィルヘルム1世がヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝として即位して成立し、宰相ビスマルクのもとで工業が急速に発展してヨーロッパの大国となった。のちにヴィルヘルム2世のもとで海外進出を強め、第一次世界大戦で敗れて帝政が終わった。 年表で見る ›
- パリ・コミューンぱりこみゅーん1871年
普仏戦争の敗北後、パリの民衆と労働者がつくった自治政府。臨時政府がドイツとの講和を進め、パリの国民衛兵の武装を解除しようとしたことに反発して蜂起し、労働者の権利を重んじる政策を打ち出したが、約2か月で政府軍に鎮圧された。労働者による初めての政権ともいわれ、のちの社会主義運動に影響を与えた。 年表で見る ›
関連普仏戦争
- 三帝同盟さんていどうめい1873年
ドイツ・オーストリア・ロシアの3人の皇帝の間で結ばれた協約。普仏戦争で敗れたフランスの報復を恐れたドイツの宰相ビスマルクは、フランスを孤立させる外交を進め、その中心として君主国どうしの協調をはかった。しかしバルカン半島をめぐってオーストリアとロシアが対立し、同盟はやがて崩れた。 年表で見る ›
- 印象派いんしょうは1874年
19世紀後半のフランスで生まれた絵画の流れ。モネやルノワールらが屋外で、光や空気によって移り変わる色彩を、明るい色と素早い筆づかいでとらえようとした。1874年の展覧会に出されたモネの『印象・日の出』をもとに批評家が皮肉を込めて名付けたもので、日本の浮世絵からも影響を受け、近代絵画の出発点となった。 年表で見る ›
- 社会主義者鎮圧法しゃかいしゅぎしゃちんあつほう1878〜1890年
ドイツ帝国の宰相ビスマルクが制定した、社会主義運動を取り締まる法律。工業の発展とともに社会主義政党が勢いを強めるなか、皇帝暗殺未遂事件を口実に社会主義の団体や集会、出版を禁止した。一方でビスマルクは疾病保険などの社会保険制度を整え、労働者を国家につなぎとめようとした(「アメとムチ」の政策)。 年表で見る ›
- 三国同盟さんごくどうめい1882年
1882年にドイツ・オーストリア・イタリアの3国が結んだ秘密の軍事同盟。ビスマルクがフランスを孤立させるために主導し、チュニジアをめぐってフランスと対立したイタリアも加わった。のちにイギリス・フランス・ロシアの三国協商と対立する陣営となったが、イタリアは第一次世界大戦で連合国側に移り、同盟は崩れた。 年表で見る ›
- 清仏戦争しんふつせんそう1884〜1885年
ベトナムの支配をめぐって清とフランスが戦った戦争。ベトナムの宗主国だと主張する清と、インドシナへの進出を進めるフランスが衝突した。1885年の天津条約で清はベトナムへの宗主権を放棄し、フランスはのちにフランス領インドシナを形成した。清の弱さが明らかになり、朝鮮の甲申政変にも影響を与えた。 年表で見る ›
- アフリカ分割あふりかぶんかつ19世紀後半〜20世紀初め
ヨーロッパ列強がアフリカ大陸のほぼ全域を植民地として分け合った動き。1884〜1885年のベルリン会議で、先に実効支配した国が領有できるという原則が定められ、獲得競争が激しくなった。20世紀初めまでに独立を保ったのはエチオピアとリベリアだけとなり、民族や文化を無視して引かれた境界線は現在の紛争の一因ともなった。 年表で見る ›
- インド国民会議いんどこくみんかいぎ1885年
イギリスの支配下にあったインドで、1885年に結成された政治団体。当初はイギリスが穏健な知識人の意見をくみ取る場として認めたもので、協調的な性格が強かった。しかしベンガル分割令などを機に反英の姿勢を強め、のちにガンディーらの指導で独立運動の中心となった。独立後は国民会議派としてインド政治を担った。 年表で見る ›
- 再保障条約さいほしょうじょうやく1887年
ドイツとロシアが結んだ秘密条約。バルカン問題をめぐるロシアとオーストリアの対立で三帝同盟が失効したため、ビスマルクはフランスとロシアの接近を防ぐ目的でこれを結んだ。1890年、ビスマルクの引退後にヴィルヘルム2世の政府が更新しなかったため、ロシアはフランスに接近し、露仏同盟の成立につながった。 年表で見る ›
- シベリア鉄道しべりあてつどう1891〜1916年
ロシアがモスクワ方面と極東のウラジオストクを結ぶために建設した長大な鉄道。1891年に着工し、極東での勢力拡大と軍事輸送をねらった。満州を横切る東清鉄道を利用して早期の開通を図ったことは日本に強い警戒心を抱かせ、日英同盟や日露戦争の背景となった。全線がロシア領内を通る形で完成したのは1916年である。 年表で見る ›
- 露仏同盟ろふつどうめい1894年
ロシアとフランスが結んだ同盟。ドイツが再保障条約を更新しなかったため、孤立していたフランスとロシアが接近し、1894年に正式に成立した。フランスの資本がロシアに流れ込み、シベリア鉄道の建設などを支えた。のちにイギリスを加えた三国協商へと発展し、ドイツを中心とする三国同盟と対立する構図をつくった。 年表で見る ›
- アメリカ・スペイン戦争あめりかすぺいんせんそう1898年
キューバの独立問題をめぐって、アメリカとスペインが戦った戦争。キューバで独立運動が起こる中、ハバナ港でアメリカの戦艦メイン号が爆沈したことが開戦のきっかけとなった。勝ったアメリカはフィリピン・グアム・プエルトリコを手に入れ、キューバを事実上の保護国とした。アメリカが海外に植民地をもつ国となる転機となった。 年表で見る ›
- 戊戌の変法ぼじゅつのへんぽう1898年
清の光緒帝が、康有為・梁啓超らを登用して進めた政治改革。日清戦争の敗北を受け、日本の明治維新にならって立憲君主制や近代的な制度の導入をめざした。しかし西太后ら保守派のクーデター(戊戌の政変)によって約100日で挫折し、光緒帝は幽閉された。上からの改革の失敗は、のちの革命運動へと人々を向かわせた。 年表で見る ›
- ボーア戦争ぼーあせんそう1899〜1902年
南アフリカで、イギリスとオランダ系移民の子孫(ボーア人)の国々が戦った戦争。トランスヴァール共和国などで金やダイヤモンドが見つかり、これを手に入れようとしたイギリスが侵攻した。イギリスは苦戦の末に勝って両国を併合したが、多くの兵力と費用を費やし、「光栄ある孤立」を見直して日英同盟を結ぶ一因となった。 年表で見る ›
- 義和団事件ぎわだんじけん1900〜1901年
清で「扶清滅洋」を唱える義和団が起こした排外運動。外国の進出やキリスト教の布教に対する民衆の反発が背景にあった。清朝政府も義和団に乗じて列強に宣戦したが、日本・ロシアを中心とする8か国の連合軍が北京を占領した。北京議定書で清の従属が深まり、ロシアは満州に軍をとどめて日露の対立が強まった。 年表で見る ›
- 北京議定書ぺきんぎていしょ1901年
義和団事件の後、清と日本・欧米など11か国が結んだ条約。清は約4億5000万両という巨額の賠償金を支払い、北京の公使館区域に外国軍が駐留することなどを認めた。この結果、清の半植民地化が進んだ。日本も北京周辺に軍を置く権利を得ており、この駐留はのちの盧溝橋事件の背景にもつながった。 年表で見る ›
- ボリシェヴィキぼりしぇゔぃき1903年
ロシア社会民主労働党のうち、レーニンが率いた一派。1903年の党大会で、少数の職業革命家による党をめざすレーニン派が多数派(ボリシェヴィキ)となり、少数派(メンシェヴィキ)と分かれた。1917年の十月革命で権力を握って世界初の社会主義政権を樹立し、のちにロシア共産党と名を改めてソ連を指導した。 年表で見る ›
- アインシュタインあいんしゅたいん1879〜1955年
ドイツ生まれの物理学者。1905年に特殊相対性理論や光量子仮説などを相次いで発表し、1915〜1916年には一般相対性理論を完成させた。時間と空間についての考え方を大きく変え、現代物理学の基礎を築いた。1921年度のノーベル物理学賞を受賞し、翌年には来日した。ナチスの迫害を避けてアメリカに移り、晩年は核兵器の廃絶を訴えた。 年表で見る ›
