WORLD HISTORY · 紀元前500〜前1年
紀元前310年代の出来事紀元前319〜前310年
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紀元前310年代に起きた主な出来事は?
紀元前310年代(紀元前319〜前310年)は、インドでチャンドラグプタがナンダ朝を倒してマウリヤ朝を開き、セレウコス1世はバビロンを回復してセレウコス朝シリアを開きました。中国では秦が五国の合従軍を撃退して蜀を併呑し、ローマではアッピア水道が完成しました。
- 函谷関の戦いで秦が五国軍を撃退世界
- チャンドラグプタがマウリヤ朝を開く世界
- マウリヤ朝と仏教の広がり世界
- 秦が蜀を攻撃して併呑する世界
- 港町テッサロニキが開かれる世界
- ローマ初の水道アッピア水道が完成世界
- 燕で昭王が即位し再興を図る世界
- セレウコス朝シリアが開かれる世界
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紀元前310年代の出来事(年表・90件)
勉強にはPC版がおすすめです
PC版では、地域ごとの縦の線で出来事の流れを図として追えます。同じ時期に世界の別の場所で何が起きていたかが、ひと目で比べられます。
アレクサンドロス3世の未亡人ロクサネは、エピロスでアレクサンドロス3世の母オリュンピアスに合流した。
秦が魏を攻撃し、鄢を奪った。
カッサンドロスは、ポリュペルコンを新しい摂政と認めなかった。フリギアの支配者アンティゴノス1世及びリュシマコスのプトレマイオス1世の支援を得て、カッサンドロスはマケドニア王国を攻撃した。
魏の恵王が死去し、襄王が即位した。
アンティパトロスは病気になり、マケドニア王国の摂政の地位を息子のカッサンドロスではなく、ポリュペルコンに引き継がせ、すぐに死亡した。
カルディアのエウメネスは、摂政ポリュペルコンと同盟を結んだ。彼は何とかノラの包囲から逃れ、彼の軍はすぐにシリアやフェニキアを脅かすようになった。ポリュペルコンはエウメネスを小アジアの王族将軍であると認めた。
アテナイの演説者で外交官のデマデスは、マケドニア王国の裁判所に送られたが、マケドニア王国の摂政アンティパトロスかその息子カッサンドロスのどちらかが、デマデスが前の摂政ペルディッカスと密通していたことを知っていたため、死刑となった。
アンティゴノスが、アジア全域の支配者になることを決意し、カッサンドロス、プトレマイオスと連合した。アンティゴノスはエウメネスにも連合を持ちかけたが、エウメネスは王家への忠誠を守った。エウメネスは決起し、東方のサトラップ(太守)たちと同盟を結んだ。次いで、エウメネスはアンティゴノス側からバビロンを奪取した。
プトレマイオス、アンティゴノスと結んだカッサンドロスは、帝国摂政ポリュペルコンに宣戦布告した。ギリシアのほとんどの都市国家は、アテナイを含め、カッサンドロス側についた。
函谷関の戦いで秦の樗里疾が楚・韓・趙・魏・燕の五国合従軍を撃退。 五国合従軍側にオルドス地方の遊牧民族義渠が含まれていたがこれも撃退。
アンティパトロスの没後、アテナイでは権力闘争が起こり、民主政治の復活を望むアテナイ市民たちによって、フォキオン (Phocion) が支配者の座から追われ、反逆罪に問われて処刑された。その後、間もなく、アテナイ市民たちはフォキオンを讃えて、公式の葬儀を行ない、像を建てた
アリストテレスの弟子のひとりで、ギリシアの逍遙学派(ペリパトス派)の哲学者であり、音楽やリズムについて記述を残したアリストクセノス (Aristoxenus) が、『ハルモニア原論』と題された論文を書いた。
ポリュペルコンは、ギリシア諸都市に自由を保障することで、当初は影響力を保ったものの、ポリュペルコン方の艦隊は、アンティゴノスによって撃破された。
楚・趙・魏・韓・燕が連合して秦に侵攻し、函谷関を攻撃した。秦軍が出兵して迎え撃ち、5カ国連合軍は敗走した。
宋君偃が王を称した。
アンティゴノスはエウメネスに向かった進軍し、エウメネスは東方へ退き、チグリス川東岸のサトラップたちと合流した。
転換点マウリヤ朝と仏教の広がり
