WORLD HISTORY · 紀元前500〜前1年
紀元前260年代の出来事紀元前269〜前260年
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紀元前260年代に起きた主な出来事は?
紀元前260年代(紀元前269〜前260年)は、シチリア島をめぐってローマとカルタゴの第一次ポエニ戦争が始まり、ローマの地中海進出が進みました。インドではアショーカ王が即位してカリンガ国を征服し、中国では長平の戦いで秦が趙軍を破りました。
- マウリヤ朝でアショーカ王が即位世界
- ローマでデナリウス硬貨を初鋳造世界
- アルキメデスが揚水用スクリューを発明世界
- 第一次ポエニ戦争が始まる世界
- ローマの地中海支配世界
- アショーカ王がカリンガ国を征服世界
- 長平の戦いで秦が趙軍に大勝世界
- ミュラエの海戦でローマが勝利世界
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紀元前260年代の出来事(年表・54件)
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秦の中更の公孫胡昜が趙の閼与を攻撃したが、落とせなかった。
閼与の戦いで趙奢率いる趙軍が秦軍を大破する。
陘城の戦いで白起率いる秦軍が韓兵5万人を殺害する。
シラクサの前僭主アガトクレスに雇われていたカンパニアの傭兵集団であるマメルティニは、メッシーナの要塞を占領した。シラクサの将軍ヒエロンは、ロンガヌス川及びミラッツォの会戦でこれを破ったが、カルタゴ軍が介入してメッシーナの奪還を妨害した。
秦の昭襄王は范雎の計略を採用して、五大夫の綰に魏を攻撃させ、懐を陥落させた。
マウリヤ朝第3代アショーカ王が即位。
アテナイの政治家で軍人のクレモニデスは、スパルタ、アテナイ、エジプトのプトレマイオス2世との協定を結んだ。この協定の起源は、多くのギリシアの州、特にアテナイとスパルタの独立を回復したいという長年の願い、プトレマイオス2世の、ライバルのマケドニア王アンティゴノス2世にトラブルを引き起こしたいという願い等が元となった。
共和政ローマのデナリウス硬貨が初めて鋳造された。
ローマは、マルヴェント(Malventum)を植民地としたが、ラテン語でmaleは悪い、beneは良いを意味することから、縁起を担いでベネヴェント(Beneventum)と呼ばれるようになった。
マケドニア王アンティゴノス2世は、ギリシアからマケドニア軍を駆逐しようとするアテナイ、スパルタ、アルカディア、アカエアの連合からなる反乱に対処しなければならなかった(クレモニデス戦争)。この反乱は、エジプトのプトレマイオス2世が支援していた。
秦の悼太子質が魏で死去した。
秦が魏の邢丘と懐を陥落させた。
秦で宣太后や魏冄らが失脚し、范雎が丞相となって、応侯に封じられた。
アリオバルザネスは、ミトリダテス1世の後を継いで、第2代ポントス国王となった。
カラブリアとメッサピアは、共和政ローマに併合された。
マルクス・アティリウス・レグルスとルキウス・ユリウス・リボは、サレントに対する勝利を祝った。
斉の安平君田単が趙軍を率いて燕を攻撃し、中陽を奪った。さらに韓を攻撃して、注人を奪った。
アクロタトスが父アレウス1世を継いでスパルタ王となった。
秦の穣侯魏冄が封地の陶に赴いた。
エジプト軍はサロニコス湾を封鎖したが、マケドニア王アンティゴノス2世はスパルタ軍を破り、コリントス付近でスパルタ王アレウス1世を殺害した。この戦いの後、彼はアテナイを包囲した。
秦が趙を攻撃し、3城を奪った。趙は斉に援軍を求めたが、斉は長安君を人質として求めた。趙が長安君を斉に送ったので、斉が援軍を差し向けると、秦軍は撤退した。
アレクサンドリアの数学者アルキメデスによって水を汲み上げるためのアルキメディアン・スクリューが発明された。
秦の昭襄王の子の安国君が太子となった。
ヒエロン2世は、マメルティニを再攻撃すると脅し、カルタゴの駐屯兵の支援を得た。マメルティニは共和政ローマに支援を求めた。
転換点ローマの地中海支配
ローマはカルタゴとのポエニ戦争に勝ち、地中海の広い範囲を支配下に置いた。領土が広がるなかで内乱が続き、共和政から帝政へと移っていった。
出典:コトバンク:ポエニ戦争(事典)
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★主な出来事第一次ポエニ戦争が始まる
シチリア島をめぐり、ローマと北アフリカのカルタゴが戦争を始めた。ローマは勝ってシチリアを初めての属州とし、地中海へ進出していった。
出典:コトバンク:ポエニ戦争(日本大百科全書(ニッポニカ))(事典)
田単が斉の宰相となった。
秦の白起が韓を攻撃し、9城を落とした。
共和政ローマは、アドラーノを占領した。
エウメネス1世が叔父フィレタイロスの後を継ぎ、ペルガモン国王となった。フィレタイロスは宦官であったため、甥のエウメネス1世に王位を継がせた。