関連ナチ党
- ドレフュスどれふゅす1859〜1935年
1894年にスパイの罪を着せられたフランスのユダヤ系陸軍将校。証拠が不十分なまま有罪とされ流刑となったが、真犯人の存在が明らかになると、作家ゾラらが再審を求めて軍部を批判した。フランス国内は再審派と反対派に二分され、1906年に無罪が確定した。反ユダヤ主義の問題を浮き彫りにし、政教分離の進展にも影響した。 年表で見る ›
- メキシコ革命めきしこかくめい1910〜1917年
1910年に始まった、メキシコの民主化と社会改革をめぐる革命。長く独裁を続けたディアス大統領に対し、マデロが選挙の不正を批判して武装蜂起を呼びかけた。サパタやビリャらの農民勢力も加わってディアスは亡命した。その後も内戦が続いたが、1917年に土地改革や労働者の権利を定めた新しい憲法が制定された。 年表で見る ›
世界史:現代 1914年〜
- 中華民国ちゅうかみんこく1912年〜
辛亥革命によって1912年に成立した、清にかわる共和制の国家。孫文が臨時大総統となったが、まもなく清の実力者だった袁世凱に地位を譲り、その後は各地の軍閥が争う混乱が続いた。1928年に蔣介石の国民政府が全国をほぼ統一したが、日中戦争と国共内戦を経て、1949年に政府は台湾に移った。 年表で見る ›
- バルカン戦争ばるかんせんそう1912〜1913年
バルカン半島で2度にわたって起こった戦争。第一次ではバルカン同盟がオスマン帝国に勝ち、バルカンにある領土の大部分を奪った。第二次ではその分配に不満をもつブルガリアが、セルビア・ギリシアなどと戦って敗れた。この結果ブルガリアはドイツ・オーストリア側に近づき、地域の緊張は第一次世界大戦へとつながった。 年表で見る ›
- バルカン同盟ばるかんどうめい1912年
1912年にセルビア・ブルガリア・ギリシア・モンテネグロが結んだ同盟。ロシアの後押しを受け、イタリアとの戦争で弱っていたオスマン帝国からバルカン半島の領土を奪うことをめざした。同じ年に第一次バルカン戦争を起こして勝利したが、獲得した領土の分配をめぐって対立し、第二次バルカン戦争で崩れた。 年表で見る ›
- 第一次世界大戦だいいちじせかいたいせん1914〜1918年
ヨーロッパを主な戦場とした最初の世界規模の戦争。1914年、オーストリアの皇位継承者夫妻がサラエボでセルビア人の青年に暗殺された事件をきっかけに、同盟国と連合国の諸国が次々に参戦した。戦車や毒ガスが使われる総力戦となり、兵士の死者は約900万人に及んだ。ドイツなどが敗れ、ロシアやドイツの帝政が倒れ、国際連盟がつくられた。 年表で見る ›
- アルメニア人虐殺あるめにあじんぎゃくさつ1915〜1916年ごろ
第一次世界大戦中、オスマン帝国の領内でアルメニア人が強制移住などによって大量に命を落とした出来事。ロシアと戦う中で、オスマン政府はキリスト教徒のアルメニア人を敵に協力する存在とみなし、シリア砂漠方面への移送を進めた。犠牲者は数十万人から150万人とされる。トルコ政府は計画的な虐殺とは認めておらず、国際的な論争が続いている。 年表で見る ›
- ロシア革命ろしあかくめい1917年
1917年にロシアで起こった二つの革命。第一次世界大戦の長期化で食料不足が深刻になる中、3月(ロシア暦2月)の革命で皇帝ニコライ2世が退位してロマノフ朝が倒れた。さらに11月(ロシア暦10月)にはレーニン率いるボリシェヴィキが臨時政府を倒し、世界初の社会主義政権を樹立した。各国の社会運動に大きな影響を与え、のちのソ連成立につながった。 年表で見る ›
- 五・四運動ごしうんどう1919年
1919年5月4日に北京の学生から始まった中国の反日・反帝国主義運動。パリ講和会議で、中国が求めていた山東省の旧ドイツ権益の返還が認められず、日本への継承が決まったことに反発した。運動は商人や労働者にも広がり、中国政府はヴェルサイユ条約への調印を拒否した。中国の民族運動が大衆に広がる転機となった。 年表で見る ›
- 三・一独立運動さんいちどくりつうんどう1919年
1919年3月1日、日本の支配下にあった朝鮮で起こった独立運動。民族自決の考えが広まる中、ソウルで独立宣言が読み上げられ、「独立万歳」を叫ぶデモが朝鮮全土に広がった。朝鮮総督府は軍や警察を動員して鎮圧したが、日本はその後、武力による統治から「文化政治」とよばれる統治方針に改めた。 年表で見る ›
- ヴェルサイユ条約ゔぇるさいゆじょうやく1919年
第一次世界大戦後、連合国とドイツが結んだ講和条約。パリ講和会議で話し合われ、ドイツはすべての植民地と一部の本国領土を失い、軍備を制限され、巨額の賠償金を課された。国際連盟の設立もこの条約で定められた。ドイツ国民には強い不満が残り、のちにナチ党が台頭する一因となった。 年表で見る ›
- 禁酒法きんしゅほう1920〜1933年
アメリカで酒類の製造・販売・輸送を禁止した法律。キリスト教の価値観に基づく禁酒運動や、第一次世界大戦中の穀物節約の動きを背景に、憲法修正第18条により1920年に施行された。しかし密造酒や密輸が横行し、ギャングなどの犯罪組織が勢力を広げる結果となった。世界恐慌のさなかの1933年に廃止された。 年表で見る ›
- 国際連盟こくさいれんめい1920〜1946年
第一次世界大戦後、世界の平和を保つために1920年に設立された初の国際平和機構。アメリカのウィルソン大統領の提案をもとにジュネーヴに本部が置かれ、日本はイギリス・フランス・イタリアとともに常任理事国となった。しかし提案国のアメリカは参加せず、侵略への制裁手段も不十分だった。日本やドイツの脱退が続いて力を失い、国際連合に役割を引き継いだ。 年表で見る ›
- ナチ党なちとう1920〜1945年
正式名は国民社会主義ドイツ労働者党。1920年にドイツ労働者党から改称し、翌年ヒトラーが党首となった。ヴェルサイユ体制への不満や世界恐慌による社会不安を背景に、民族主義と反ユダヤ主義を掲げて支持を広げた。1933年に政権を握ると独裁体制を築き、第二次世界大戦やホロコーストを引き起こした。 年表で見る ›
- 中国共産党ちゅうごくきょうさんとう1921年
1921年に上海で結成された中国の政党。ロシア革命の影響を受け、陳独秀・李大釗らが中心となり、コミンテルンの支援を受けて設立された。国民党と協力・対立を繰り返し、大長征の過程で毛沢東が指導権を確立した。日中戦争後の内戦に勝利して1949年に中華人民共和国を建国し、現在も国家を指導している。 年表で見る ›
- ファシスト党ふぁしすととう1921年
イタリアでムッソリーニが率いた政党。1919年に結成された戦闘ファッシを母体とし、1921年に党となった。第一次世界大戦後の経済混乱や労働運動の高まりに不安をもつ地主・資本家・軍部の支持を集め、1922年のローマ進軍で政権を握った。やがて他の政党を禁止して一党独裁体制を築き、ファシズムの語源ともなった。 年表で見る ›
- ワシントン会議わしんとんかいぎ1921〜1922年
アメリカの呼びかけでワシントンで開かれた国際会議。第一次世界大戦後の軍備拡張競争をおさえることと、アジア・太平洋地域の秩序づくりが話し合われた。主力艦の保有を制限する海軍軍縮条約、中国の主権尊重を定めた九か国条約、太平洋の現状維持を約束した四か国条約が結ばれ、日英同盟は廃棄された。 年表で見る ›
- ソビエト連邦そびえとれんぽう1922〜1991年
1922年に成立した世界初の社会主義国家。ロシア革命後の内戦を経て、ロシア・ウクライナ・ベラルーシ・ザカフカースの各共和国が連邦を結成した。スターリンのもとで計画経済による急速な工業化が進み、第二次世界大戦後はアメリカと冷戦で対立する超大国となった。経済の停滞や改革の混乱の中で、1991年に解体した。 年表で見る ›
- ムッソリーニむっそりーに1883〜1945年