インドで初めて広い地域をまとめたマウリヤ朝が生まれた。アショーカ王は仏教を厚く保護し、各地に詔勅を刻んだ石柱を建てた。
出典:コトバンク:マウリヤ朝(事典)
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★主な出来事インドでマウリヤ朝が成立
チャンドラグプタがナンダ朝を倒し、北インドにマウリヤ朝を開いた。のちのアショーカ王の時代にはインドの大部分を治める大国となった。
出典:コトバンク:マウリヤ朝(日本大百科全書(ニッポニカ))(事典)
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アルメニアのペルシア人サトラップ(太守)アルドヴァテス (Ardvates) が、マケドニアの支配から祖国を解放した。
セレウコスがアンティゴノスに味方して、ともにカルディアのエウメネスに当たり、バビロンを奪還する。
チャンドラグプタがマガダ国ナンダ朝を倒しマウリヤ朝を建国(ナンダ朝の滅亡)。
ポリュペルコンはエピロスへ逃れ、亡くなったアレクサンドロス3世(大王)の母であるオリュンピアス、大王の未亡人ロクサネとその幼い息子アレクサンドロス4世と合流した。
秦が韓軍を修魚で撃破し、韓の将軍の䱸や申差を濁沢で捕らえた。
プトレマイオス1世が、妻エウリュディケの侍女だったベレニケと結婚した。
張儀が魏の襄王を説得して、秦と魏の同盟を成立させた。張儀は秦に帰国して再び宰相となった。
カッサンドロスがペロポネソス半島方面の戦いで忙殺されている間に、オリュンピアスはマケドニアで軍を率いて戦った。最初はうまくゆき、ピリッポス3世の軍勢を撃破して、王と妃のエウリュディケ2世、カッサンドロスの兄弟ニカノール (Nicanor) を捕らえ、殺害した。
斉の大夫が蘇秦を暗殺させた。
コリントス出身のアケストリデス (Acestorides) がシュラクサイ(シラクサ)の市民によって最高司令官に推される。-->
カッサンドロスは、マケドニア王国の摂政ポリュペルコンと破ってアテナイを奪い、その統治をアテナイの雄弁家、政治家、哲学者であったデメトリオス・パレレオスに委ねた。
アテナイの墓地で、私的な記念物の設置が禁じられた。
パラエタケネの戦い:西洋の会戦としては初めて両軍が戦象隊を動員した、アレクサンドロス3世(大王)の遺した帝国の支配権を巡って争われた戦い。
メナンドロスが、レナイア (Lenaia) の演劇祭において『Dyskolos(気むずかし屋)』で1位となった。
寡頭制統治の打倒を図って2度追放されていたアガトクレスが、軍隊を引き連れてシュラクサイに舞い戻り、寡頭制統治のリーダーたちを含む1万人もの市民があるいは逃亡し、あるいは殺害され、アガトクレスは自ら僭主となった。アケストリデス (Acestorides) は逃亡した。
燕王噲が老い、国政は宰相の子之が決裁するようになった。
カッサンドロスは、大王の異母妹テッサロニカと結婚した。カッサンドロスは、大王の未亡人ロクサネとその息子アレクサンドロス4世をトラキアのアンフィポリスに幽閉し、二度と生きて世に出すことはなかった。
カッサンドロスがペロポネソス半島から戻り、マケドニア王国の摂政ポリュペルコンと戦ってこれを破った。カッサンドロスは、亡くなったアレクサンドロス3世(大王)の母であるオリュンピアスをピュドナ (Pydna) に追いつめて降伏させた。カッサンドロスは、大王の未亡人ロクサネとその息子アレクサンドロス4世を人質とした。
カッサンドロスはオリュンピアスに死刑を宣告したが、兵士たちは命令を執行することを拒んだ。オリュンピアスは、最後には、自らの命令で処刑された者の親族たちによって殺された。
ローマ人たちは、アプーリアの獲得を目指し、ルケリアの町をサムニウム人から奪還すべく、軍隊を送り出した。しかし、ラウトゥラエの戦いでローマ軍は完敗を喫し、サムニウム勢がローマから32キロメートルほどのところまで迫ってきた。
マケドニア王国の支配を巡ってカッサンドロス(アンティパトロス朝の開祖)と争っていたカルディアのエウメネスとアンティゴノス1世(アンティゴノス朝の開祖)が、メディア(イラン高原北西部)のスーサの北東方で会戦した(ガビエネの戦い)。
