WORLD HISTORY · 紀元前500〜前1年
紀元前250年代の出来事紀元前259〜前250年
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紀元前250年代に起きた主な出来事は?
紀元前250年代(紀元前259〜前250年)は、中国で西周が秦に降伏して周が事実上滅亡し、秦の李冰が岷江に都江堰を築きました。ディオドトス1世がセレウコス朝から独立してバクトリア王国を建て、プトレマイオス2世が聖書をギリシア語に訳させました。
- 信陵君が邯鄲で秦軍を撃破世界
- 蜀泮が文郎国を破り甌駱を建国世界
- 李冰が岷江に都江堰を築く世界
- 西周が秦に降り周が事実上滅亡世界
- スリランカに仏教が伝わる世界
- ディオドトス1世がバクトリア王国を建国世界
- アショーカ王のもと第3回結集が開催世界
- プトレマイオス2世が聖書をギリシア語訳世界
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紀元前250年代の出来事(年表・70件)
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PC版では、地域ごとの縦の線で出来事の流れを図として追えます。同じ時期に世界の別の場所で何が起きていたかが、ひと目で比べられます。
趙の孝成王は、虞卿の意見を容れて、斉に6城を割譲した。秦のために趙で工作していた楼緩が逃亡した。
秦の白起は軍を三分し、王齕が趙の武安・皮牢を攻め落とし、司馬梗が北方の太原を平定して、上党の地を全て占領した。
秦の昭襄王は、応侯范雎の意見を容れて、韓が垣雍を、趙が6城を秦に割譲することで講和に応じることとした。
ハミルカルに率いられたカルタゴ軍は、シチリアでローマ軍に反撃し、エンナを占領した。ハミルカルはシラクサまで南下を続け、シラクサがカルタゴ側に戻るよう説得を行った。
セレウコス朝の王アンティオコス2世は、父が失った土地を奪還するため、プトレマイオス2世に対し、第二次シリア戦争を開始した。アンティオコス2世は、同様にプトレマイオス2世による侵攻を受けていたマケドニアのアンティゴノス2世を味方につけた。
秦の昭襄王は丞相の范雎の仇である魏斉が趙の平原君のもとにいると知ると、孝成王に圧力をかけて平原君の邸を包囲させた。魏斉は虞卿とともに魏の信陵君の庇護を求めた。信陵君が受け入れを躊躇っているうちに魏斉は自殺した。
エラシストラトスは、アレクサンドリアに医学校を設立した。
文郎国が滅亡した。
カルタゴとの海戦で大きな勝利を収めたローマの将軍ガイウス・ドゥイリウスは、ルシウス・コルネリウス・スキピオとともにケンソルとなった。ケンソルへのノウス・ホモの選出は、非常に稀な名誉であった。
魏の安釐王は趙を救援するため将軍の晋鄙に10万の兵を率いて進軍させたが、秦から脅迫を受けて晋鄙の進軍を停止させていた。趙の平原君が信陵君に手紙を書いて決断を促すと、信陵君は晋鄙を殺して軍権を奪い、邯鄲の救援に向かった。
マケドニア王アンティゴノス2世とセレウコス朝の王アンティオコス2世の軍勢は、プトレマイオス2世とのコスの戦いで勝利した。この勝利により、マケドニアのエーゲ海の支配が確立し、またエジプトの海軍力が衰退した。
プトレマイオス2世はキレナイカの支配を失った。
ローマは、エンマとカマリナを奪還し、シチリアの支配権をカルタゴから取り戻した。シチリア中部で、ローマ軍は、かつて2度攻撃していたMytistratonを奪い、さらに北進してパノルムスに至ったが、この町を奪うことはできなかった。