イタリアの政治家で、ファシズムの指導者。もとは社会主義者だったが、第一次世界大戦への参戦を主張して党を離れ、のちにファシスト党を率いた。1922年のローマ進軍で首相となり、一党独裁体制を築いた。エチオピアを侵略し、ドイツと結んで第二次世界大戦に参戦したが、戦況の悪化で失脚し、1945年にパルチザンに捕らえられ殺害された。 年表で見る ›
- ケマル・パシャけまるぱしゃ1881〜1938年
トルコ共和国の建国者で初代大統領。第一次世界大戦後、連合国によるオスマン帝国の分割に抵抗して祖国解放の戦いを指導し、ギリシア軍を撃退した。1922年にスルタン制を廃止し、1923年にトルコ共和国を建国した。政教分離、文字のローマ字化、女性参政権など近代化を進め、「アタテュルク(父なるトルコ人)」の姓を贈られた。 年表で見る ›
- ミュンヘン一揆みゅんへんいっき1923年
1923年、ヒトラーが率いるナチ党がミュンヘンで起こしたクーデター未遂事件。ルール占領や激しいインフレで社会が混乱する中、バイエルン州政府を倒してベルリンに進軍しようとしたが、警察に鎮圧された。ヒトラーは投獄され、獄中で『わが闘争』を口述した。この失敗の後、ナチ党は選挙による合法的な政権獲得をめざすようになった。 年表で見る ›
- ドーズ案どーずあん1924年
第一次世界大戦後のドイツの賠償問題を解決するため、1924年に採択された支払い計画。アメリカの銀行家ドーズを中心とする委員会がまとめ、賠償金の年ごとの支払額を減らし、アメリカ資本がドイツに貸し付けるしくみをつくった。ドイツ経済は回復しヨーロッパの国際協調が進んだが、アメリカ資金への依存は世界恐慌で崩れた。 年表で見る ›
- ロカルノ条約ろかるのじょうやく1925年
1925年にスイスのロカルノで話し合われ、ロンドンで調印された西ヨーロッパの安全保障に関する条約群。ドイツとフランス・ベルギーとの国境の現状維持や相互不可侵などを定め、イギリスとイタリアが保証した。これによりドイツは翌年国際連盟に加盟し、ヨーロッパに国際協調の時代が訪れた。1936年のドイツのラインラント進駐で崩れた。 年表で見る ›
- 蔣介石しょうかいせき1887〜1975年
中国国民党の指導者。孫文の後継者として1926年から北伐を進め、翌年には上海で共産党を弾圧し、南京に国民政府を樹立した。1928年に中国をほぼ統一し、日中戦争では共産党と協力して日本と戦った。戦後の内戦に敗れて1949年に台湾に移り、中華民国総統として亡くなるまで統治した。 年表で見る ›
- 不戦条約ふせんじょうやく1928年
1928年にパリで結ばれた、国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄することを約束した条約。アメリカの国務長官ケロッグとフランスの外務大臣ブリアンが提唱し、日本を含む15か国が調印、のちに多くの国が加わった。しかし違反への制裁の規定がなく自衛の戦争は認められたため、侵略を止める力は弱かった。 年表で見る ›
- 世界恐慌せかいきょうこう1929年
1929年10月、ニューヨークの株式市場での株価の大暴落から始まった世界的な不況。アメリカでは企業や銀行の倒産が相次ぎ、失業者は全労働者の約4分の1に達した。アメリカの資金に頼っていたヨーロッパや日本にも波及し、各国はブロック経済などで自国を守ろうとした。経済の混乱はファシズムの台頭や国際対立の激化につながった。 年表で見る ›
- 全権委任法ぜんけんいにんほう1933年
1933年、ドイツで成立した、政府に議会の承認なしで法律を制定する権限を与えた法律。ヒトラー政権は国会議事堂放火事件を口実に共産党を弾圧したうえで、この法律を国会で可決させた。これによりヴァイマル憲法は事実上効力を失い、ナチ党以外の政党も解散させられて、ナチ党の一党独裁体制が確立した。 年表で見る ›
- ルーズヴェルトるーずゔぇると1882〜1945年
アメリカ合衆国第32代大統領のフランクリン・ルーズヴェルト。1933年、世界恐慌のさなかに就任し、ニューディール政策で公共事業や失業者の救済、銀行の立て直しを進めた。第二次世界大戦では連合国を指導し、チャーチルと大西洋憲章を発表した。アメリカ史上ただ一人4選されたが、大戦終結直前の1945年4月に亡くなった。 年表で見る ›
- 大長征だいちょうせい1934〜1935年
中国共産党の紅軍が、国民党軍の包囲を逃れて行った大移動。1934年に江西省瑞金の根拠地を出発し、険しい山や川を越えて約1万2000キロを移動し、1935年に陝西省北部に到着した。途中で毛沢東が党の指導権を確立した。出発時の約10万人のうち到着できたのは一部だったが、のちの共産党政権の原点とされた。 年表で見る ›
- ドイツ再軍備どいつさいぐんび1935年
1935年3月、ヒトラーがヴェルサイユ条約の軍備制限を破棄し、徴兵制の復活と再軍備を宣言したこと。同年1月にザール地方の住民投票でドイツへの復帰が決まり、自信を深める中で行われた。イギリスは英独海軍協定を結んでこれを事実上認め、翌年のラインラント進駐へと続いて、ヴェルサイユ体制の崩壊が進んだ。 年表で見る ›
- 人民戦線じんみんせんせん1935〜1939年ごろ
ファシズムに対抗するため、共産党・社会党・自由主義者などが手を結んだ協力体制。1935年にコミンテルンが方針として打ち出し、1936年にはフランスとスペインで人民戦線内閣が成立した。しかしスペインでは軍部の反乱によって内戦が起こり、フランスでも内部の対立によって短期間で崩れ、ファシズムの拡大を止めることはできなかった。 年表で見る ›
- スペイン内戦すぺいんないせん1936〜1939年
スペインで人民戦線政府と、フランコ将軍が率いる反乱軍が戦った内戦。1936年に人民戦線内閣が成立すると、軍部や地主、カトリック教会などの保守派が反乱を起こした。ドイツとイタリアが反乱軍を、ソ連と各国の義勇兵が政府側を支援し、イギリス・フランスは不干渉政策をとった。1939年に反乱軍が勝ち、フランコの独裁が始まった。 年表で見る ›
- フランコふらんこ1892〜1975年
スペインの軍人・政治家。1936年に人民戦線政府に対して反乱を起こし、ドイツとイタリアの支援を受けて内戦に勝利した。1939年から独裁体制をしき、第二次世界大戦では中立を保った。戦後は反共産主義の立場からアメリカと結び、1975年に亡くなるまで統治した。その死後、スペインは立憲君主制のもとで民主化した。 年表で見る ›
- ズデーテン地方ずでーてんちほう1938年
チェコスロヴァキア西部の、ドイツ系住民が多く住んでいた地域。1938年、ヒトラーはドイツ系住民の民族自決を理由にこの地の割譲を要求した。同年のミュンヘン会談で、イギリスとフランスは戦争を避けるために要求を認める宥和政策をとった。しかしヒトラーは翌年チェコスロヴァキアを解体し、宥和政策は失敗に終わった。 年表で見る ›
- 第二次世界大戦だいにじせかいたいせん1939〜1945年
1939年9月のドイツのポーランド侵攻から始まった世界規模の戦争。ドイツ・イタリア・日本の枢軸国と、イギリス・アメリカ・ソ連・中国などの連合国が戦い、1941年の独ソ戦や太平洋戦争の開始で戦場は世界中に広がった。1945年に枢軸国が降伏して終わった。死者は約5000万人以上にのぼり、戦後は国際連合が設立された。 年表で見る ›
- 独ソ不可侵条約どくそふかしんじょうやく1939年
1939年8月、ドイツとソ連が結んだ相互不可侵の条約。対立していた両国の突然の提携は世界を驚かせ、日本の平沼騏一郎内閣は「欧州情勢は複雑怪奇」と声明して総辞職した。秘密議定書で東ヨーロッパの勢力範囲を分け合い、直後にドイツはポーランドに侵攻した。1941年、ドイツのソ連侵攻によって破られた。 年表で見る ›
- チャーチルちゃーちる1874〜1965年
イギリスの政治家で、第二次世界大戦中の首相。1940年に首相となり、ドイツの激しい空襲に耐えて国民を励まし、徹底抗戦を貫いた。ルーズヴェルトと大西洋憲章を発表し、ヤルタ会談などで戦後の構想にも関わった。戦後は「鉄のカーテン」演説で東西冷戦の始まりを指摘した。回顧録『第二次世界大戦』などでノーベル文学賞を受賞した。 年表で見る ›
