WORLD HISTORY · 紀元前500〜前1年
紀元前360年代の出来事紀元前369〜前360年
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紀元前360年代に起きた主な出来事は?
紀元前360年代(紀元前369〜前360年)は、プラトンが『国家』を完成させ、アリストテレスがアカデメイアに入門しました。マンティネイアの戦いではエパメイノンダスが戦死し、ローマではリキニウス・セクスティウス法が成立、中国では商鞅が秦に入りました。
- プラトンの『国家』が完成世界
- アリストテレスがアカデメイアに入門世界
- ローマでリキニウス・セクスティウス法世界
- 甘徳がガニメデを発見したとされる世界
- マンティネイアの戦いでエパメイノンダス戦死世界
- プラトンが対話篇でアトランティスに言及世界
- 魏の恵王が運河の鴻溝を開削世界
- 商鞅が法経を携えて秦へ世界
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紀元前360年代の出来事(年表・72件)
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今や強国となったテーバイに対抗して勢力均衡を図るため、アテナイはスパルタの支援要請を受け入れ、永く宿敵であったスパルタと同盟関係を結んだ。
テーバイのエパメイノンダスは、マンティネイアを脅かしていたスパルタ軍を駆逐した後、南進し、それまで敵軍が越えたことのなかったスパルタの国境のエウロタス川 (Eurotas River) を渡った。テーバイと同盟者たちが周辺のラコニア一帯を略奪する中、スパルタ人たちは、テーバイの大軍との戦闘を避けて都市に立てこもった。
フェライのアレクサンドロスがテッサリアの僭主となった。アレクサンドロスの圧政に対し、ラリサのアレウアダエ一族は、マケドニア王アレクサンドロス2世に援助を求めた。アレクサンドロス2世はラリサやそのたいくつかの都市を支配下に収めたが、事前の約束に反してマケドニア軍の守備隊をそれぞれの都市に置いた。
ペロピダスは、アレクサンドロス2世に対し、従わなければアレクサンドロスの義弟にあたるアロロスのプトレマイオス (:en:Ptolemy of Aloros) を支持すると脅しをかけ、アテナイとの同盟を破棄させ、テーバイ方に就かせた。
テーバイに帰還したエパメイノンダスに対して、政敵たちは、エパメイノンダスが法の定めより長すぎる期間にわたって軍の指揮をとり続けたとして裁判に訴えられた。この訴えは正当なものと認められたが、エパメイノンダスは、自らの行動がテーバイや同盟者たちを守り、スパルタの勢力を削ぐために必要であったと、テーバイ市民を説得した。
クレオメネス2世が兄である先王アゲシポリス2世を継いで、アギス朝のスパルタ王となった。
エパメイノンダスは、いったんアルカディアに立ち戻り、すぐさま再び南進し、200年ほど前にスパルタが征服していたメッセニアに進軍した。エパメイノンダスはここで、イトメ山 (Mount Ithome) にかつて存在した都市メッセネ (Messene) の再建に着手し、当時のギリシアにおいて最も強力な城塞化を施した。
魏の混乱を見て、韓の懿侯と趙の成侯は共同で出兵し、濁沢で魏軍を撃破し、魏を包囲した。魏の国君に罃と公子中緩のどちらを立てるかをめぐって、韓と趙の意見は対立し、両軍は撤退した。罃(恵王)は公子中緩を殺して即位した。
周の烈王が死去し、顕王が即位した。
マケドニア王アミュンタス3世が死去し、長男アレクサンドロス2世 が即位した。若き王は北西からのイリュリア勢の侵攻と、王位を要求して蜂起し、たちまちいくつかの町を陥れて皇太后エウリュディケ1世 (Eurydice I) を脅かしたパウサニアスによる東からの攻撃に、同時に晒された。
