WORLD HISTORY · 紀元前500〜前1年
紀元前180年代の出来事紀元前189〜前180年
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紀元前180年代に起きた主な出来事は?
紀元前180年代(紀元前189〜前180年)は、アパメイアの和約でローマがセレウコス朝の領土をトロス山脈以東に限り、その後イタリア全土の征服を完了しました。インドではプシャミトラがシュンガ朝を開き、中国では呂后の死後に呂氏一族が誅殺されて文帝が即位しました。
- アルメニア王国がセレウコス朝から独立世界
- アパメイアの和約が結ばれる世界
- 馬王堆の最初の墓が作られる世界
- プシャミトラがシュンガ朝を建てる世界
- ローマで最古のバシリカが完成世界
- ハンニバルが亡命先で服毒自殺世界
- ローマがイタリア全土の征服を完了世界
- 呂氏一族が誅殺され文帝が即位世界
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紀元前180年代の出来事(年表・61件)
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プロコンスルのルキウス・アエミリウス・パウッルス・マケドニクス、スキピオ・アシアティクスと、プロプラエトルのルキウス・アエミリウス・レギッルスが凱旋式を挙行した。
エウメネス2世によってアラシェヒルの街が築かれた。当時は弟のアッタロス2世の渾名「フィラデルホス(兄を愛する)」にちなんで「フィラデルフィア」と呼ばれた。
アンティオコス3世 (セレウコス朝)と和平条約を締結するマンリウスを補佐するため、使節団が派遣された。
執政官グナエウス・マンリウス・ウルソに率いられた共和政ローマ軍はエウメネス2世に率いられたペルガモン王国軍とともに、アナトリアでガラティアを破り、属国とした。
アエトリア同盟はローマへの対抗力を失い、平和条約を結ばされた。アエトリア同盟の名前は残ったが、その勢力は条約によって失われ、政治的、軍事的影響力もなくなった。
ボノニアにラテン植民市を建設するための三人委員会が選出された。
アルタクシアス1世によりアルメニア王国がセレウコス朝から独立する。
執政官フルウィウスはアエトリア同盟との戦争を担当し、マンリウスはスキピオ・アシアティクスの後継として小アジアを担当した。
ケンソルにティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスとマルクス・クラウディウス・マルケッルス (紀元前196年の執政官)が就任、スキピオ・アフリカヌスを3度目のプリンケプス・セナトゥス(元老院第一人者)に指名した。
プロコンスル(前執政官)マルクス・フルウィウス・ノビリオル (紀元前189年の執政官)がアカイア同盟とスパルタの問題に介入した。
執政官サリナトルはガッリア地方を担当、フォルム・リウィイを建設した(後のフォルリ)。
アパメイアの和約により、ローマはアンティオコスに対してギリシアと小アシアの領土をトロス山脈より東とし、12年間で賠償金15,000タレントを支払わせ、カルタゴの前将軍ハンニバルを降伏させた。セレウコス朝はシリア、メソポタミア、西イランの範囲に減らされ、ローマは東地中海の覇権を握った。
アカイア同盟のリーダーであるメガロポリスのフィロポイメンは、彼の軍とスパルタの亡命者を率いてラコニア県北部に侵入した。彼の軍は、前のスパルタとナビスの僭主がスパルタの周りに築いた壁を破壊した。その後フィロポイメンは亡命者にスパルタの市民権を回復し、スパルタの法律を廃止してアカイアの法律を導入した。
プロコンスルのグナエウス・マンリウス・ウルソが10人の使節団と共にアンティオコス3世 (セレウコス朝)との和平と小アシアへの植民を取りまとめ、帰国の途についた。
護民官のプレプス民会決議により、アルピヌム、フンディ、フォルミアエにローマ市民権が付与された。
ハンニバルはクレタ島を経て、ローマの同盟軍であるペルガモン王国のエウメネス2世と敵対していたビチュニアのプルシアス1世のところまで逃げた。