- ヴィシー政府ゔぃしーせいふ1940〜1944年
第二次世界大戦中、ドイツに降伏したフランスで、中部の町ヴィシーに置かれた政府。1940年にパリが陥落した後、ペタン元帥を首班として成立し、南部を統治したが、実際にはドイツに協力する政権だった。一方、ド=ゴールはロンドンで自由フランスを組織して抵抗を続けた。1944年のパリ解放によって崩壊した。 年表で見る ›
- 独ソ戦どくそせん1941〜1945年
1941年6月、ドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻したことで始まった戦争。ドイツ軍はモスクワの近くまで迫ったが、冬の寒さとソ連軍の反撃に阻まれた。1943年のスターリングラードの戦いでドイツ軍が敗れると形勢が逆転し、ソ連軍はベルリンまで攻め込んだ。ソ連の死者は2000万人を超えたとされ、史上最大規模の戦いとなった。 年表で見る ›
- ホロコーストほろこーすと1933〜1945年
ナチス・ドイツがユダヤ人などに対して行った組織的な大量虐殺。1933年に政権を握ったナチ党は人種主義にもとづいてユダヤ人を迫害し、第二次世界大戦中には占領地の人々を強制収容所や絶滅収容所に送った。犠牲となったユダヤ人は約600万人とされる。戦後、人権や国際法の考え方に大きな影響を与えた。 年表で見る ›
- ノルマンディー上陸作戦のるまんでぃーじょうりくさくせん1944年
1944年6月、アメリカ・イギリスなどの連合国軍がフランス北西部のノルマンディー海岸に大規模な上陸を行った作戦。ドイツに占領された西ヨーロッパを解放し、東から進むソ連軍とともにドイツを挟み撃ちにするねらいがあった。上陸の成功で西部戦線が開かれ、パリ解放を経てドイツの降伏が早まった。 年表で見る ›
- ブレトン・ウッズぶれとんうっず1944年
1944年、アメリカのブレトン・ウッズで開かれた連合国の会議で決められた戦後の国際通貨体制。世界恐慌後に各国が通貨切り下げや経済のブロック化を進め、対立が深まった反省から生まれた。金と交換できるドルを基軸通貨とする固定相場制がとられ、国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(世界銀行)が設立された。 年表で見る ›
- 国際連合こくさいれんごう1945年
第二次世界大戦後の1945年、国際平和と安全の維持を目的として51か国で発足した国際機構。大戦を防げなかった国際連盟の反省から、安全保障理事会に強い権限を与え、米英仏ソ中の5常任理事国に拒否権を認めた。本部はニューヨークにあり、現在は190か国以上が加盟して、平和維持や人権、開発などの分野で活動している。 年表で見る ›
- 鉄のカーテンてつのかーてん1946年
1946年、イギリスの前首相チャーチルがアメリカでの演説で使った言葉。ソ連が東ヨーロッパの国々を勢力下に置き、西側との間を閉ざしている状況を、ヨーロッパを横切る鉄のカーテンにたとえた。この演説は東西の対立をはっきり示したものとされ、冷戦の始まりを象徴する言葉として広まった。 年表で見る ›
- ベトナム民主共和国べとなむみんしゅきょうわこく1945〜1976年
ホー・チ・ミンが1945年9月に独立を宣言して成立した国家。日本の敗戦後、ベトナム独立同盟(ベトミン)が権力を握ったが、植民地支配の回復をめざすフランスとの間でインドシナ戦争が起こった。のちに北ベトナムとして南ベトナムやアメリカと戦い、1976年に南北を統一してベトナム社会主義共和国となった。 年表で見る ›
- 印パ分離独立いんぱぶんりどくりつ1947年
1947年、イギリスの植民地だったインドが、ヒンドゥー教徒が多いインドとイスラム教徒が多いパキスタンの2国に分かれて独立したこと。独立運動の中で宗教による対立が深まり、統一国家での独立は実現しなかった。分離にともない多くの人々が国境を越えて移動し、各地で衝突が起きた。カシミールの帰属などをめぐる対立は現在も続いている。 年表で見る ›
関連インド国民会議
- トルーマン・ドクトリンとるーまんどくとりん1947年
1947年、アメリカのトルーマン大統領が発表した外交方針。共産主義勢力の圧力を受けていたギリシャとトルコへの援助を議会に求め、自由主義の国々を支えて共産主義の拡大を防ぐ「封じ込め政策」を打ち出した。アメリカが孤立主義から離れ、ソ連と対立する姿勢を明確にしたもので、冷戦の本格化を示した。 年表で見る ›
- マーシャル・プランまーしゃるぷらん1947年
1947年にアメリカの国務長官マーシャルが発表した、ヨーロッパの経済復興を支える援助計画。戦争で荒廃したヨーロッパで生活の苦しさから共産主義が広がるのを防ぐねらいがあった。西ヨーロッパ諸国は多額の援助を受けて復興を進めたが、ソ連と東欧諸国は受け入れを拒み、ヨーロッパの東西分断が深まった。 年表で見る ›
- 世界人権宣言せかいじんけんせんげん1948年
1948年12月10日、国際連合の総会で採択された、すべての人が持つ基本的人権を示した宣言。第二次世界大戦中の大量虐殺など深刻な人権侵害への反省から生まれた。法的な拘束力はないが、自由権や社会権を幅広く定め、その後の国際人権規約や各国の憲法に大きな影響を与えた。12月10日は人権デーとされている。 年表で見る ›
- 大韓民国だいかんみんこく1948年
1948年8月、朝鮮半島の北緯38度線より南に成立した国家。日本の植民地支配が終わった後、朝鮮半島は北をソ連、南をアメリカに分割占領され、南だけで行われた選挙をへて李承晩が初代大統領となった。北の朝鮮民主主義人民共和国と対立し、1950年に朝鮮戦争が起こった。のちに経済成長と民主化を進めた。 年表で見る ›
- 朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく1948年
1948年9月、朝鮮半島の北緯38度線より北に成立した国家。略称は北朝鮮。ソ連の占領下で社会主義体制がつくられ、金日成が首相となって建国した。南の大韓民国と対立し、1950年に朝鮮戦争を起こした。その後も金日成の一族が権力を受け継ぎ、核・ミサイル開発や日本人拉致問題が国際的な課題となっている。 年表で見る ›
- ベルリン封鎖べるりんふうさ1948〜1949年
1948年、ソ連が西ベルリンへの陸路や水路を封鎖した事件。米英仏が占領地域で通貨改革を行ったことに反発し、西側諸国をベルリンから追い出そうとした。アメリカなどは物資を飛行機で運び込む大空輸で対抗し、1949年に封鎖は解かれた。この事件をきっかけにドイツは東西2つの国家に分かれた。 年表で見る ›
- 中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく1949年
1949年10月1日、毛沢東が北京で建国を宣言した国家。日中戦争後、中国共産党と蔣介石の国民党との内戦が再開し、勝利した共産党が新しい国家をつくった。敗れた国民党は台湾に移って中華民国政府を維持した。社会主義の建設を進め、1970年代末からの改革開放政策で急速に経済成長し、世界有数の大国となった。 年表で見る ›
- NATOなとー1949年
1949年、アメリカ・カナダと西ヨーロッパ諸国の12か国で結成した軍事同盟。北大西洋条約機構の略称。ベルリン封鎖などでソ連との対立が深まるなか、加盟国の1つが攻撃されれば全体への攻撃とみなして共同で防衛するしくみをつくった。冷戦終結後は東欧諸国も加わり、加盟国は30か国以上に増えた。 年表で見る ›
- 中ソ友好同盟相互援助条約ちゅうそゆうこうどうめいそうごえんじょじょうやく1950年