これに対して、エパメイノンダスはテーバイ軍の指揮者に復帰し、テーバイ軍を率いてテッサリアへ侵攻し、テッサリア人たちに策をめぐらせ、戦うことのないままペロピダスの解放を勝ち取った。
魏の大夫の王錯が韓に亡命した。
趙が斉に侵攻し、長城に達した。
前年のマケドニア王国によるテッサリアへの介入が成功した後に、マケドニア軍が撤退すると、フェライのアレクサンドロスの圧政は以前にも増して苛烈なものとなった。このためテッサリア人たちはテーバイに支援を求めた。テーバイはペロピダスを派遣したが、アレクサンドロスは約束を違えてペロピダスを捕らえ、投獄した。
斉が魏を攻撃し、観津を奪った。
プラトンの『国家』が完成した。同書は、理想的な正しい社会の法について論じ、王は哲学者か、少なくともその教えを受けた者でなければならないと示唆した。
義弟アロロスのプトレマイオス (:en:Ptolemy of Aloros) の煽動により、マケドニア王アレクサンドロス2世が、祝祭の最中に暗殺された。王弟ペルディッカス3世が即位したが、まだ歳若く、プトレマイオスが摂政に任じられた。
西周の威公が死去し、恵公が即位した。恵公の弟の公子班が反乱を起こした。
シュラクサイの僭主ディオニュシオス1世が死去し、息子のディオニュシオス2世が後を継いだ。ディオニュシオス2世はまだ歳若く、体も弱くて経験不足であったため、亡父の義弟であるディオンが実権を握り、友人であったプラトンを説得して、その哲学原理を実際に応用して若き僭主の教育に当たらせた。
ギリシアの哲学者、科学者であるアリストテレスが、アテナイに赴き、プラトンのアカデメイアの生徒となった。
スパルタ王アゲシラオス2世の息子であるアルキダモス3世がスパルタ軍を率い、アルカディア勢に勝利した。
マルクス・フリウス・カミルスによって、ローマのフォロ・ロマーノに、ローマ神話の女神コンコルディアを祀ったコンコルディア神殿が建てられた。
趙と韓が周を攻撃し、公子班を東周の恵公として立てた。
ディオニュシオス2世は、かつて父がカルタゴに敗北した際に結んだものと同じ条件で、カルタゴと和議を結んだ。
テーバイの指導者ペロピダスは、ペルシア帝国のアルタクセルクセス2世のもとへ大使として赴き、ギリシアの諸国家(ポリス)間の争いを調停する勅令を、テーバイに都合が良い形で出すよう促した。アルタクセルクセス2世はギリシア諸国に調停案を示して和平を呼びかける勅令を出したが、この提案に従おうという国はなかった。
テーバイの将軍エパメイノンダスはペロポネソス半島へ再び侵攻したが、今回はシキオンをテーバイ方の同盟者としたものの、それ以上の成果は上げられなかった。テーバイに帰還したエパメイノンダスは、再び裁判にかけられたが、今回も無罪放免となった。
共和政ローマでリキニウス・セクスティウス法成立。
テーバイの指導者エパメイノンダスは、アカイア同盟の諸都市を味方につけるべく、ペロポネソス半島に3度目の侵攻を行なった。
秦が魏と韓の連合軍を洛陰で破った。
テーバイは、オロポス (Oropos) を陥れた。
アケメネス朝ペルシア帝国では、数多くのサトラップ(太守)が、アテナイやスパルタ、エジプトと同盟を結んで、アルタクセルクセス2世に反乱を起こし始めた。
アテナイは、エーゲ海のコス島でコス (Kos) の町の建設を始めた。
シュラクサイの新しい僭主ディオニュシオス2世 (Dionysius II of Syracuse) を、プラトンの哲学原理を実際に応用して教育しようとしたディオン(ディオニュシオス1世の義弟)とプラトンの取り組みは失敗し、ディオンとプラトンはシュラクサイから追放された。