秦は司馬錯の意見を容れて、蜀を攻撃して併呑した。蜀王を侯に落とし、陳壮を蜀の相として送り込んだ。
シュラクサイ(シラクサ)の新しい僭主アガトクレスが、シチリア島のほぼ全域に支配を広げた。
かつて大王が破壊したテーバイの再建にカッサンドロスが着手し、アテナイの市民たちからも支援がなされた。
秦が蜀を滅ぼす。
ポリュペルコンがペロポネソス半島へ逃亡し、そこで拠点を維持しながら、かつての同盟者を失っていたアンティゴノスと新たに同盟関係を結んだ。
アンティゴノスは、カッサンドロスのマケドニア勢をギリシアの島々から駆逐し、エーゲ海の島々の都市と「島民同盟」を結ん、ギリシア本土への侵攻に備えた。アンティゴノスと結んだロドスの町は、必要とされた艦船を供給した。
In the historical novel Funeral Games by Mary Renault, Cassander visits the Lyceum in Athens and tells Theophrastos evil slanderous lies against Alexa…
シュラクサイ(シラクサ)の僭主アガトクレスがメッシーナを攻略した。 <!--フィクションの設定については、記事に反映させる必要がないと判断し、訳出しない。:
カッサンドロスによってマケドニア王国の港町テッサロニキが開かれ、その妻テッサロニカの名が町に付けられた。
プトレマイオス1世の軍勢が、アンティゴノス1世支持派とキプロスで戦った。プトレマイオスは、キプロス島の奪還に成功した。
周の慎靚王が死去し、赧王が即位した。
かつてのアレクサンドロス3世(大王)の帝国のうちアジア地域のディアドコイ(後継者)となっていたアンティゴノス1世(アンティゴノス朝の開祖)が、スーサの財宝を手に入れ、サトラップ(太守)セレウコス1世(セレウコス朝の開祖)の領域であるバビロンに侵入した。
かつてのアレクサンドロス3世(大王)の帝国のうちアジア地域のディアドコイ(後継者)となっていたアンティゴノス1世(アンティゴノス朝の開祖)が、バビロンから逃れたサトラップ(太守)セレウコス1世(セレウコス朝の開祖)に味方する、マケドニア王国の摂政カッサンドロス(アンティパトロス朝の開祖)、トラキアの…
燕の宰相の子之が国政の実権を握って3年、太子平と公子職が子之を討つべく挙兵したため、燕は内乱状態になった。斉が公子職を救援することを名目に内戦に介入し、子之と燕王噲は殺害された。
秦が韓を岸門に攻撃し、韓の太子倉が人質として秦に入国して講和した。
カッサンドロスがギリシア中央部の支配権を維持するために戦い続けていたため、アンティゴノスはギリシアの諸都市に、反カッサンドロスで自分に味方すれば自由を保証すると呼びかけた。アイトーリア人たちはアンティゴノスと同盟した。
魏が秦との同盟を破ったため、秦は魏に侵攻し、曲沃を奪い、住民だけ魏に返した。
秦が義渠を攻撃し、25城を奪った。
共和政ローマと対立し戦い続けていたサムニウム人たちが、ローマに対し優勢になる。カンパニア勢がローマに迫る。ローマと、サムニウムのいくつかの町の間で和睦が結ばれる。
アンティゴノスは、プトレマイオスの支配下にあったシリアに侵入し、テュロスを包囲して陥落させた。アンティゴノスは、シリア全域を占拠し、自らを摂政を称するようになった。
マケドニア王国の支配に抵抗し、エピロス市民は前王のアイアキデスを呼び戻した。カッサンドロスはすぐに、アエトリアを侵攻中の弟ピリッポスの率いる軍を向かわせた。ピリッポスはアイアキデスを破り、アイアキデスと残った軍勢は、アエトリア軍に加わった。2度目の戦いが行われ、ピリッポスが再び勝利し、アイアキデスは殺害された。
プトレマイオス1世は、キプロスとキュレネで発生した暴動を鎮圧した。
秦の樗里疾が趙を攻撃し、藺を陥落させ、趙将の荘豹を捕らえた。
秦の恵文王が斉を攻撃しようと、斉と楚の同盟を破らせるべく、張儀を楚に派遣した。張儀は楚が斉との同盟を破棄すれば、商・於の地600里四方を献上すると、楚の懐王に約束した。懐王が斉との同盟を破棄して、商・於の地を受け取りに行かせると、張儀は言を左右にして、与えようとしなかった。怒った懐王は屈匄を将軍として秦に侵攻させた。