前漢では恵帝が死去、太后呂雉が丞相陳平の助言を受け呂産ら自身の血縁者である呂氏一族を各地に封じた。
アパメイアの和約によって、エウメネス2世はフリジア、リディア、リュキア、ピシディア、パンフィリアをローマの同盟国から得た。ローマはアナトリアの領有を望まなかったが、将来セレウコス朝が拡大する可能性に備えて親ローマで強力な緩衝地帯として残しておきたかった。
プロコンスルのグナエウス・マンリウス・ウルソが帰国し、凱旋式を挙行した。
セレウコス朝の王アンティオコス3世はロレスターン州の自身の王国の東端まで遠征し、エリマイス王国の神殿で略奪を行おうとして殺害された。息子のセレウコス4世が後を継いだ。
外国人担当プラエトル、クィントゥス・テレンティウス・クッレオが12000人のラテン人をローマ市から追放した。
アエミリア街道の建設。
執政官フラミニウスはボノニアからアッレティウムまでの街道を建設した。
護民官クィントゥス・ペティッリウス・スプリヌスらが、アンティオコスからの収賄容疑でルキウス・コルネリウス・スキピオ・アシアティクスの関係者を調査する提案を行った(Lex Petillia de pecunia regis Antiochi)。
ギリシア担当プロコンスル(前執政官)マルクス・フルウィウス・ノビリオル (紀元前189年の執政官)が帰国して凱旋式を挙行し、戦利品でヘーラクレース神殿とムーサ神殿を奉献した。
女王クレオパトラ1世は、プトレマイオス5世の大宰相(Vizier)に指名された。
紀元前201年のローマとの和約に基づく賠償金の残額を一括で支払うことを提案したが、ローマ側に拒否された。
バックス祭の風習がマグナ・グラエキアから広まり、ローマ元老院は「Senatus consultum de Bacchanalibus(バックス祭に関する元老院決議)」を行って弾圧した。教団は管理下に置かれ、少人数での儀式のみが許可された。執政官ピリップスはこのバックス教団の調査に当たった。
プロプラエトル(前法務官)のガイウス・アティニウスが、ヒスパニア・ウルテリオルでハスタ包囲中に殺害された。
シポントゥムとブクセントゥムに植民市を建設するための三人委員会に、グナエウス・バエビウス・タンピルスらが選出された。
ペルガモン王国のエウメネス2世はビチュニアのプルシアス1世を破った。
馬王堆の最初の墓が作られた。
プシャミトラがマウリヤ朝の王ブリハドラタを暗殺し、シュンガ朝を建設した。
クィントゥス・カエキリウス・メテッルス、マルクス・バエビウス・タンピルス、ティベリウス・センプロニウス・グラックス・マイヨルからなる使節団が、マケドニア王国のピリッポス5世と周辺諸国の調整のため派遣された。
Ankhmakisがプトレマイオス朝の将軍Conanusに捉えられ、エジプト北部と南部の内戦が終結した。
スキピオ・アフリカヌスが弾劾される。
ルキウス・マンリウス・アキディヌス・フルウィアヌスが小凱旋式を挙行した。
マケドニア王国の王ピリッポス5世の動向を探るため、アッピウス・クラウディウス・プルケルを長とする使節団がマケドニア王国とギリシアに送られた。
マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス、ルキウス・ウァレリウス・フラックスがケンソルに選ばれ、ルキウス・クィンクティウス・フラミニヌスやスキピオ・アシアティクスを処分した。
スキピオ・アフリカヌスやスキピオ・アシアティクスに対する追及が行われ、それに対し護民官ティベリウス・センプロニウス・グラックス・マイヨルが拒否権を行使した。
既知の最古のバシリカであるBasilica Porciaがカトにより作られ、ローマで完成された。この建物はローマ市民によって、商取引や法的問題の処理のために使われた。
ポテンティア(ポテンツァ近郊)とピサウルムへの植民が行われた。
スキピオ・アフリカヌスがカンパニア州のリテルヌムで死去した。
ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスがビテュニアに派遣され、ペルガモンとの戦争とカルタゴの元将軍ハンニバルの受け入れに抗議した。プルシアス1世がローマの要求に従いだまそうとしているのを知ったハンニバルはLibyssaの村で服毒自殺した。
メッセネの町がアカイア同盟に対して反乱を起こした。アカイア同盟の将軍フィロポイメンが介入して反乱を制圧しようとすると、彼は小競り合いの最中に捉えられ、投獄された。その後彼は服毒自殺した。
ムティナ、アクイレイア、パルマ、エトルリアのサトゥルニアにローマの植民市ができた。
ローマ市にギリシア諸国からの使者がやってきて、元老院は彼らから事情を聴取した後、クィントゥス・マルキウス・ピリップス (紀元前186年の執政官)を派遣し、紛争の解決に当らせた。
ビチュニアの王プルシアス1世が死去し、プルシアス2世が後を継いだ。
24年間の治世の末、プトレマイオス5世が毒殺され、古代エジプトの勢力と影響力は衰え、キプロスとキレナイカを除く海外領土の多くを失った。長男のプトレマイオス6世が後を継いだが、幼児であったため、母親のクレオパトラ1世が摂政を務めた。
ポントスのファルナケス1世がペルガモン王国のエウメネス2世とカッパドキアのアリアラテス4世を攻め、大軍でガラティアに侵攻することを決心した。しかしエウメネスはこれに対抗し、戦争の原因を調べるようローマ元老院の命を受けたローマの外交官が到着するとすぐに戦闘は停止した。
ローマ帝国は、山と潟湖に挟まれた狭い領域で、イリュリアへの前線の砦となるアクイレイアに植民地を築いた。
呂雉が死去、劉章ら劉氏や陳平らが呂雉一族を一掃、少帝弘を廃位し文帝が前漢の皇帝になった。
デメトリウス1世のインド北部への侵攻が始まった。
グレコ・バクトリア王国の将軍アポロドトゥス1世がインド・グリーク朝の南西方の王になったが、デメトリウス1世への忠誠は誓い続けた。
ジェノヴァ近郊の戦いでリグリア人を倒し、ローマ帝国はイタリア全土の征服を完了した。4万人のリグリア人は、ローマ帝国の領土から強制退去させられた。
前漢で呂后死去。呂氏の乱にて呂氏一族が誅殺され、文帝が即位(〜紀元前157年)。
マケドニア王国の王座を欲し、ローマ帝国と密通しているという告発を行う等、弟のデメトリウスへの陰謀から3年がたち、ペルセウスは父ピリッポス5世を説得し、デメトリウスを処刑させた。
ルッカがローマ帝国の植民地となった。
プシャミトラがマウリヤ朝のブリハドラタ王を暗殺し、自ら王位に付いてシュンガ朝を創始した。
アリストパネスの死後、アリスタルコスがアレクサンドリア図書館の長となった。
6歳のプトレマイオス6世は、母のクレオパトラ1世と共同摂政として、セレウコス4世の側につかず、ローマ帝国と良好な関係を築いた。
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よくある質問
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紀元前180年代は紀元前189〜前180年です。
紀元前180年代に起きた主な出来事は?
紀元前180年代(紀元前189〜前180年)は、アパメイアの和約でローマがセレウコス朝の領土をトロス山脈以東に限り、その後イタリア全土の征服を完了しました。インドではプシャミトラがシュンガ朝を開き、中国では呂后の死後に呂氏一族が誅殺されて文帝が即位しました。
参考にした Wikipedia の記事(11 件・CC BY-SA 4.0)
Wikipedia 日本語版の記事。文章は CC BY-SA 4.0 で提供されています。
各行の要約は inv-world による独自の文章です。Wikipedia 以外の出典は各行に、参考にした Wikipedia の記事はページの下にまとめて載せています(Wikipedia の記事は CC BY-SA 4.0)。日付は資料の表記を優先し、ユリウス暦・旧暦の日付にはグレゴリオ暦の換算日を併記しています。このページには広告(アフィリエイトリンク・Google AdSense)を含みます。広告には「PR」または「スポンサーリンク」と表示しています。