秦の王陵が趙の邯鄲を攻撃したが、劣勢となったため、昭襄王は病から回復した白起に交代させようとした。白起が固辞したため、王陵を王齕に代わらせた。
趙の孝成王は平原君を楚に派遣して援軍を要請させた。平原君の食客の毛遂の働きにより、交渉は成功した。楚の考烈王は春申君に援軍を率いさせて趙に派遣した。
趙の人質になっていた秦の公子異人が呂不韋の援助を受けて邯鄲を脱出し、華陽夫人の養子となり、名を楚と改めた。
魏の信陵君が秦軍を邯鄲城下で撃破し、王齕は邯鄲の包囲を解いて敗走した。鄭安平が趙に降伏したが、范雎は鄭安平を推挙した罪を問われなかった。
蜀泮は、文郎国を破り、西駱と駱越を統一して甌駱を建国した。
秦の昭襄王が白起に自殺を命じた。
マルクス・アティリウス・レグルスに率いられたローマ軍とカルタゴ軍の間で、シラクサでティンダリスの戦いが行われた。シラクサの僭主ヒエロン2世は、ティンダリスをカルタゴの基地とすることを許された。しかしこの戦いの後、この町はローマ軍の手に落ちた。
ローマ軍は、サルデーニャを攻撃し、カルタゴからの奪還を試みた。
秦の将軍摎が韓を攻撃し、陽城・負黍を陥落させた。さらに趙を攻撃し、20県あまりを奪った。
カルタゴの南東64㎞のアディス近郊で、カルタゴ軍とレグルスに率いられたローマ軍との間で、アディスの戦いが行われた。ローマ軍は大勝し、カルタゴ軍は和平を求めた。交渉の過程で、レグルスはカルタゴに無条件降伏とシチリア、コルシカ、サルディニアのローマへの譲渡、海軍の放棄、保障金の支払い、ローマに隷属する条約の締結を求めた。
秦が東周を滅ぼす。楚が魯を滅ぼす。
エクノモス岬の戦いの後、ローマ軍はカルタゴの領土に上陸し、破壊行為を始めた。ローマ軍はすぐにカルタゴから東に40マイルのケリビアを占領した。ローマ軍を町の守りに就かせた後、2人の執政官は、本国から、ウルソは多くの兵を連れてローマに戻り、レグルスは歩兵と騎兵を率いてその地に留まり、戦争を終結させるようにとの指令を受けた。
秦の蜀郡郡守の李冰が成都平原を灌漑するために岷江に都江堰を築いた。
楚が魯を滅ぼし、魯の頃公は莒に移された。
西周の文公は諸侯の軍を結集し、伊闕を出て秦を攻撃して、陽城との連絡路を遮断しようとした。秦の昭襄王は将軍楊摎に西周を攻撃させた。西周の文公は秦に降伏し、その領土を献上した。赧王も秦の庇護下に入ったが、まもなく死去した。周はここに事実上滅亡したが、東周君の昭文君の国が7年間存続した。
ローマ軍は、第一次ポエニ戦争を早期に終結させるため、北アフリカのカルタゴの植民地を侵攻することを決めた。ハミルカルに率いられたカルタゴ軍はこれを阻止しようとしたが、執政官マルクス・アティリウス・レグルスとルキウス・マンリウス・ウルソ・ロングスに率いられたローマ軍は、シチリア南岸のエクノモス岬の戦いでカルタゴ軍を破った。
スリランカに仏教伝わる。
周の民が東周に逃れた。秦は周の宝器を奪って、西周公の身柄を憚狐の聚に移した。
アディスの戦いに敗れたカルタゴはスパルタ人の傭兵Xanthippusを雇い、軍を再編した。Xanthippusに率いられた新生カルタゴ軍は、チュニスの戦いでローマ軍を破り、指揮官のマルクス・アティリウス・レグルスを捕えた。レグルスの救出に向かったローマ軍の艦隊は、シチリア沖の嵐で難破した。
楚の春申君が荀況を蘭陵令として登用した。
セレウコス朝のサトラップであったディオドトス1世は、アンティオコス2世に対して反乱を起こし、グレコ・バクトリア王国を建国した。
蔡沢が秦の相国となったが、数カ月で辞任した。