1950年、中華人民共和国とソ連の間で結ばれた同盟条約。建国直後の中国は社会主義国ソ連との協力を外交の柱とし、日本やその同盟国からの攻撃に共同で対抗することを約束した。ソ連は中国に経済援助を行ったが、1950年代末から両国は対立を深め、条約は1980年に失効した。 年表で見る ›
- 朝鮮戦争ちょうせんせんそう1950〜1953年
1950年6月、北朝鮮軍が北緯38度線を越えて韓国に攻め込んで始まった戦争。アメリカ中心の国連軍が韓国を、中国の人民義勇軍が北朝鮮を支援し、冷戦下の代理戦争となった。1953年に休戦協定が結ばれたが、南北の分断は固定化された。日本ではアメリカ軍の物資調達による特需景気が起こり、警察予備隊が設けられた。 年表で見る ›
- ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体よーろっぱせきたんてっこうきょうどうたい1951年
1951年にフランス・西ドイツ・イタリア・ベネルクス3国の6か国が設立条約に調印した国際機関。戦争の原因となってきた石炭と鉄鋼を共同で管理することで、特にフランスとドイツの対立をなくすねらいがあった。翌年に発足し、のちにヨーロッパ経済共同体などとともに欧州共同体(EC)となり、現在の欧州連合(EU)の出発点となった。 年表で見る ›
- 東南アジア条約機構とうなんあじあじょうやくきこう1954〜1977年
1954年、アメリカ・イギリス・フランス・オーストラリア・ニュージーランド・パキスタン・タイ・フィリピンの8か国が結成した集団防衛機構。略称SEATO。インドシナ戦争後、東南アジアで共産主義の勢力が広がるのを防ぐねらいがあった。しかし加盟国の足並みはそろわず、ベトナム戦争の後の1977年に解散した。 年表で見る ›
- アジア・アフリカ会議あじああふりかかいぎ1955年
1955年、インドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカの29か国による国際会議。バンドン会議とも呼ばれる。第二次世界大戦後に独立した国々が集まり、米ソのどちらの陣営にも属さない立場を示した。前年に周恩来とネルーが確認した平和五原則をもとに、反植民地主義や平和共存をうたう平和十原則を採択した。 年表で見る ›
- ワルシャワ条約機構わるしゃわじょうやくきこう1955〜1991年
1955年、ソ連と東ヨーロッパの社会主義国の8か国が結成した軍事同盟。西ドイツが再軍備してNATOに加盟したことに対抗してつくられた。加盟国の共同防衛を目的としたが、1968年のチェコスロバキアの民主化運動(プラハの春)に軍事介入するなど、ソ連が東欧を支配する手段ともなった。冷戦終結後の1991年に解体した。 年表で見る ›
- スターリン批判すたーりんひはん1956年
1956年、ソ連共産党第20回大会でフルシチョフ第一書記が秘密報告を行い、前指導者スターリンの個人崇拝や大量粛清を批判したこと。スターリンの死後、行き詰まった政治を改める必要があった。この報告をきっかけにポーランドやハンガリーで反ソ運動が起こり、ソ連の路線をめぐって中国との対立も始まった。 年表で見る ›
- 第二次中東戦争だいにじちゅうとうせんそう1956年
1956年、エジプトのナセル大統領がスエズ運河の国有化を宣言したことに対し、イギリス・フランス・イスラエルがエジプトに出兵した戦争。スエズ戦争とも呼ばれる。アメリカやソ連、国連の強い反対によって3国は撤退した。エジプトは政治的に勝利し、イギリスとフランスの国際的な影響力の低下が明らかになった。 年表で見る ›
- スプートニクすぷーとにく1957年
1957年、ソ連が打ち上げに成功した世界初の人工衛星。アメリカは自国の技術が遅れていると衝撃を受け(スプートニク・ショック)、翌年に航空宇宙局(NASA)を設立して科学教育を強化した。人工衛星を打ち上げるロケット技術は核兵器を遠くへ運ぶミサイルにも使えるため、米ソの宇宙開発と軍拡の競争が激しくなった。 年表で見る ›
- アフリカの年あふりかのとし1960年
アフリカで17か国が独立した1960年を指す言葉。第二次世界大戦後、植民地支配に反対する民族運動が高まり、イギリスやフランスなどの支配が続けられなくなった。この年には旧フランス領の多くの国やナイジェリア、コンゴなどが独立した。国際連合でアフリカの国々の発言力が増したが、独立後も内戦や貧困に苦しむ国が多かった。 年表で見る ›
- ガガーリンががーりん1934〜1968年
ソ連の軍人・宇宙飛行士。1961年4月、宇宙船ボストーク1号に乗って地球を1周し、人類で初めて宇宙飛行に成功した。帰還後に語ったとされる「地球は青かった」という言葉で知られる。スプートニクに続くソ連の成功はアメリカに大きな衝撃を与え、米ソの宇宙開発競争を激しくした。1968年に飛行訓練中の事故で亡くなった。 年表で見る ›
- ケネディけねでぃ1917〜1963年
アメリカ第35代大統領。1961年に43歳で就任し、ニューフロンティア政策を掲げた。1962年のキューバ危機では海上封鎖を行ってソ連にミサイルを撤去させ、核戦争の危機を回避した。翌年には部分的核実験禁止条約を結び、人類を月へ送るアポロ計画も進めた。1963年11月、テキサス州ダラスで暗殺された。 年表で見る ›
- 非同盟諸国首脳会議ひどうめいしょこくしゅのうかいぎ1961年
1961年、ユーゴスラビアのベオグラードで初めて開かれた、東西どちらの陣営にも属さない国々の首脳会議。ユーゴスラビアのティトー、エジプトのナセル、インドのネルーらが中心となった。冷戦下で米ソの対立から距離をとり、平和共存や植民地主義の廃止を訴えた。その後も定期的に開かれ、発展途上国の発言の場となった。 年表で見る ›
- ベルリンの壁べるりんのかべ1961〜1989年
1961年、東ドイツが東西ベルリンの境界に築いた壁。東ドイツから西ベルリンを経由して西側へ逃れる人々が後を絶たなかったため、その流出を止めるためにつくられた。西ベルリンを取り囲み、冷戦と東西分断の象徴となった。1989年11月に東ドイツが出国の自由化を発表したことで開放され、翌年の東西ドイツ統一につながった。 年表で見る ›
- アルジェリア独立あるじぇりあどくりつ1962年
1962年、北アフリカのアルジェリアがフランスから独立したこと。アルジェリアには多くのフランス系住民が住み、フランスは本土の一部として手放そうとしなかったため、1954年から民族解放戦線(FLN)による独立戦争が続いた。戦争はフランス国内の政治危機を招き、ド・ゴール大統領のもとで停戦が結ばれ、国民投票を経て独立した。 年表で見る ›
関連アフリカの年
- キューバ危機きゅーばきき1962年
1962年、ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設していることが発覚し、米ソの核戦争が起こる寸前となった事件。1959年のキューバ革命後、アメリカと対立したキューバはソ連に接近していた。ケネディ大統領は海上封鎖で対抗し、最終的にソ連のフルシチョフがミサイルを撤去した。危機の後、米ソ首脳を結ぶ直通通信が開設され、緊張緩和が進んだ。 年表で見る ›
- 部分的核実験禁止条約ぶぶんてきかくじっけんきんしじょうやく1963年
1963年、アメリカ・イギリス・ソ連が結んだ、大気圏内・宇宙空間・水中での核実験を禁止する条約。キューバ危機で核戦争の危険が現実となったことや、核実験による放射能汚染への批判が背景にある。地下での核実験は禁止されず、フランスや中国は参加しなかったが、米ソが核の管理で協力した最初の成果となった。 年表で見る ›
- ワシントン大行進わしんとんだいこうしん1963年
1963年8月、黒人差別の撤廃を求めて20万人以上が首都ワシントンに集まった大規模なデモ。南部を中心に続く人種隔離や差別に対して公民権運動が高まるなかで行われた。指導者のキング牧師が「私には夢がある」と演説したことで知られる。この運動は翌1964年の公民権法の成立を後押しした。 年表で見る ›
- 公民権法こうみんけんほう1964年
