WORLD HISTORY · 紀元前500〜前1年
紀元前380年代の出来事紀元前389〜前380年
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紀元前380年代に起きた主な出来事は?
紀元前380年代(紀元前389〜前380年)は、ケルト系セノネス人がローマ市に侵入し、ギリシアでは大王の和約によってコリントス戦争が終結しました。アテネではプラトンがアカデメイアを創設し、中国では斉で田和が田斉を建てて諸侯と認められました。
- 楚の呉起が政治・軍制改革に着手世界
- 『春秋左氏伝』がこの年までに成立世界
- プラトンがアカデメイアを創設世界
- セノネス人がローマ市に侵入世界
- スパルタ主導で大王の和約が結ばれる世界
- 田和が田斉を建て諸侯と認められる世界
- 毘舎離で第2回仏典結集が行われる世界
- ネクタネボ1世が第30王朝を建てる世界
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紀元前380年代の出来事(年表・62件)
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PC版では、地域ごとの縦の線で出来事の流れを図として追えます。同じ時期に世界の別の場所で何が起きていたかが、ひと目で比べられます。
楚の令尹(宰相)呉起が、政治、行政、軍制改革に着手し、最初の一連の法令を定めた。呉起は、この国から腐敗を一掃し、特権を制限しようと取り組んでおり、それに反発していた楚の高官や貴族たちは呉起への怒りや不信を高めた。
アテナイの将軍トラシュブロスが、三段櫂船の艦隊を率い、エーゲ海の諸都市からの献納を集め、民主派の政権がスパルタと戦っていたロドス島の救援に向かった。この遠征中に、トラシュブロスはビュザンティオンを陥れ、ヘレスポントス(ダーダネルス海峡)を通る船に課税し、エーゲ海の島々の多くから献納を集めた。
秦が晋に侵攻した。
斉の田和が魏や楚や衛と濁沢で会盟し、諸侯となることを求めた。
スパルタ王アゲシラオス2世が率いるスパルタ遠征軍は、コリンティアコス湾を渡って反スパルタ同盟に加わっていたアカルナニアを攻撃した。アゲシラオスは、最後には敵を会戦に引き出し、アカルナニ勢を潰走させた。
歴史書『春秋』の代表的な注釈書で、左丘明という盲目の歴史家の作とされる『春秋左氏伝』が、この年までに成立した(より古い可能性がある)。
スパルタ王アゲシラオス2世が率いるスパルタ軍は、アルゴスを攻めた。これに会戦を挑むアルゴス軍がいなかったため、スパルタ軍は、しばらく農村部を略奪した後、占いがいくつかの凶兆を告げたのを受けて、スパルタに帰還した。
アリストパネスの喜劇『福の神 (Plutus)』が初演された。
アテナイの将軍トラシュブロス はレスボス島に赴き、ミュティレネ人の支援を受けて、同島のスパルタ勢を破って多数の都市を帰順させた。しかし、トラシュブロスが金銭勘定に厳しいことに反発していたアスペンドス (Aspendos) の町から来た襲撃者たちによって、トラシュブロスは殺害された。
アテナイ帝国への野望の復活を懸念したアケメネス朝ペルシア帝国のアルタクセルクセス2世と、スパルタ王アゲシラオス2世は、同盟を結んだ。スパルタはまた、シュラクサイの僭主ディオニュシオス1世 (Dionysius I of Syracuse) の支援も取り付けた。
ソクラテスの死後アテナイを離れたプラトンは、メガラを訪れた。またおそらくエジプトも訪れた後、ディオニュシオス1世の義弟ディオンの招きを受けてシュラクサイへ赴いた。
趙の武侯が死に、国人は烈侯の太子章を立て、敬侯となす。
秦の恵公が死に、子の出公が即位する。
ローマがブレンヌス率いるガリア人に侵略された後に再建を開始する。
プラトンがアテネにアカデメイアを創設する。紀元前347年からそこでアリストテレスを教えた。
アッリアの戦いに勝利したケルト系セノネス人がその王ブレンヌスに率いられローマ市を蹂躙。 前独裁官マルクス・フリウス・カミッルスがローマを救援し、ケルト系セノネス人を追い払う。 大王の和約(アンタルキダスの和約)によりコリントス戦争終結。 プラトンがアカデメイア学園を創設。
