WORLD HISTORY · 紀元前500〜前1年
紀元前400年代の出来事紀元前409〜前400年
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紀元前400年代に起きた主な出来事は?
紀元前400年代(紀元前409〜前400年)は、アテネがスパルタに降伏してペロポネソス戦争が終結し、中国では周が韓・趙・魏を諸侯と認めて戦国時代に入りました。日本では弥生時代中期が始まったとする研究があり、メソアメリカではオルメカ文明が終焉を迎えました。
- エジプト第28王朝が開かれる世界
- アテネ降伏でペロポネソス戦争終結世界
- 七国が争う中国の戦国時代世界
- 周が韓・趙・魏を諸侯と認める世界
- 民主派が三十人僭主政権を倒す世界
- ラ・ベンタが放棄されオルメカ終焉世界
- 日本で弥生時代中期が始まる日本
- 仏教教団が上座部と大衆部に分裂世界
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紀元前400年代の出来事(年表・99件)
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PC版では、地域ごとの縦の線で出来事の流れを図として追えます。同じ時期に世界の別の場所で何が起きていたかが、ひと目で比べられます。
シケリア(シチリア)のギリシア植民都市間の紛争と、アテナイとシュラクサイ(シラクサ)の間の消耗戦に乗じて、カルタゴがシチリア島における影響力の拡大に再び乗り出した。
アテナイの将軍トラシュロス (Thrasyllus) が、中規模の軍勢を率いて海を渡り、イオニアへの侵攻を行なった。トラシュロスはたちまちコロポンを陥落させ、イオニアの農村地域を荒らしたが、エペソス郊外で、エペソス、ペルシア、シュラクサイの連合軍に敗れた。
スパルタのパウサニアスは、父プレイストアナクスを継いで、アギス朝のスパルタ王となった。
トロイア戦争を主題としたソポクレスの悲劇『ピロクテテス (Philoctetes)』が上演された。
アルキビアデスがビュザンティオンを奪還し、アテナイへの反乱を鎮圧した。これによってアテナイはボスポラス海峡の支配権を確立し、黒海地方のボスポロス王国からの穀物の補給路を確保した。
ロドスの町が、創建された。
アケメネス朝ペルシア帝国のダレイオス2世は、アテナイとの戦争を継続し、スパルタを支援する決断をした。王妃パリュサティスの口添えで、彼女の下の息子小キュロスが、リュディア、プリュギア、カッパドキアのサトラップ(太守)に任じられ、ティッサフェルネスに代わって、小アジアのペルシア軍の総司令官となった。
アルキビアデスが7年ぶりに、凱旋者としてアテナイに帰還した。アルキビアデスはアテナイからエレウシスへの祭列を先導し、紀元前415年に秘儀冒涜に関わったとされた汚名を雪いだ。アルキビアデスは総司令官に任じられ、専制支配の権限を与えられた上で、自らの艦隊に合流するためサモス島へ向かった。
全ギリシアから参加者が集ったオリンピックの集いにおいて、哲学者のゴルギアスはスパルタとペルシアの同盟を声高に非難した。
アテナイのアクロポリスのエレクテイオンが完成する。 魏の文侯が陽狐の戦い(河西の戦い)で秦から河西(黄河の西)を奪う。
エウリピデスの悲劇『オレステス (Orestes)』と『フェニキアの女たち (The Phoenician Women)』が上演された。その後、アテナイに満足できなかったエウリピデスは、マケドニア王アルケラオス1世 (Archelaus I of Macedon) の招きに応じてアテナイを去った。
カルタゴの軍勢によって、ヒメラ が破壊された。