造営官(アエディリス)に属する共和政ローマの新たな官職として、2人のアエディリス・クルリス(上級造営官、aediles curules)が設けられた。この職は、当初はパトリキ(貴族)が占めたが、翌年以降は、隔年でパトリキとプレブス(平民)が交互にするようになった。
(リキニウス・セクスティウス法が発効し)軍人の護民官が執政官(コンスル)の権能をもつことが廃止され、2人の執政官(コンスル)を立てる制度が復活した。新たな裁判制度が整備され、法務官(プラエトル)が置かれることになった。
テーバイはスパルタと和睦し、矛先を、海上帝国の再生を期しつつマケドニア王国の内紛に介入していたアテナイに向けるようになった。
魏と韓が宅陽で会合した。
マケドニア王国のヴェルギナで墓(1号墓、小さい墓)の壁画の一部として、「ペルセポネーの略奪」が描かれた。(おおよその年代)
魏が宋を攻撃し、儀台を奪った。
魏が大梁に遷都した。
将軍ティモテウス (Timotheus) が率いるアテナイ勢が、アケメネス朝ペルシャ帝国の軍勢が占拠していたサモス島を、10か月に及ぶ攻城戦の末に陥落させた。
マケドニア王国の王であったアミュンタス3世とエウリュディケ2世の間に生まれた息子であるペルディッカスが、兄アレクサンドロス2世を紀元前368年に暗殺し、以降、摂政として王国の実権を握っていたアロロスのプトレマイオス (Ptolemy of Aloros) を殺害した。
エトルリア人の俳優たちが、ローマで最初の演劇を上演した。
ティモファネス (Timophanes) の一党(その中には弟ティモレオン (Timoleon) も加わっていた)が、コリントスのアクロポリス(アクロコリントス)を占拠し、自ら国主たることを宣言した。後にティモレオンは、この行動を理由にティモファネスを処刑しようとした一党に、無言の承認を与えた。
秦の献公の将軍の章蟜は晋と石門で戦い、6万人を斬首し、周の天子から黼黻(ほふつ)の衣服を賜った。
アテナイの将軍イフィクラテースがアンフィポリスの奪還に失敗。将軍職を辞してトラキアに戻り、義父であるトラキア王コトゥス1世 (Cotys I) がトラキアのケルソネソスをめぐってアテナイに対抗した。この争いはコトゥス1世が勝利を収め、ケルソネソス半島一帯の支配権を確立した。
テーバイは、アテナイとの紛争に備え、当時軍事的指導者であったエパメイノンダスの提言によって三段櫂船100隻の艦隊を作り上げた。テーバイは、ボイオーティアで覇を競っていたオルコメノスを滅ぼした。
中国の天文学者で斉出身の甘徳が、木星の衛星のひとつガニメデを発見し、また、史上初めて太陽黒点の観察を行なったとされる。
紀元前369年からテーバイで人質となっていた、マケドニア王国の王弟ピリッポス(後のピリッポス2世)が故国に帰還した。
アルキダモス3世治下のスパルタは、クロムノスでアルカディア勢に敗れた。
政治家・将軍ペロピダスに率いられたテーバイ軍は、テッサリアで戦われたキュノスケファライの戦いにおいてフェライのアレクサンドロスの軍勢を破ったが、ペロピダスは戦死した。
テオス(またはタコス)が父親のネクタネボ1世の後を継いでファラオとなる。アケメネス朝への大規模な攻撃を計画し、スパルタに協力を要請した。
テーバイの将軍エパメイノンダスがアテナイへの挑戦を試みた。ボイオーティアの艦隊と共にビュザンティオンに航海し、アテナイ配下の都市のいくつかは支配者に反抗して彼に従った。
魏が澮で韓と趙の連合軍を破り、趙の楽祚を捕らえた。
少梁の戦いにおいて秦と魏が戦い、魏が敗れて、宰相(公孫痤)が捕虜となった。
マンティネイアの戦いでアテネ・スパルタ連合軍がテーバイに勝利、テーバイの指導者エパメイノンダスが戦死。
マンティネイアの戦い (紀元前362年) アルカディア同盟 (Arcadian League) に内紛が勃発し、マンティネイア (Mantineia) は、アテナイおよびスパルタと結び、テゲアや他の同盟参加国はテーバイに味方した。