1964年、アメリカで成立した、人種・肌の色・宗教・性別・出身国による差別を禁止する法律。キング牧師らの公民権運動やワシントン大行進の高まりを受け、ケネディ大統領の暗殺後にジョンソン大統領が署名した。公共施設や雇用での差別が法律で禁じられ、南部で続いていた人種隔離制度の解消が進んだ。 年表で見る ›
- パレスチナ解放機構ぱれすちなかいほうきこう1964年
1964年、イスラエルに支配されたパレスチナの解放をめざして設立された組織。略称PLO。1948年のイスラエル建国で多くのパレスチナ人が故郷を追われ、難民となったことが背景にある。1969年からアラファトが議長を務めて武装闘争を続けたが、のちに方針を転換した。1993年にはイスラエルと互いを承認し、パレスチナ暫定自治協定を結んだ。 年表で見る ›
- ベトナム戦争べとなむせんそう1965〜1975年
南ベトナム政府とアメリカに対し、北ベトナムと南ベトナム解放民族戦線が戦った戦争。共産主義の拡大を恐れたアメリカは、1965年から北ベトナムへの爆撃(北爆)を始め、大規模な地上軍を送った。戦争は長期化し、世界中で反戦運動が広がった。1973年にアメリカ軍は撤退し、1975年にサイゴンが陥落して南北ベトナムは統一へ向かった。 年表で見る ›
- 文化大革命ぶんかだいかくめい1966〜1976年
1966年から約10年間、中国で毛沢東が主導した政治運動。大躍進政策の失敗で指導力が弱まった毛沢東が、権力を取り戻すため、劉少奇らを資本主義の道を歩む者として攻撃した。紅衛兵と呼ばれる若者たちが動員され、多くの知識人や幹部が迫害を受け、社会と経済は大きく混乱した。1976年の毛沢東の死後に終わり、のちに中国共産党自身が誤りと認めた。 年表で見る ›
- 第三次中東戦争だいさんじちゅうとうせんそう1967年
1967年6月、イスラエルがエジプト・シリア・ヨルダンなどアラブ諸国を先制攻撃した戦争。6日間で終わったことから六日戦争とも呼ばれる。イスラエルは圧勝し、シナイ半島、ガザ地区、ヨルダン川西岸、ゴラン高原などを占領した。占領地の問題や多数の難民の発生は、その後の中東和平の大きな課題となった。 年表で見る ›
- 核拡散防止条約かくかくさんぼうしじょうやく1968年
1968年に調印された、核兵器を持つ国が増えることを防ぐための条約。略称NPT。アメリカ・ソ連・イギリス・フランス・中国の5か国だけを核兵器国と認め、それ以外の国が核兵器を持つことを禁止した。核兵器国には核軍縮の交渉を進める義務を課し、原子力の平和利用は認めた。1970年に発効し、日本は1976年に批准した。インドやパキスタンなどは加盟していない。 年表で見る ›
- アポロ11号あぽろじゅういちごう1969年
1969年7月、アメリカの宇宙船アポロ11号が月面に着陸し、人類が初めて月に降り立ったこと。ソ連との宇宙開発競争で遅れをとったアメリカは、ケネディ大統領のもとで月への有人着陸をめざすアポロ計画を進めていた。船長アームストロングが月面に第一歩を記し、その様子は世界中にテレビ中継された。 年表で見る ›
- 第一次戦略兵器制限交渉だいいちじせんりゃくへいきせいげんこうしょう1969〜1972年
アメリカとソ連が核兵器の数を制限するために行った交渉。略称SALT I。キューバ危機の後、核兵器の際限ない増強は両国に重い負担となり、緊張緩和(デタント)の流れのなかで1969年に交渉が始まった。1972年に弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約と、戦略攻撃兵器の数を一定期間凍結する暫定協定が結ばれた。 年表で見る ›
- ニクソン・ショックにくそんしょっく1971年
1971年、アメリカのニクソン大統領が発表した、ドルと金の交換停止などの政策が世界に与えた衝撃。ベトナム戦争の戦費や貿易赤字でドルの信用が低下していたことが背景にある。ブレトン・ウッズ体制は崩れ、1973年には主要国が変動為替相場制に移った。同じ年の中国訪問の発表も、もう1つのニクソン・ショックと呼ばれる。 年表で見る ›
- ウォーターゲート事件うぉーたーげーとじけん1972〜1974年
1972年、ワシントンのウォーターゲート・ビルにある民主党本部に盗聴器を仕掛けようとした者たちが逮捕された事件。のちにニクソン大統領の再選を支える組織が関わり、大統領自身も事件のもみ消しに関与していたことが明らかになった。議会で弾劾の手続きが進むなか、1974年にニクソンはアメリカ史上初めて任期途中で辞任した。 年表で見る ›
- 欧州共同体おうしゅうきょうどうたい1967〜1993年
1967年、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体、ヨーロッパ経済共同体、ヨーロッパ原子力共同体の3つの機関を統合して生まれた組織。略称EC。加盟国間の関税をなくして共同市場をつくり、経済の統合を進めた。1973年にイギリス・アイルランド・デンマークが加盟して9か国となり、その後も拡大した。1993年のマーストリヒト条約の発効で欧州連合(EU)に発展した。 年表で見る ›
- 第四次中東戦争だいよじちゅうとうせんそう1973年
1973年10月、エジプトとシリアがイスラエルを攻撃して始まった戦争。第三次中東戦争で失った領土の回復をめざしたもので、ユダヤ教の祝日をねらった奇襲だった。アラブの産油国はイスラエルを支援する国々への石油輸出を制限する石油戦略をとり、第一次石油危機を引き起こした。のちにエジプトとイスラエルは和平を結び、シナイ半島は返還された。 年表で見る ›
- サミットさみっと1975年
主要国の首脳が集まり、世界の経済や政治の課題を話し合う会議。石油危機やドルの動揺で世界経済が混乱したことを受け、1975年にフランスのランブイエで第1回の先進国首脳会議が開かれた。最初はアメリカ・イギリス・フランス・西ドイツ・イタリア・日本の6か国で、翌年カナダが加わった。現在はG7サミットとして毎年開かれている。 年表で見る ›
- イラン革命いらんかくめい1979年
1979年、イランで国王パフレヴィー2世の政権が倒れ、イスラム法学者ホメイニを最高指導者とするイスラム共和国が成立した革命。国王はアメリカの支援を受けて近代化を進めたが、独裁や貧富の差の拡大に国民の不満が高まった。革命後、イランはアメリカと対立し、石油の生産が落ち込んで第二次石油危機が起こった。 年表で見る ›
- イラン・イラク戦争いらんいらくせんそう1980〜1988年
1980年、イラクのフセイン政権がイランに侵攻して始まった戦争。国境の川の領有権をめぐる対立に加え、イラン革命の影響が自国に広がることへの警戒があった。戦争は約8年続き、双方に大きな被害が出た。1988年に国連安全保障理事会の停戦決議を受け入れて停戦した。戦争で財政が苦しくなったイラクは、のちにクウェートに侵攻した。 年表で見る ›
- レーガン大統領れーがんだいとうりょう1911〜2004年
アメリカ第40代大統領(在任1981〜1989年)。俳優出身で、カリフォルニア州知事を経て大統領となった。ソ連を「悪の帝国」と呼んで軍備を拡大する一方、経済では減税と規制緩和を進めたが、財政と貿易の「双子の赤字」が拡大した。2期目にはゴルバチョフと会談を重ね、中距離核戦力全廃条約を結んで冷戦終結への道を開いた。 年表で見る ›
- フォークランド紛争ふぉーくらんどふんそう1982年
1982年、南大西洋のフォークランド諸島の領有をめぐって、アルゼンチンとイギリスが戦った紛争。イギリスが支配してきた島を、アルゼンチンはマルビナス諸島と呼んで領有権を主張し、軍事政権が国内の不満をそらすため上陸して占領した。サッチャー首相のイギリスは艦隊を送って島を奪い返し、敗れたアルゼンチンでは翌年に民政に移行した。 年表で見る ›
- ゴルバチョフごるばちょふ1931〜2022年