第二次シリア戦争で、プトレマイオス2世は、シリシア、パンフィリア、イオニアの領土を失い、アンディオコス2世は、ミレトスとエフェソスを奪回した。その後、アンティオコスとプトレマイオスの間で和平が結ばれ、アンティオコスはプトレマイオスの娘ベレニケと結婚した。
秦の河東郡守の王稽が諸侯と通じた罪で処刑された。自分が推挙した人物が次々と失態を犯したことに恐縮した范雎は、蔡沢の意見を容れて致仕した。
ギリシア人ディオドトス1世がセレウコス朝シリアより独立してバクトリア王国成立。 都はバクトラ(現バルフ、バラヒッサール遺跡)で、他にアムダリア川北岸のタフティサンギン遺跡(バクトリアの遺宝)や、南岸のアイ・ハヌム遺跡が有名。
エラトステネスが天球を模した天球儀を発明した。
それまでパトリキに独占されていた最高神祇官職に、初めてプレブス出身のティベリウス・コルンカニウスが就任した。
執政官グナエウス・コルネリウス・スキピオ・アシナとアウルス・アティリウス・カラティヌスに率いられたローマ軍は、シチリアの都市パレルモを占拠した。
諸侯が秦に入朝したが、魏の入朝が遅れたため、秦の将軍摎が魏を攻撃し、呉城を奪った。魏は秦の命に従うようになった。
ローマは、シチリアの都市アグリジェントの支配権をカルタゴに奪われた。
アンティゴノス2世の甥で摂政のアレクサンダーは、プトレマイオス2世の支援を受けてコリントスで反乱を起こし、自身を独立国の国王であると宣言した。結果、アンティゴノスは、ギリシア南部の支配の拠点であったコリントスとハルキスを失った。アイトーリアがテルモピュレを占拠すると、アンティゴノス2世はアテネから追放された。
楚が鉅陽に遷都した。
ミレトスの町を奪還し、アンティオコス2世は町の僭主を退位させた。ミレトスの町民は、アンティオコス2世を神として崇拝した。
秦の昭襄王が雍で上帝を祀る郊祭をおこなった。
ティベリウス・コルンカニウスは、ローマの最高神祇官に選ばれた最初のプレブスとなった。
ローマ軍の船150隻がマルサーラからローマへの帰途、難破した。
戦争の結果、アンティオコス2世はプトレマイオス2世の娘ベレニケと結婚した。アンティオコス2世は前妻のラオディケ1世と離婚し、ベレニケの子供に相続権を移した。
セレウコス朝とプトレマイオス朝の間で行われた第二次シリア戦争が終結した。アンティオコス2世は、プトレマイオス2世から、ミレトスやエフェソス、フェニキアを含むアナトリアの大部分を奪還した。
シキュオンの僭主アバンティダスは暗殺され、父のパセアスが後を継いだ。
衛の懐君が魏に入朝して、魏の人に捕らえられ、殺害された。弟の元君が即位した。元君は、魏の女婿であった。
秦の昭襄王が死去し、孝文王が立った。
マケドニア王アンティゴノス2世の許可を受けたニコクレスは、シキュオンの僭主パセアスを暗殺した。ニコクレスは、僭主として4か月間シキュオンを治めたが、その間に80人の市民を追放した。その後、アラトスに率いられたシキュオンからの追放者によって、夜間にシキュオンの要塞が奇襲を受けた。
アラトスは、ニコクレスによって追放された市民をシキュオンに呼び戻した。これにより、街は2つに分かれた。アンティゴノス2世は、この不和をついて町を攻めた。アラトスは、町をアカイア同盟に加盟させ、マケドニアから同盟を守るための財政的な支援をエジプト王のプトレマイオス2世から取り付けた。
ルキウス・カエシリウス・メテルスに率いられたローマ軍は、カルタゴが支配する港町パノルモスを攻撃した。パノルモスの戦いの後、ハスドゥルバルに率いられたカルタゴ軍は敗れ、町は陥落した。
