WORLD HISTORY · 紀元前500〜前1年
紀元前230年代の出来事紀元前239〜前230年
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紀元前230年代に起きた主な出来事は?
紀元前230年代(紀元前239〜前230年)は、秦で嫪毐の乱を機に呂不韋が失脚して李斯が丞相となり、秦は韓を滅ぼしました。地中海ではローマがサルディニアを併合し、カルタゴのハミルカル・バルカがイベリア半島へ軍を向けました。
- ローマがサルディニアを併合世界
- プトレマイオス3世がカノプス勅令世界
- 嫪毐の乱で呂不韋が失脚世界
- 李斯が諫逐客書で追放令を撤回させる世界
- ハミルカルがイベリア半島へ進出世界
- エラトステネスが図書館の第3代司書に世界
- 万里の長城の建設が始まる世界
- 秦が韓を滅ぼし潁川郡を置く世界
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紀元前230年代の出来事(年表・76件)
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嫪毐が長信侯に封ぜられ、山陽の地を与えられた。さらに河西太原が嫪毐の封国となった。
サルディニアがカルタゴに反乱を起こし、ローマが機に乗じてこの島を併合する。
ディオドトス1世がパルティア軍を破る。まもなく亡くなり、息子のディオドトス2世が後を継ぐ。
セレウコス2世の弟でセレウコス朝アナトリアの支配者であるアンティオコス・ヒエラクスが、シリアに軍を送る。名目上はセレウコスの援助だが、実際には残りの帝国を併合するためだった。エジプトと講和を結んだ後、セレウコス2世はアナトリアをすぐさま攻め、「兄弟の戦争」が始まる。
秦の王弟の長安君成蟜が軍を率いて趙を攻撃していた際に、屯留で反乱を起こして死去した。
魏が趙に鄴を割譲した。
ハミルカル・バルカの傭兵の乱の捕虜を赦免する寛容さが、他の者の離反を誘発することを懸念したため、マトースとスペンディオスは、Gescoを含むカルタゴの「約700人の」囚人の手足切断と処刑を命じた。傭兵たちはすべて残虐行為で有罪になるため、離反者はあえてハミニカルの元でカルタゴの裁きを受けられなかった。
韓の桓恵王が死去し、子の韓王安が即位した。
カルタゴが傭兵に包囲され、ウティカ市が反乱を起こしてカルタゴから分離しようとする。カルタゴはヒエロン2世とローマに傭兵に対する援助を要請する。しかし傭兵の指導者はローマの仲介を拒否する。
アイトーリアを戦列に加えて、シキュオンのアラトス率いるアカイア同盟は再びアテネとアルゴスを攻撃する。
マケドニア王アンティゴノス2世が死去し、デメトリオス2世が後を継ぐ。
ハミルカルの軍は、リビアで反乱を起こしたいくつかの街を次々と征服し、ウティカとヒパクリテアを除く街は降伏した。
プトレマイオス3世によりカノプス勅令が出される。
イランの遊牧民族であるパルニ氏族の長であるアルサケス1世は、パルティアに侵略し、サトラップであるアンドラゴラスを殺害した。
大ハンノに率いられたカルタゴ軍の増援部隊が戦いに加わった。彼らはマトスの傭兵軍を破り、マトスを捕らえた。
秦が魏を攻撃し、垣と蒲陽を奪った。
共和政ローマは、サルデーニャの支配権を巡って、カルタゴに宣戦布告した。しかしカルタゴはローマに逆らわず、サルデーニャに対する一切の主張を放棄した。
ハミルカル・バルカは、カルタゴを包囲する傭兵の軍の補給線を攻撃し、街の包囲を解いた。彼はその後、傭兵の軍と何度も戦って均衡を崩した。ハミルカルは、のこぎり山の戦いで、箱の側面のように垂直に切り立った断崖を成す峡谷に傭兵軍を追い込み、包囲した。
スペンディウスに率いられた傭兵軍は、包囲を解こうと戦ったが、カルタゴ軍にことごとく阻止された。この戦いの後、ハミルカルは4万人もの傭兵を処刑した。