ソ連の政治家。1985年に共産党書記長となり、ソ連最後の最高指導者となった。行き詰まった経済と社会を立て直すため、ペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を進めた。新思考外交を掲げてアメリカとの軍縮を進め、1989年のマルタ会談で冷戦の終結を宣言した。1990年にノーベル平和賞を受けたが、1991年のソ連解体で大統領を辞任した。 年表で見る ›
- チェルノブイリ原子力発電所事故ちぇるのぶいりげんしりょくはつでんしょじこ1986年
1986年4月、ソ連のウクライナ共和国にあるチェルノブイリ原子力発電所の4号炉で起きた爆発事故。運転試験中の操作の誤りと原子炉の設計上の欠陥が重なって起こり、大量の放射性物質がヨーロッパ各地に広がった。周辺の住民は避難を強いられた。情報公開の遅れはソ連の体制への批判を強め、グラスノスチを進めるきっかけとなった。 年表で見る ›
- 中距離核戦力全廃条約ちゅうきょりかくせんりょくぜんぱいじょうやく1987年
1987年、アメリカのレーガン大統領とソ連のゴルバチョフ書記長が調印した条約。射程500〜5500kmの地上発射型ミサイルをすべて廃棄することを定めた。核兵器の数を減らすだけでなく、特定の種類を全廃した初めての条約で、冷戦の終結に向けた大きな一歩となった。2019年にアメリカが離脱を通告し、失効した。 年表で見る ›
- 天安門事件てんあんもんじけん1989年
1989年6月4日、北京の天安門広場で民主化を求めて集まっていた学生や市民を、中国政府が軍隊を出動させて鎮圧した事件。物価上昇や役人の汚職への不満から、言論の自由や民主化を求める運動が広がっていた。多数の死傷者が出たが、正確な数は明らかになっていない。各国は中国を非難して経済制裁を行った。中国国内ではいまも事件についての議論が制限されている。 年表で見る ›
- 東欧革命とうおうかくめい1989年
1989年、ポーランド・ハンガリー・東ドイツ・チェコスロバキア・ブルガリア・ルーマニアなどの東ヨーロッパ諸国で、共産党による一党支配の体制が相次いで倒れたこと。ソ連のゴルバチョフが東欧諸国への干渉をやめる姿勢を示したことで、民主化運動が一気に広がった。多くの国では大きな流血なく体制が転換したが、ルーマニアでは武力衝突が起こった。冷戦の終結につながった。 年表で見る ›
- ベルリンの壁崩壊べるりんのかべほうかい1989年
1989年11月9日、東西冷戦の象徴だったベルリンの壁が開放され、市民の手で壊されたこと。ゴルバチョフの改革のもとで東欧に民主化の波が広がり、東ドイツでも国外への脱出や大規模なデモが続いていた。東ドイツ政府が旅行の自由化を発表すると人々が国境に押し寄せ、検問所が開かれた。翌1990年の東西ドイツ統一につながった。 年表で見る ›
- マルタ会談まるたかいだん1989年
1989年12月、地中海のマルタ島沖でアメリカのブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフ書記長が行った首脳会談。ベルリンの壁の崩壊など東欧で民主化が急速に進むなかで開かれた。両首脳は東西対立の時代が終わったことを確認し、冷戦の終結を宣言した。ヤルタ会談から始まった冷戦が終わったことを示すものとして「ヤルタからマルタへ」と表現された。 年表で見る ›
- 東西ドイツ統一とうざいどいつとういつ1990年
1990年10月3日、東ドイツが西ドイツに編入される形で、第二次世界大戦後に分断されていたドイツが統一されたこと。ベルリンの壁の崩壊後、東ドイツで統一を望む声が高まり、米英仏ソの4か国と東西ドイツの間で統一を認める条約が結ばれた。統一ドイツはNATOにとどまった。東西の経済格差の解消は長く課題となった。 年表で見る ›
- 戦略兵器削減条約せんりゃくへいきさくげんじょうやく1991年
1991年、アメリカのブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフ大統領が調印した、戦略核兵器を削減する条約。略称START I。それまでの軍備管理が数の上限を定めるものだったのに対し、大陸間弾道ミサイルなどの長距離核兵器を実際に減らすことを約束した。冷戦終結を象徴する成果となり、その後も米露間で新たな削減条約が結ばれた。 年表で見る ›
- ソビエト連邦の崩壊そびえとれんぽうのほうかい1991年
1991年12月、ソビエト社会主義共和国連邦が解体されたこと。ゴルバチョフの改革のなかで経済の混乱が深まり、各共和国で独立を求める動きが強まった。同年8月に改革に反対する保守派のクーデタが失敗すると共産党は解散し、12月にロシアなど11か国が独立国家共同体(CIS)をつくった。ゴルバチョフが大統領を辞任してソ連は消滅した。 年表で見る ›
- 湾岸戦争わんがんせんそう1991年
1990年にイラクがクウェートに侵攻・併合したことに対し、1991年にアメリカを中心とする多国籍軍がイラクを攻撃した戦争。国連安全保障理事会の決議にもとづく武力行使で、多国籍軍はイラク軍をクウェートから撤退させた。日本は多額の資金を拠出したが人的な貢献がないと批判され、これがのちのPKO協力法の制定につながった。 年表で見る ›
- 地球サミットちきゅうさみっと1992年
1992年、ブラジルのリオデジャネイロで開かれた「環境と開発に関する国連会議」。地球温暖化や熱帯林の減少など、地球規模の環境問題が深刻になってきたことが背景にある。約180か国が参加し、「持続可能な開発」を理念とするリオ宣言や行動計画が採択された。気候変動枠組条約や生物多様性条約の署名も始まり、のちの京都議定書につながった。 年表で見る ›
- マーストリヒト条約まーすとりひとじょうやく1992年
1992年、欧州共同体(EC)の12か国がオランダのマーストリヒトで調印した条約。冷戦の終結とドイツ統一を受け、経済だけでなく政治の面でもヨーロッパの統合を深めることをめざした。共通の外交・安全保障政策や単一通貨の導入を定め、翌1993年の発効で欧州連合(EU)が発足した。単一通貨ユーロは1999年に導入された。 年表で見る ›
- 欧州連合おうしゅうれんごう1993年
1993年、マーストリヒト条約の発効によって欧州共同体(EC)から発展して発足した組織。略称EU。経済統合に加え、共通の外交・安全保障政策などにも取り組んだ。1999年には単一通貨ユーロを導入し、2000年代には東欧諸国が加盟して大きく拡大した。2020年にイギリスが離脱し、加盟国は27か国となった。 年表で見る ›
- パレスチナ暫定自治協定ぱれすちなざんていじちきょうてい1993年
1993年、イスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)が結んだ協定。ノルウェーの仲介による秘密交渉をもとに、アメリカのクリントン大統領の立会いのもとでラビン首相とアラファト議長が署名し、オスロ合意とも呼ばれる。両者は互いを認め、ガザ地区とヨルダン川西岸でパレスチナ人の暫定自治が始まった。しかしその後の和平交渉は行き詰まった。 年表で見る ›
- ネルソン・マンデラねるそんまんでら1918〜2013年
南アフリカ共和国の政治家。白人政権による人種隔離政策(アパルトヘイト)に反対するアフリカ民族会議(ANC)の指導者として活動し、約27年間投獄された。国際的な批判の高まりのなかで1990年に釈放され、アパルトヘイトの撤廃に尽力した。1993年にノーベル平和賞を受け、1994年に全人種が参加した選挙を経て黒人初の大統領となった。 年表で見る ›
- 北米自由貿易協定ほくべいじゆうぼうえききょうてい1994年
1994年に発効した、アメリカ・カナダ・メキシコの3か国による自由貿易協定。略称NAFTA。3か国の間の関税を段階的になくし、投資の自由化を進めて、北米に巨大な自由貿易圏をつくった。EUの発足など世界で地域統合が進む流れに対応するものだった。2020年にトランプ政権のもとで見直され、米国・メキシコ・カナダ協定(USMCA)に置き換えられた。 年表で見る ›