ルカニア人 (英語版) の助けを借り、シラクサのディオニュシウス (英語版) はイタリア本土のトゥリ (英語版) やクロトーネやロクリの領土を征服する 。 レギウムが陥落した時、ディオニュシウスはギリシア人の南イタリアの最有力者となる。そして彼は注意をアドリア海へと向ける。
マルクス・フリウス・カミルスがユピテル神殿を称え、ローマの首都がガリア人に奪われなかったことを記念して 、カピトリウム競技会:en:Capitoline Games (:en:Ludi Capitolini) を始める。
アンタルキダスのスパルタ艦隊はヘレスポントスを支配下に置き、スパルタはアテネのボスポラス貿易と関税を分断する。アテネ人は、約20年前のペロポネソス戦争で負けペルシアの調停に直面した時に、似た状況にあったことを覚えていたので、よって和約を結ぶ用意が整う。
呉起が楚に亡命する。
ペルシア王 アルタクセルクセス2世の支援により、スパルタ王 アゲシラオス2世は「大王の和約」(英語版) (スパルタの使節と指揮官にちなみ「アンタルキダスの和約」(英語版)とも)を、スパルタに有利な方式でギリシア同盟軍と結ぶ。
スパルタ海軍司令官のアンタルキダス(英語版)は、積極的にアテネと敵対するペルシアを支援する。アビュドス(英語版)でのアテネの封鎖から脱出すると、彼はアテネの小軍勢を攻撃して打ち負かし、シラクサから送られた支援隊と自分の艦隊を合流させる。
韓の烈侯が死に、子の文侯が即位する。
プラトンは、あまりにも広く言論の自由を行使してしまったがゆえに、ディオニュシウスにシラクサを離れる事を強いられる。プラトンはアテネへと戻り、その郊外に学校を創設する。
スパルタの介入の脅迫の下、テーバイは同盟を解散し、アルゴスとコリントスは共同政府を解散する。コリントスは、強固な盟友から引き剥がされ、スパルタのペロポネソス同盟へ加入させられる。8年間続いたコリントス戦争はこうして終結する。
キュプロス王エウアゴラス(英語版)やエジプトのファラオハコルへの支援(両者ともペルシアと交戦状態にあった)といったアテネの行動にペルシアは悩まされ、その敵を支援することによりスパルタを弱体化させる政策はすでに賢くないと理解する。
秦が蜀を攻撃し、南鄭を取る。
趙が、邯鄲に都を築き、中牟(現在の河南省鶴壁市山城区)から遷都した。
前年の「大王の和約」(the King's Peace)(「アンタルキダスの和約」(Peace of Antalcidas))によってスパルタからの攻撃を遠ざけたアケメネス朝ペルシア帝国は、キュプロスとエジプトの平定に力を振り向けた。
シュラクサイのディオニュシオス1世は、シュラクサイの影響力と交易をアドリア海にまで広げ、植民都市を、最も北ではエトルリアのハドリア(現在のアトリ)などに建設した。
趙の公子朝が反乱を起こし、魏に亡命した。公子朝は魏とともに邯鄲を襲撃したが、敗れた。
太公望の子孫が公位を継承してきた斉(姜斉)に代わり、田和が新たに田斉を建て、周の安王により諸侯と認められた。 趙の敬侯が中牟(河南省鶴壁市)より邯鄲(河北省邯鄲市)に遷都する。
斉の太公が死去し、子の田剡が即位した。
デモクリトスが、天の川は多数の星からできていると述べた。
韓が鄭を攻撃して陽城を奪い、宋を攻撃して悼公を捕らえた。宋の国人は子の休公を立てた。
秦で庶長が献公を河西から迎えて擁立し、出公とその母を殺して深淵に沈めた。
プラトンが、数学、天文学、その他の科学を、哲学とともに教えるアカデメイアを開いた。アカデメイアは、アッティケーの英雄アカデモス (Akademos) に捧げられたものであった。その経費はすべて篤志家が負担しており、生徒は学費などを何も支払わなかった。
斉が魯を攻撃した。
フェライのイアソン (Jason of Pherae) が、テッサリアの僭主となった。
シュラクサイのディオニュシオス1世が、エピロス王アルケタス1世の復位を画策した。
バルデュリス (Bardyllis) が、イリュリアとダルダニ人 (Dardani) の王となり、ダルダニア王国バルデュリス朝を開いた。
執政官経験者でもあるマルクス・マンリウス・カピトリヌスが、王位を狙ったとして処刑された。
アテネの雄弁家リュシアスは、オリンピアードの期間に、ギリシア人がシラクサの僭主ディオニュシオス1世及びバルバロイのペルシア人に支配されたことを非難した。