燕王喜は長平の戦いによって趙が弱体化しているとの栗腹の報告を受けて、趙を攻撃することに決めた。燕軍が宋子まで進軍すると、趙は廉頗を将として迎撃し、栗腹を鄗で破った。趙の楽乗は卿秦を代で破り、北に500里あまりも追撃して、燕を包囲した。燕王が将渠を使者として講和を求めさせると、趙軍は包囲を解いて撤退した。
パノルモスが占領された後、シチリア西部の多くの街も陥落した。ソロウス、ペトラ、ティンダリスの町は、同じ年にローマと平和条約を結んだ。この敗北により、カルタゴのシチリア遠征は終了した。
紀元後400年頃 - ローマの温暖期。
上座部仏教の伝承によると、マウリヤ朝のアショーカ王により、パータリプトラでモッガリプッタ・ティッサの指導の下、第3回結集が開催された。その目的は仏教運動、特に王族の支援者にとって魅力的な日和見的な機能を純化することであった。
パルティアのサトラップであるアンドラゴラスは、セレウコス朝の王アンティオコス2世の支配から独立することを画策した。
伝承(Horace, Odes, iii. 5)によると、パノルムスの戦いで負けた後、カルタゴは投獄していたマルクス・アティリウス・レグルスを仮釈放してローマに派遣し、和平と捕虜の交換の交渉を行おうとした。しかし彼は到着すると、ローマ元老院に対して、提案を拒絶し、戦争を続けることを強く進言した。
燕の将軍が斉の聊城を攻め落とした。斉の田単は聊城を奪回しようとして落とせず、魯仲連に矢文を書かせて城中に射こませると、燕将は自殺し、聊城は陥落した。田単は魯仲連に爵位を与えようとしたが、魯仲連は海上に逃亡した。
第1次ポエニ戦争で、ローマ軍はシチリアの南西部に軍勢を向けた。カルタゴの都市マルサーラに海軍が送られ、その途上ローマ軍はセリヌスの都市を焼き払った。
秦の孝文王が即位したが、3日後に死去した。子の荘襄王が即位し、華陽夫人が華陽太后、夏姫が夏太后となった。
サールナートに「アショーカの獅子柱頭」が建設された。この柱は、現在はサールナート博物館に所蔵されている。
プトレマイオス2世は、アレクサンドリア在住のユダヤ人に聖書をギリシア語訳させた。約70人の翻訳者が携わったことから、七十人訳聖書として知られている。
キュレネ王マガスの死去に伴い、未亡人の女王アパマ2世とアンティゴノス2世は、半弟のデメトリウスをマガスとアパマの娘ベレニケ2世と結婚させようとした。しかしデメトリウスが到着すると、アパマが彼の愛人となった。それに対して、ベレニケ2世は反乱を起こし、デメトリウスはアパマの寝室で殺された。
パトナーで出土したマウリヤ朝の彫刻作品Didarganj Yakshiが作製された。この像は、現在はパトナー博物館に所蔵されている。
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参考にした Wikipedia の記事(11 件・CC BY-SA 4.0)
Wikipedia 日本語版の記事。文章は CC BY-SA 4.0 で提供されています。
各行の要約は inv-world による独自の文章です。Wikipedia 以外の出典は各行に、参考にした Wikipedia の記事はページの下にまとめて載せています(Wikipedia の記事は CC BY-SA 4.0)。日付は資料の表記を優先し、ユリウス暦・旧暦の日付にはグレゴリオ暦の換算日を併記しています。このページには広告(アフィリエイトリンク・Google AdSense)を含みます。広告には「PR」または「スポンサーリンク」と表示しています。