- 世界貿易機関せかいぼうえききかん1995年
1995年に発足した、国際的な貿易のルールを定め、自由貿易を進めるための国際機関。略称WTO。第二次世界大戦後の関税と貿易に関する一般協定(GATT)を発展させたもので、物の貿易に加えてサービスや知的財産権の分野も扱うようになった。加盟国間の貿易紛争を処理するしくみを持つ。2001年には中国も加盟した。 年表で見る ›
- 包括的核実験禁止条約ほうかつてきかくじっけんきんしじょうやく1996年
1996年に国連総会で採択された、地下を含むあらゆる場所での核爆発実験を禁止する条約。略称CTBT。地下核実験を認めていた部分的核実験禁止条約を発展させたものである。しかし発効には特定の44か国の批准が必要とされ、アメリカや中国などが批准していないため、まだ発効していない。インド・パキスタン・北朝鮮はその後も核実験を行った。 年表で見る ›
- アジア通貨危機あじあつうかきき1997年
1997年、タイの通貨バーツの急落をきっかけに、東南アジアや韓国などの通貨が次々と暴落した経済危機。これらの国々には海外から多額の短期資金が流れ込んでいたが、経済への不安から一斉に引き揚げられた。インドネシアや韓国は国際通貨基金(IMF)の支援を受けた。インドネシアではスハルト政権が倒れるなど政治にも大きな影響が出た。 年表で見る ›
- 京都議定書きょうとぎていしょ1997年
1997年に京都で開かれた気候変動枠組条約の第3回締約国会議(COP3)で採択された議定書。地球温暖化を防ぐため、先進国に温室効果ガスの排出削減の数値目標を義務として課した。日本は1990年比で6%の削減を約束した。しかし大きな排出国だったアメリカは離脱し、中国などの途上国には削減義務がなかった。のちにパリ協定に引き継がれた。 年表で見る ›
- 香港返還ほんこんへんかん1997年
1997年7月1日、イギリスの植民地だった香港が中華人民共和国に返還されたこと。香港はアヘン戦争後の南京条約などでイギリス領となり、1984年の中英共同声明で返還が決まっていた。返還後50年間は資本主義制度を維持する「一国二制度」が約束された。しかし2020年の香港国家安全維持法の施行などで、言論の自由が大きく制限されるようになった。 年表で見る ›
- プーチンぷーちん1952年〜
ロシアの政治家。旧ソ連の情報機関KGBの出身で、2000年に大統領に就任した。ソ連崩壊後の混乱した経済を、石油や天然ガスの輸出を背景に立て直す一方、報道や野党への統制を強めて権力を集中させた。首相の時期をはさんで長く最高権力を握り、2014年にはウクライナのクリミア半島を併合し、2022年にはウクライナへの全面的な侵攻を始めた。 年表で見る ›
- アメリカ同時多発テロあめりかどうじたはつてろ2001年
2001年9月11日、イスラム過激派組織アルカイダのメンバーが旅客機4機を乗っ取り、ニューヨークの世界貿易センタービルやワシントン郊外の国防総省に突入させた事件。約3000人が犠牲となった。アメリカのブッシュ大統領は「テロとの戦い」を宣言し、アルカイダをかくまったとしてアフガニスタンのターリバーン政権を攻撃した。のちのイラク戦争にもつながった。 年表で見る ›
- ターリバーンたーりばーん1990年代〜
アフガニスタンのイスラム主義勢力。ソ連軍撤退後の内戦のなかで1990年代に台頭し、1996年に首都カブールを制圧して厳格なイスラム法による統治を行った。2001年にはバーミヤンの大仏を破壊した。同時多発テロの首謀者をかくまったとしてアメリカなどの攻撃を受け、政権を失った。しかし抵抗を続け、2021年にアメリカ軍が撤退すると再び権力を握った。 年表で見る ›
- イラク戦争いらくせんそう2003〜2011年
2003年3月、アメリカとイギリスなどがイラクを攻撃して始めた戦争。アメリカは、イラクのフセイン政権が大量破壊兵器を持っていると主張したが、国連安全保障理事会の明確な承認は得られなかった。フセイン政権は短期間で倒れたが、大量破壊兵器は見つからなかった。その後も治安の悪化や宗派対立が続き、アメリカ軍は2011年に撤退した。 年表で見る ›
- リーマン・ショックりーまんしょっく2008年
2008年9月、アメリカの大手投資銀行リーマン・ブラザーズが経営破綻したことをきっかけに広がった世界的な金融危機。返済能力の低い人向けの住宅ローン(サブプライムローン)を組み込んだ金融商品の価値が急落し、多くの金融機関が損失を抱えていた。世界的な不況となり、日本でも輸出の減少や「派遣切り」など雇用の悪化が起こった。 年表で見る ›
- バラク・オバマばらくおばま1961年〜
アメリカ第44代大統領(在任2009〜2017年)。ハワイ州出身で、アメリカ史上初めてのアフリカ系の大統領となった。リーマン・ショック後の経済の立て直しに取り組み、医療保険制度の改革を進めた。2009年のプラハ演説で「核兵器のない世界」を訴えてノーベル平和賞を受け、2016年には現職大統領として初めて広島を訪問した。 年表で見る ›
- アラブの春あらぶのはる2010〜2012年ごろ
2010年末のチュニジアでの政変をきっかけに、中東・北アフリカのアラブ諸国に広がった民主化運動。長期独裁政権や失業、汚職への不満が高まっており、インターネットやSNSを通じて抗議運動が急速に広がった。チュニジア、エジプト、リビアなどで長期政権が倒れた。しかしその後、多くの国で政治の混乱が続き、シリアなどでは内戦に発展した。 年表で見る ›
関連シリア内戦
- シリア内戦しりあないせん2011〜2024年
2011年、アラブの春の影響を受けてシリアで始まった反政府運動が、アサド政権による弾圧をきっかけに内戦となったもの。過激派組織「イスラム国」(IS)やロシア・アメリカ・トルコなどの外国が関わり、長期化した。多くの犠牲者と数百万人規模の難民を生んだ。2024年12月に反政府勢力が首都ダマスカスを制圧し、アサド政権は崩壊した。 年表で見る ›
関連アラブの春
- パリ協定ぱりきょうてい2015年
2015年、パリで開かれた気候変動枠組条約の第21回締約国会議(COP21)で採択された、地球温暖化対策の国際的な枠組み。世界の平均気温の上昇を産業革命前と比べて2度より十分低く抑え、1.5度に抑える努力をすることを目標とした。京都議定書と異なり、途上国を含むすべての国が削減目標を立てる。アメリカは政権によって離脱と復帰をくり返している。 年表で見る ›
- EU離脱いーゆーりだつ2016〜2020年
イギリスが欧州連合(EU)から離脱したこと。ブレグジットとも呼ばれる。EUからの移民の増加やEUのルールに縛られることへの不満が高まり、2016年の国民投票で離脱派が約52%で勝利した。離脱の条件をめぐる交渉は難航したが、2020年1月にイギリスはEUを正式に離脱した。加盟国がEUから離脱したのは初めてだった。 年表で見る ›
- ドナルド・トランプどなるどとらんぷ1946年〜
アメリカの実業家・政治家。2016年の大統領選挙で政治経験がないまま共和党候補として勝利し、2017年に第45代大統領に就任した。「アメリカ第一」を掲げ、パリ協定からの離脱表明や中国との貿易摩擦など、国際協調より自国の利益を優先する政策をとった。2020年の選挙で敗れたが、2024年の選挙で勝利し、2025年に第47代大統領として再び就任した。 年表で見る ›
- 核兵器禁止条約かくへいききんしじょうやく2017年
2017年に国連で採択された、核兵器の開発・保有・使用などを全面的に禁止する条約。核拡散防止条約のもとでも核軍縮が進まないことへの不満から、非核保有国や市民団体が中心となって推進した。2021年に発効した。しかし核保有国やその同盟国は参加しておらず、唯一の戦争被爆国である日本も、アメリカの核抑止に頼る立場から参加していない。 年表で見る ›