バビロニア暦に、19年の月周期(メトン周期)が導入された。
シシュナーガ朝カーラーショーカ王の呼びかけにより、毘舎離(現在のインド東部ビハール州ヴァイシャーリー県)で、第2回の「三蔵の結集」(Second Buddhist council) が行なわれた。この結集は、根本分裂の契機となった。(年代には異説がある)
魏が趙軍を兔台で破った。
秦の献公が雍城から櫟陽に遷都する。
スパルタの指揮官ポイビダスは、進軍のためにボイオーティアを通りかかったところで、テーバイの内紛に乗じて軍勢とともに市内に入った。ひとたび市内に入ると、スパルタ勢はテーバイの城塞であるカドメア (Cadmea) を占拠し、反スパルタ派の市民を町から追い出した。
マケドニア王アミュンタス3世がカルキディア同盟 (Chalkidian League) と一時的な連合を結んだ。ギリシアを群雄割拠のままにしておきたいスパルタは、遠征軍を北へ派遣し、マケドニアの東に位置する、カルキディケー半島(現在のハルキディキ県周辺)の諸都市の連邦国家であった、カルキディア同盟に介入した。
前年のテーバイの占拠の際に、承認なく独走したことを咎められ、ポイビダスは指揮官を解任されたが、スパルタは引き続き、テーバイを確保し続けた。スパルタ王アゲシラオス2世は、ポイビダスの行動はスパルタに利益をもたらしたのであり、行動は国に利益をもたらすか否かで判断すべきだとして、ポイビダスを罰することに反対した。
テーバイの将軍で政治家であったペロピダスは、アテナイに逃れ、スパルタの支配からテーバイを解放する活動を率いるようになった。
アケメネス朝ペルシア帝国の将軍ティリバゾス (Tiribazus) とオロンテス (Orontes) が、キュプロス王エウアゴラスが動員できる兵力を遥かに越える数の軍勢で、キュプロスを侵略した。これに対して、エウアゴラスはペルシア軍の補給路を何とか断ち、食料不足に陥ったペルシア軍は反乱を起こした。
楚の悼王が死去し、庇護者を失った呉起は殺害される。
ローマに反乱を起こしたトゥスクルムが鎮圧、平定された。ローマへの完全な服従を表したトゥスクルム人たちは、最初の「自治都市 (municipium cum suffragio)」と認められ、行政体 (municipium ムニキピウム) としての地位を保つこととなった。
スパルタは、紀元前427年に破壊したプラタイアを再建し、中央ギリシャへの影響力を高めた。
ペルシア帝国はアテナイに圧力をかけ、エジプトから将軍カブリアス (Chabrias) を撤退させた。カブリアスはそれまでに、エジプトの歴代ファラオを支援し、アケメネス朝ペルシア帝国からのエジプトの独立を堅持していた。
斉が燕を攻撃し、桑丘を奪った。
一部の歴史家が「リッチ・スタイル (rich style)」と称する様式が、ギリシアで終焉を迎える。
魏・韓・趙が斉を攻撃し、桑丘に達した。
ネクタネボ1世がエジプト第30王朝を建てる。 ネクタネボ1世はフィラエ神殿・デンデラ神殿ほか記念建造物の造営を盛んに行う。
エジプトのファラオだったハコルが死去し、息子の ネフェリテス2世 (Nefaarud II) が後を継ぐが、1年もたたない間にネクタネボ1世によって追放され、第29王朝 (Twenty-ninth dynasty of Egypt) は途絶えた。
クレオンブロトス1世が、兄アゲシポリス1世の跡を継いでスパルタ王となる。
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よくある質問
紀元前380年代は何年から何年まで?
紀元前380年代は紀元前389〜前380年です。
紀元前380年代に起きた主な出来事は?
紀元前380年代(紀元前389〜前380年)は、ケルト系セノネス人がローマ市に侵入し、ギリシアでは大王の和約によってコリントス戦争が終結しました。アテネではプラトンがアカデメイアを創設し、中国では斉で田和が田斉を建てて諸侯と認められました。
参考にした Wikipedia の記事(11 件・CC BY-SA 4.0)
Wikipedia 日本語版の記事。文章は CC BY-SA 4.0 で提供されています。
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