スパルタ王アゲシラオス2世が、ペルシア帝国との戦いでエジプトに加勢するため、1000人の兵士とともに来援した。
カリアのマウソロスが、ペルシア帝国のアルタクセルクセス2世に対してアナトリア半島各地のサトラップ(太守)たちの反乱に加わった。
衛の公孫鞅が秦に入国した。
アテナイの雄弁家で将軍であったカリストラトスと、将軍カブリアスは、アテナイで裁判にかけられた、カリストラトスの助言に基づいてテーバイに一時的な占拠が認められていたオロポス (Oropos)の町について、テーバイ人たちが返還を拒んだことをめぐって問責された。
プラトンは、再びシュラクサイ(シラクサ)へ赴き、若き僭主ディオニュシオス2世 (Dionysius II) を教える。しかしプラトンは、この若い僭主を、紀元前366年に彼が追放したディオンと和解させることはできなかった。このためプラトンは、身の危険を感じてシュラクサイを脱出した。
エジプト第30王朝テオス王 (Teos of Egypt) 治下のエジプトと、アゲシラオス2世治下のスパルタは、アテナイの将軍カブリアスが率いる傭兵隊とともに、ペルシア領のフェニキア諸都市への攻撃を準備した。しかし、エジプトで反乱が起こったために、各軍勢はすぐさま引き返すことになった。
アケメネス朝ペルシア帝国の弱体化にともなって帝国内の各地で反乱が起こり、豊かな都市として繁栄していたフェニキアのシドン(サイダ)でも反乱があった。
プラトンは、初めてアトランティス大陸に言及した対話篇『ティマイオス』と『クリティアス』を書いた。
小アジアのリュキア地方クサントスで「パヤヴァの墓」(大英博物館蔵)が作られる。
魏の恵王が黄河と淮河を連結する運河である:zh:鴻溝を開削する。
スパルタ王アゲシラオス2世の支援を得て、ナクトホルエブはジェドホルを退位させてエジプトのファラオとなった。ジェドホルはスーサに逃れ、アケメネス朝ペルシアと和平を結んだ。ナクトホルエブはスパルタの支援に対して、230タラントを支払った。
商鞅が李克の法経を携えて秦に投じる。
イリュリアがモロシア人を攻撃すると、モロシア人の王アリュバスは、非戦闘民を安全な場所に導いた。イリュリアの略奪が終わると、彼らは略奪品を負っており、容易にモロシア人に敗れた。
ガリアは再びローマの門に達したが、打ち負かされた。
スパルタ王アゲシラオス2世は、エジプトからギリシアへの帰途、キュレネで死亡した。アルキダモス3世が後を継いだ。
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紀元前360年代は紀元前369〜前360年です。
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紀元前360年代(紀元前369〜前360年)は、プラトンが『国家』を完成させ、アリストテレスがアカデメイアに入門しました。マンティネイアの戦いではエパメイノンダスが戦死し、ローマではリキニウス・セクスティウス法が成立、中国では商鞅が秦に入りました。
参考にした Wikipedia の記事(11 件・CC BY-SA 4.0)
Wikipedia 日本語版の記事。文章は CC BY-SA 4.0 で提供されています。
各行の要約は inv-world による独自の文章です。Wikipedia 以外の出典は各行に、参考にした Wikipedia の記事はページの下にまとめて載せています(Wikipedia の記事は CC BY-SA 4.0)。日付は資料の表記を優先し、ユリウス暦・旧暦の日付にはグレゴリオ暦の換算日を併記しています。このページには広告(アフィリエイトリンク・Google AdSense)を含みます。広告には「PR」または「スポンサーリンク」と表示しています。