スパルタの提督リュサンドロスは、秋にエペソスへ到着し、新しいペルシア帝国太守キュロスの支援を受けて、大規模な艦隊を編成した。
ティッサフェルネスは、カリア太守に職掌を限定された。さらに、ダレイオス2世は、スパルタ艦隊の再建に要する軍資金をキュロスに託し、ペルシア帝国のスパルタ支援を強化せよという勅命を与えてサルディスへ派遣した。キュロスは、自身の目的のために、ギリシア人を含む傭兵隊を編成し始めた。
この敗北は、アルキビアデスの政敵に、アルキビアデスの指揮権を剥奪する口実を与えた。アルキビアデスはアテナイを離れ、2度と帰還しなかった。アルキビアデスは、トラキケ・ケルソネソス(Thracian Chersonese、「トラキアの半島」の意、現在のガリポリ(ゲルポリ)半島)にあった所領を目指し、船で北へ向かった。
スパルタの提督リュサンドロスは、エペソスから誘い出されてアルキビアデスと戦うことを拒んだ。
追放されていたシュラクサイの穏健民主派のかつての指導者ヘルモクラテスが、シュラクサイへ帰還しようとして、殺された。
アテナイの将軍トラシュブロスが、アブデラとタソス島を奪回した。
レスボス島近くで戦われたアルギヌサイの海戦 (Battle of Arginusae) は、アテナイ側が勝利し、コノンの封じ込めは失敗した。コノンを支援するため、アテナイ市民たちが編制した艦隊は、ほとんどが新造船から成り、乗組員の練度も不十分だった。
アテナイの艦隊司令アルキビアデスが、将軍たちの会議によって更迭された。代わって、この会議の一員であったコノン提督がアテナイから派遣され、ミティリーニを支援して参戦した。レスボス島防衛のため、コノンは、数において劣る自分の艦隊を、サモス島から、ミティリーニに近いヘカトンネシ島 (Hekatonnesi) へと移動させた。
ローマ軍は、以降10年に及ぶウェイイの攻城戦を始めた。
スパルタは和平を申し出たが、アテナイの指導者クレオポン (Cleophon) をこれを拒んだ。スパルタは、アケメネス朝ペルシア帝国のサトラップ(太守)小キュロスの求めに応じ、ヘレスポントス(ダーダネルス海峡)の艦隊の指揮権をリュサンドロスに与えた。
戦いの後、アテナイに戻ったテラメネス (Theramenes) は、戦闘を指揮した8人の将軍たちを非難するアテネ市民たち動きを煽動した。アテナイに帰還した6人の将軍たちは、戦闘中に航行不能となった味方の艦船から生存者の救助を怠ったとして糾弾された。将軍たちは、ペリクレスの息子(小ペリクレス)を含め、皆死刑となった。
カリクラティダス (Callicratidas) が、リュサンドロスに代わってスパルタの艦隊指揮官に任命された。カリクラティダスは艦隊を召集し、レスボス島のメテュムナ (Methymna) に向かい、この町に攻城戦を仕掛けた。この動きはアテナイへの穀物供給を脅かすものとなった。
カルタゴ勢は、再びシチリアに侵攻し、アクラガス(アグリゲントゥム)を攻めた。その軍営で、疫病(腺ペスト)が発生し、将軍ハンニバル・マゴも罹患して病死した。指揮を引き継いだヒミルコ (Himilco) は、アクラガス、ゲラ、カマリナ を陥れた。ゲラの町は破壊され、財宝は奪われた。攻撃を生き延びた者はシュラクサイへ逃れた。
スパルタ王パウサニアスは、アテナイに攻城戦を仕掛け、リュサンドロスの艦隊は、ペイライエウスを封鎖した。この作戦によって、ヘレスポントス経由での穀物の供給路は絶たれ、アテナイは兵糧攻めにされた。
スパルタを中心としたペロポネソス同盟勢がアテナイを包囲する中、アテナイの指導者テラメネス (Theramenes) はリュサンドロスとの取引を試みた。テラメネスが3か月アテナイを離れていた間に、アテナイの食料事情は悪化し、飢餓状態が広がった。結局、テラメネスは、スパルタ側と降伏の条件を定める交渉団の代表となった。