秦の長信侯嫪毐の乱が鎮圧され、連座して呂不韋が失脚、李斯が丞相となる。 楚の考烈王が死去し、春申君が殺害される。 考烈王の陵墓は安徽省淮南市の武王墩一号墓と特定されている。
秦の嫪毐が王の御璽と偽って兵を起こし、蘄年宮を攻撃しようとした。呂不韋および昌平君と昌文君が兵を発して嫪毐を攻撃し、咸陽で戦って嫪毐を敗走させた。嫪毐らは捕らえられて、その一族を滅ぼされた。
カルタゴ軍はウティカとヒパクリテアを包囲し、占領し、カルタゴの市民戦争は終結した。
秦の太后が雍の萯陽宮に移され、その2子が殺害された。
秦王政が雍に入り、加冠と帯剣の礼をおこなった。
マトスはハンニバル軍の守備の弱点を突いて攻撃を仕掛け、ハンニバルと数人の将軍を捕らえた。傭兵軍は、捕らえた数人の将軍を虐殺した。
秦で4月に寒気に襲われ、民衆に凍死者が出た。
秦の楊端和が魏を攻撃し、衍氏を奪った。
ハミルカルとハンニバル(ハンニバル・バルカとは別人)の軍は、チュニスでマトスの傭兵軍を包囲し、傭兵軍の守る城壁から見えるところで捕虜にした傭兵軍の指導者らを磔に処した。
ハミルカル・バルカが敵の傭兵をうち破ったことで、カルタゴ内での政治的地位が上昇し、イベリア半島の侵略を推進しようとした。しかし、地主への広報者である大ハンノはこの侵略政策に反対した。
秦王政が斉人の茅焦の進言を容れて、母の太后を雍から迎えて咸陽に入れ、再び甘泉宮に住まわせた。
秦で他国人の追放令(逐客令)が出された。李斯は、手紙を秦王政に出して追放令の撤回を求めた。この「諫逐客書」は実に理路整然とした名文で、後に文選にも収録されているほどである。政もこの名文に説得されて追放令の撤回を決めた。
秦の相国の呂不韋が前年の嫪毐の事件に連座して罷免された。
斉と趙が秦に来朝し、酒宴が開かれた。
それにもかかわらず、ハミルカル・バルカは共和政ローマとの戦争を再開できる拠点を作る目的で、イベリア半島に軍を向けた。ハミルカルは、類稀な統率力と外交力で、カルタゴの支配権を多くのスペインの部族に広げた。
母のラオディケ1世の助力を得て、アンティオコス・ヒエラクスはガラティア及び元々セレウコス朝に敵対する2つの国と同盟を結んだ。これらの力を得て、彼は兄のセレウコス2世の軍をアナトリアのアンカラで破った。セレウコス2世は国を去り、トロス山脈を越えた。
エラトステネスがプトレマイオス3世からアレクサンドリア図書館の第3代司書に任命された。
秦の将軍の王翦・桓齮・楊端和が趙を攻撃し、鄴を攻め、9城を奪った。王翦が閼与と轑陽を攻め、桓齮が鄴と安陽を奪った。
趙が燕を攻撃し、貍と陽城を奪った。
蜀への流刑が決定した呂不韋が毒を飲んで自殺した。
アッタロス1世の下で、ペルガモン王国が勢力と地位を増してきた。
シキュオンのアラトスによってメガロポリスがアカイア同盟に参加した。
秦で6月から雨が降らず、8月にいたった。
行政官リュサンドロスは神からの啓示を受け、スパルタ王レオニダス2世に対抗すると宣言し、レオニダスは裁判から逃げるため姿をくらませた。レオニダスは不在中に王位を追われ、義理の息子のクレオンブロトス2世が王位に就いた。
秦で嫪毐の旧部下で蜀に流されていた者たちが復帰した。
古代ローマの叙事詩人、劇作家であるグナエウス・エナウィウスの作品が初めて上演された。
執政官ティトゥス・マンリウス・トルクァトゥスが中心となり、平和を示すため史上初めてヤヌス神殿の門が閉められた。
秦が4郡の兵を発して魏を助け、楚を攻撃した。
コルシカ、サルデーニャ、リグリアがローマに反抗したが、成功しなかった。
パトナで仏教の第6回全体会議(サンガ)が開催された。
ギリシアの都市メガロポリスがアカイア同盟に加盟した。
秦王政が河南に赴いた。
秦の桓齮が趙を攻撃し、趙将の扈輒を平陽で破った(平陽の戦い)。