アテナイのストア派の学校で、クレアンテスがゼノンの後を継いだ。
マニウス・ウァレリウス・マクシムスの指揮する共和政ローマは、シラクサのヒエロン2世との協定を保証した。ローマとのこの条約により、ヒエロン2世の王国はシチリア南東部とタオルミーナまでのシチリア東部に制限された。この時から死去するまで、ヒエロン2世はローマに忠誠を保った。
秦の白起が韓の南陽を攻撃し、太行山への道を遮断した。
アテナイとスパルタは数年間に及ぶ戦争で消耗し、領土は荒廃し、アンティゴノス2世のギリシアでの支配を認めて和平を結んだ。
エピロス王アレクサンドロス2世は、マケドニアを攻め、その大部分を征服した。しかし、彼はマケドニア王アンティゴノス2世の息子のデメトリオス2世によって、マケドニアとエピロスから追放された。
秦の白起が韓を攻撃し、野王を陥落させた。
楚が州陵を秦に割譲して講和した。
アテナイの降伏後、マケドニア軍による長期間の包囲が続いた。アンティゴノス2世はアテナイに守備隊を再配置し、市に戦争を起こすことを禁じ、アテナイを哲学と学問の地として残した。
セレウコス朝の王アンティオコス1世の長男で長年の間、総督として王国の東側を治めていたセレウコスは、謀反の疑いをかけられ、父親に殺害された。
アンティオコス1世は、成長しつつあるペルガモン王国を武力で打倒しようと試みた。ペルガモン王国の新しい王エウメネス1世は、サルディス近郊でアンティオコス1世の軍を破り、セレウコス朝の支配から街を解放した。
アグリゲントゥムを失った後、カルタゴ軍は解散した。その間、ローマ軍はアグリゲントゥムで略奪を行い、ギリシア人の住民を奴隷にした。ローマがシチリアからカルタゴを駆逐するのは決定的となった。
共和政ローマは、ハンニバル・ギスコ指揮下のカルタゴに占領されていたアグリゲントゥムを攻撃した。ローマ軍の攻撃は両執政官に率いられ、数ヶ月続いた。アグリゲントゥムの守備隊は援軍を求め、ハンノに率いられたカルタゴ軍が援護に到着し、ローマ軍の補給基地を破壊した。
アンティオコス1世は死去し、次男のアンティオコス2世が王位を継いだ。
アショーカ王がカリンガ国を征服。
セレウコス朝の新しい王アンティオコス2世は、マケドニア王アンティゴノス2世と合意に至り、共同でプトレマイオス2世の軍をエーゲ海から駆逐することとした。マケドニア軍の支援を得て、アンティオコス2世は小アジアにプトレマイオス軍を攻撃する前哨基地を築いた。
シチリアの支配権をカルタゴから取り戻すことを決意した共和政ローマは、捕虜にしたカルタゴの五段櫂船をモデルとした軍を作った。
ハンニバル・ギスコは、メッシーナ海峡のカルタゴ軍を統括する提督として、シチリアでの戦いに戻った。ローマが最初の海軍を派遣しようとしていたことから、カルタゴはこれを妨害することを決めた。ギスコはローマ軍の一部を破り、エオリア諸島付近で執政官のグナエウス・コルネリウス・スキピオ・アシナを捕虜とした。
第二次シリア戦争(〜紀元前255年)。
長平の戦いで白起率いる秦軍が趙兵40万人を殺害する。
長平の戦いで、秦軍は趙軍を完全に打ち負かし、中国全土での軍事的な優位性を確立した。この戦いでは、趙軍は廉頗と趙括、秦軍は白起に率いられ、今日の高平市の近くで戦闘が起き、戦いの後には、数十万人の趙軍の兵士が処刑された。
この頃、叙事詩人ロドスのアポローニオスがアレクサンドリア図書館の館長となった。
アグリジェントからのローマ軍の西進は、包囲されたセジェスタやマセラを解放しながら続いた。これらの街はローマ側につき、カルタゴからの攻撃を受けることとなった。
カルタゴ軍の海域での優位性に対する自信から、ギスコはミュラエの戦いで伝統的な直線状布陣を敷いた。海戦の経験がなかったにもかかわらず、執政官ガイウス・ドゥイリウスは、四爪錨やコルウスを利用する等、海戦に地上戦の戦術を取り入れることで、カルタゴ軍を壊滅させた。
ミュラエの戦いで勝利したローマ軍は、シチリア北部からテルメーへ侵攻したが、そこでハミルカルの率いるカルタゴ軍に敗れた。
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よくある質問
紀元前260年代は何年から何年まで?
紀元前260年代は紀元前269〜前260年です。
紀元前260年代に起きた主な出来事は?
紀元前260年代(紀元前269〜前260年)は、シチリア島をめぐってローマとカルタゴの第一次ポエニ戦争が始まり、ローマの地中海進出が進みました。インドではアショーカ王が即位してカリンガ国を征服し、中国では長平の戦いで秦が趙軍を破りました。
参考にした Wikipedia の記事(11 件・CC BY-SA 4.0)
Wikipedia 日本語版の記事。文章は CC BY-SA 4.0 で提供されています。
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