アルギヌサイの海戦 (Battle of Arginusae) でスパルタを破ったアテナイの艦隊は、提督に再任されたリュサンドロスが率い、ヘレスポントス(ダーダネルス海峡)へ向かっていたスパルタ艦隊を追撃した。
エウリピデスの『バッコスの信女 (The Bacchae)』と『アウリスのイピゲネイア (Iphigeneia at Aulis)』が、ディオニューシア祭で四部作の一部として作者没後上演され、1位をとった。
アイゴスポタモイの戦いでペロポネソス同盟がアテナイに勝利。
ディオニュシオスは、容赦なく自らの権力を固め、また増強を図った。ディオニュシオスは、シュラクサイの町の周りに城壁を建設し、後背地の平地 (the Epipolae) を城砦化した。
アリストパネスの喜劇『蛙』が上演された。
ディオニュシオス1世 (Dionysius I of Syracuse) が、シュラクサイの僭主として実権を握った。ディオニュシオスは、攻め入ってきたものの疫病で軍勢が弱体化していたカルタゴの将軍ヒミリコ (Himilco) と和平を結び、シュラクサイの守りを固めた。
アテナイのアクロポリスに、16年の建設期間を経て、「少女の玄関 (Porch of the Maidens)」(カリアティード(女像柱)のポーチ)を含むイオニア式によるエレクテイオン神殿が完成した。
宋の昭公が死に、子の悼公が即位する。
ダレイオス2世の息子である小キュロスが、兄アルタクセルクセス2世を殺害しようと企てたとして、カリアのサトラップ(太守)ティッサフェルネスによって告発される。アルタクセルクセス2世は、自身とキュロスの母である皇太后パリュサティスの仲裁を受け入れ、キュロスは赦されて自分の太守領へ戻った。
アイゴスポタモイの海戦におけるスパルタの勝利の後、かつてアテナイの指導者であったアルキビアデスは、小アジア北西部フリュギアのサトラップ(太守)パルナバゾスの下に亡命し、アテナイへの支援を求めて活動していた。その動きはスパルタの知るところとなり、スパルタからの要請を受けたパルナバゾスは、アルキビアデスを暗殺した。
リュサンドロスはサモス島へ向かい、この島を征服してスパルタ領とした。
サイスのアミュルタイオスが、ペルシア帝国のエジプト・ナイル川デルタへの支配に対する反乱を成功させた。アミュルタイオスは、エジプト第28王朝を開き、その初代にして唯一のファラオとなった。
ディオニュシオス1世が、シュラクサイの僭主として実権を握った。ディオニュシオスは、攻め入ってきたものの疫病で軍勢が弱体化していたカルタゴの将軍ヒミリコ (Himilco) と和平を結び、シュラクサイの守りを固めた。この講和によって、シチリアの大部分はカルタゴの支配下に残された。
アテナイの将軍トラシュブロスは、三十人僭主政権に追放され、テーバイへ引退した。
かつてアテナイの同盟(デロス同盟)に加わっていた諸都市の多くで、「十人支配 (decarchy)」の統治制度が導入され、さらにスパルタの指揮官(Harmost)のもとに置かれた駐屯地が設けられたところも多かった。
アテナイの指導者クレオポン (Cleophon) は、ペロポネソス同盟への抵抗を主張し続けたが、状況は絶望的になり、クレオポンは逮捕され、やがて死刑の判決が下り、処刑された。
テラメネス (Theramenes) は、アテナイの町を破壊から守るという条件を勝ち取った。スパルタは、アテナイの独立の維持を認めた。しかし、アテナイは他所の領土をすべて失い、残存していた艦隊も失い、スパルタの同盟国とされた。アテナイの長城 (Long Walls) は破壊された。