ギリシアの都市プレウローンがデメトリウス2世により破壊された。
イピロスの連携関係が、それぞれ独自の議会を持ち連邦州を形成するイピロス同盟になった。
万里の長城の建設が始まった。
桓齮がまた趙を攻めた。
秦の桓齮が趙を攻撃し、宜安・平陽・武城を奪った。
趙の李牧が大将軍となり、宜安・肥下で戦って、秦軍を撃破した。桓齮は敗走した。幽繆王は李牧を武安君に封じた。
ローマ元老院及び自身の父の反対に関わらず、ガイウス・フラミニウスは平民に土地を分配することを承認させた。ローマ北部の土地は小区画に分けられ、第一次ポエニ戦争で田畑が荒らされた貧しい市民に分配された。
秦が大軍を興して趙を攻撃し、一軍が鄴に向かい、一軍が太原に向かって狼孟を奪った。李牧と番吾で遭遇して、秦軍は敗れて帰還した。
クレアンテースの死後、ソロイのクリュシッポスがストア派の第3代学頭になった。ストア主義に関する多くの著書により、彼はストア主義第二の創設者と呼ばれるようになった。
人質として秦にいた燕の太子丹が帰国した。
セレウコス朝の王セレウコス2世はパルティアを奪還するためイランへの遠征を行っていたが、実現しなかった。いくつかの出典によると、彼はパルティア王アルサケス1世によって数年間捕虜にされたという。また別の出典では、彼はパルティアへの支配権を認められ、アルサケス1世と和平を結んだと言われている。
マケドニア王国の王デメトリウス2世はアエトリアに対抗するため、イリュリアの王アグロンに対してイピロス北部のアドリア海に出兵を要請した。イリュリアの兵はアエトリア軍を敗走させ、領土を取り返した。
魏が秦に土地を割譲した。秦はそこに麗邑を置いた。
韓が秦に南陽の地を割譲した。秦は内史騰を仮の南陽郡守とした。
代で地震が起こった。楽徐から以西、北は平陰まで被害が及んだ。家屋や牆壁の大半が壊れ、地割れが東西百三十歩に及んだ。
共和政ローマはメッサリアに使節を送り、そこを本拠とするカルタゴの将軍ハンニバルと交渉した。
秦が韓を滅ぼす。
イリュリアの王アグロンが死去した。アグロンと最初の妻トリテウタの間の子ピネスが公式には父の後を継いで王になったが、実質的には後妻のテウタによって実権が握られていた。彼女はギリシア人をイリュリアの沿岸から追い出し、イオニア海にイリュリアの海賊を送ってローマの船を襲わせた。
秦の内史騰が韓を攻撃し、韓王安を捕らえて、その地を併呑した。潁川郡が置かれた。
プトレマイオス3世がホルス神殿を建設した。
クベーラ王がアーンドラ・プラデーシュ州ゲントゥールのバッティプロールを支配した。
アッタロス1世が慣習の貢ぎ物を贈るのを拒否したため、ペルガモン王国の都市がガラティア(アナトリア中央部に住み込んだケルト人)によって攻撃された。アッタロス1世は都市壁の外の戦いで敵を破って王の座を守り、Soterという名前を得た。
ローマの商人がイリュリアの海賊に殺されたため、ローマからイリュリアへ使節が送られた。ローマの大使ルキウス・コルンカニウスとイッサ族の大使Cleemporusが海でイリュリアの兵士に殺されると、ローマ軍はケルキラ島を占拠した。
趙で大飢饉があった。
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よくある質問
紀元前230年代は何年から何年まで?
紀元前230年代は紀元前239〜前230年です。
紀元前230年代に起きた主な出来事は?
紀元前230年代(紀元前239〜前230年)は、秦で嫪毐の乱を機に呂不韋が失脚して李斯が丞相となり、秦は韓を滅ぼしました。地中海ではローマがサルディニアを併合し、カルタゴのハミルカル・バルカがイベリア半島へ軍を向けました。
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