ディオニュシオスは、容赦なく自らの権力を固め、また増強を図った。ディオニュシオスは、シュラクサイの町の周りに城壁を建設し、後背地の平地 (the Epipolae) を城砦化した。
スパルタの将軍リュサンドロスは、アテナイに傀儡政権として寡頭制の三十人僭主政権を設け、その指導者クリティアスの下に、テラメネスなども僭主の中に加わらせた。この政権は、多数の市民を処刑したり、権利の剥奪を行なった。
アケメネス朝ペルシアの王ダレイオス2世が、バビロンで病没した。息子のアルタクセルクセス2世が後を継いだ。
アテネがスパルタに降伏し、ペロポネソス戦争が終結。
エポニュモス・アルコン(執政官)エウクレイデス (Eucleides) の下で、アテナイは正書法の改革を行ない、「Η, η(エータ)」と「Ω, ω(オメガ)」を含むイオニア式の綴り字を採用した。この新しいアルファベットは、「エウクレイデスのアルファベット」と称されるようになった。
トラシュブロスはアテナイに民主政を回復し、極端な寡頭制論者を除いて、すべての者に恩赦を与えた。反寡頭制を論じる上で、トラシュブロスを支えたのは、アテナイの雄弁家であったリュシアスであった。
北宋の司馬光による中国史史書『資治通鑑』はこの年から始まる。
三十人政権軍を破り、ペイライエウス(現在のピレウス)を占領していたアテナイからの亡命者たち間で、ペイライエウスの戦い (Battle of Piraeus) が戦われているところへ、スパルタ軍が来襲した。この戦闘では、スパルタ軍が辛勝したが、両軍とも多数の死傷者を出した。
周(東周)は、三晋の独立を追認し、韓・趙・魏を諸侯の列に加えた。戦国時代(〜紀元前221年)の始まりとして伝統的に言及される時点のひとつ。
魏斯が魏侯に封じられ魏の文侯となる。文侯は儒教を尊び、李克・呉起・西門豹といった有能な政治顧問を登用した。
趙籍が趙侯に封じられ趙の列侯となる。
韓虔が韓侯に封じられ韓の景侯となる。
アテナイの雄弁家・政治家であったアンドキデスは、紀元前415年のアテナイによるシチリア遠征の際、出発前夜にヘルマが破損された事件に関わってアテナイを離れていたが、恩赦を受けて亡命先からアテナイへ帰還した。
トラシュブロス率いる民主派がアテナイの三十人僭主政権を打倒する。
周の威烈王が死去し、安王が即位した。
マケドニア王アルケラオス1世 (Archelaus I) が、テッサリアのラリサにおける親マケドニア派の寡頭制政権の成立を支援した。
楚の声王が在位6年にして賊に暗殺される。
キュロスのために戦っていたギリシア傭兵たちは、キュロスの敗北の後、孤立して取り残されてしまった。
アゲシラオス2世が、異母兄アギス2世の死去後に、スパルタ王に即位した。
ソポクレスの悲劇『オイディプス王』が、作者の死後に上演された。アテナイのディオニューシア祭での上演を制作したのはソポクレスの同名の孫であった
秦が魏を攻撃し、陽狐に到達した。
クナクサの戦い。
マケドニア王国がギリシアを統一し、アケメネス朝を滅ぼす。
鄭が韓の陽翟を包囲する。
ラ・ベンタの街が放棄され、メソアメリカのオルメカ文明が終焉を迎えた。
韓の景侯虔が薨去し、子の烈侯が即位する。
ロンドンは、ウォルブルックがテムズ川と合流する湿地帯に起源を持つ。ケルト人の王ベリナスは、数十の小屋を囲む土壁を再建し、壁の南側に川に面した小さな上陸場所を作り、ここに木製の埠頭を設けた。
ロシアの南ウラル地方が中心地だったサルマタイ人によるプロホロフカ文化がヴォルガ川・ドン川流域に拡大する。
秦の簡公悼子が薨去し、子の恵公が即位する。
メキシコのポポカテペトル山噴火。 日本の弥生時代中期が始まる(2003年に公表された国立歴史民俗博物館グループの研究による)。 この時代を代表するのが鳥取県鳥取市の青谷上寺地遺跡(〜紀元後200年頃)。
イベリア人文化を代表する「バーサの貴婦人(スペイン国立考古学博物館蔵)」や「エルチェの貴婦人(同館蔵)」が作られる。
アテネのアクロポリスのモデルが製作された。これは現在、トロントのロイヤルオンタリオ博物館に展示されている。
インドでシシュナーガ朝が興亡。 この王朝のカーラーショーカ王の時代に第2回仏典結集が行われたか。 第2回仏典結集の後に仏教教団で根本分裂が起こり上座部と大衆部に別れたとされる。
ウクライナに「黄金の女性胸飾り」が納められたトヴスタ・モヒーラ(トルスタヤ・モギーラ)古墳がスキタイ人により作られる。
サイスのアミュルタイオスはペルシアの支配への反乱を成功させ、上エジプトの支配権を得た。
ポカイアのテオドロスがデルポイにドームを建設した。
ケルト人がアイルランド島へ侵攻。
韓と趙と魏が楚を攻撃し、乗丘に至る。
サン・ロレンソ・テノチティトランが放棄された。
ラ・ベンタ(オルメカ文明)の衰退と放棄。
趙の烈侯籍が薨去し、弟の武侯が即位する。
トラキア(ブルガリア)の「パナギュリシテの遺宝」が埋蔵される(〜紀元前3世紀)。
小アジアのリュキア地方のデムレ近郊のミュラのネクロポリスが造営される。
ギリシアの技術者によりカタパルトが発明された。
ヴェーダの宗教が、この時期から200年かけてヒンドゥー教に発展し始めた。
スパルタとエーリスの間でも戦争が始まった。
アケメネス朝の王アルタクセルクセス2世は、反乱の前まで弟の小キュロスが治めていた小アジアの大部分をティッサフェルネスに引き継がせた。
ベトナム北部で青銅器文化の東山文化(ドンソン文化)栄える。
「トーディのマルス像(ヴァティカン・グレゴリアーノ・エトルリア美術館蔵)」が作られる。 中国人が磁鉄鉱に指極性がある事を発見し、磁気コンパスを発明した。磁気コンパスは、占いに使用された。
彫刻における古典古代の時代が終わり、古代末期に入った。
スパルタとペルシアの戦争が始まると、アテナイの司令官であるコノンはペルシアのファルナバゾスの統合部隊を受け入れた。
カルタゴはマルタを占領した。
クセノポンの「1万人の傭兵」は、ギリシアへ帰還した。ペルシアからの行進はスパルタを再び小アジアでペルシア軍との戦争に向かわせた。
デンマークのビェルスコウのピート・ボグ(泥炭湿原)に埋められていた湿地遺体トーロンマンはこの時代の人物か。
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よくある質問
紀元前400年代は何年から何年まで?
紀元前400年代は紀元前409〜前400年です。
紀元前400年代に起きた主な出来事は?
紀元前400年代(紀元前409〜前400年)は、アテネがスパルタに降伏してペロポネソス戦争が終結し、中国では周が韓・趙・魏を諸侯と認めて戦国時代に入りました。日本では弥生時代中期が始まったとする研究があり、メソアメリカではオルメカ文明が終焉を迎えました。
参考にした Wikipedia の記事(14 件・CC BY-SA 4.0)
Wikipedia 日本語版の記事。文章は CC BY-SA 4.0 で提供されています。
各行の要約は inv-world による独自の文章です。Wikipedia 以外の出典は各行に、参考にした Wikipedia の記事はページの下にまとめて載せています(Wikipedia の記事は CC BY-SA 4.0)。日付は資料の表記を優先し、ユリウス暦・旧暦の日付にはグレゴリオ暦の換算日を併記しています。このページには広告(アフィリエイトリンク・Google AdSense)を含みます。広告には「PR」または「スポンサーリンク」と表示しています。