ローマ市への最初の水道であるアッピア水道の建設が終了し、初めて綺麗な飲料水をローマは手に入れた。
韓の宣恵王が死去し、太子倉が即位して、襄王となる。
シュラクサイ人は、カルタゴ人に、僭主のアガトクレスに対抗するための援助を求める。カルタゴ人もシチリアにおける自身の領地を脅かされており、大軍を島に送る。
燕の公子職は、斉に服属することを条件にして王に即位することを許された。即位した昭王は燕の再興と斉への復讐を目的にして、臣民と労苦を分かち、富国強兵と人材の登用に励んだ。昭王は郭隗を師と仰いだ。
張儀の策謀に嵌った楚は大軍を発して秦を侵攻した。秦の軍隊は迎撃して丹陽にて大いに楚軍を破り、8万人を斬った。逆に楚の漢中地方に攻め入り、その地に漢中郡を設置した。楚の懐王が再び全国の徴集できる部隊を召集して進攻を発動し、藍田で秦軍と会戦すると、秦軍は再び勝利した(藍田の戦い)。この戦いは楚の衰亡の端緒となった。
パトリキであり、ローマのケンソルであるアッピウス・クラウディウス・カエクスは、であり、 公職に就くとローマとカプア間にアッピア街道の建設を始める。また彼は政治改革のプログラムを開始した。例えば、土地を所有しないものにも各種の役職を選出するための投票権を与えた。
プトレマイオス1世とバビロニアの太守であるセレウコス1世が、シリア州を侵略する。ガザの戦いの結果は、プトレマイオス1世とセレウコス1世のアンティゴノス1世の息子のデメトリオス1世 (「攻城者」))に対する勝利であり、 デメトリオス1世は捕虜となったがすぐに釈放された。
セレウコス1世がバビロンを回復し、セレウコス朝シリアが開かれる。 共和政ローマでローマ街道(アッピア街道)の建設を開始。 藍田の戦いで、秦が楚を破る。
全ての陣営によって、アレクサンドロス3世の息子のアレクサンドロス4世が6歳になった時に、帝国全体の王になることが合意された。
蜀の宰相が蜀侯を殺害した。
ディアドコイの間の和平の合意はすぐに破られた。アンティゴノスによってギリシアの自由な街に守備隊が配置されたのを口実に、プトレマイオスとカッサンドロスは、彼に対して改めて敵意を抱いた。
プトレマイオス1世はシリアの侵攻を目指したが、デメトリオス1世が戦いに勝利し、アンティゴノス1世もシリアに軍を進めた。そのため、わずか1か月後、プトレマイオス1世はシリアから軍を引き揚げた。
セレウコス1世は、改めて自身をバビロニアのサトラップに任命し、メディア王国とエラムの支配を宣言した。
セレウコス1世の脅威に対抗して、アンティゴノス1世は、バビロニアを支配するセレウコス1世以外の全ての敵と和平を結ぶことを決断した。全てのディアドコイは、現在の国境線とギリシアの街の自由を確認した。
秦の恵文王が死去し、太子の蕩(武王)が即位した。武王は張儀を嫌って排斥したため、六国の諸侯は再び秦に対抗する合従策を採るようになった。
秦の張儀が使者として楚に赴くと、楚の懐王は張儀を殺そうとした。張儀が靳尚に厚く賄賂を送ったため、懐王は張儀を釈放した。張儀は楚と秦の協力を説いた。秦の恵文王が再び張儀を出国させると、張儀は韓・魏・斉・趙・燕の諸王に対して、各個に秦と同盟を結ぶ連衡策を説かせた。
カルタゴの将軍ハミルカルは、軍勢を率いて地中海を越え、ヒメラ川の戦いでシュラクサイの僭主アガトクレスを破った。ハミルカルはシュラクサイを除くシチリア島全域を支配下に入れ、アガトクレスは、シュラクサイで包囲された。
プトレマイオス1世がアンティゴノス1世の領有するキリキアを攻撃した。
河北省平山県上三汲郷の中山王墓が造営されたか。
秦の武王と魏の襄王が臨晋で会合した。
アンティゴノス1世は将軍のニカノルに東から、息子のデメトリオス1世に西からバビロニアを攻めさせた。ニカノルは巨大な軍を集めたが、チグリス川でセレウコス1世に敗れた。デメトリオス1世の侵攻も失敗した。
趙の武霊王が呉広の娘の呉孟姚を后に迎えた。趙何(後の恵文王)が生まれた。
Antigonia TroasとAntigonia(後のイズニク)の街がアンティゴノス1世により建設された。
サムニウムがエトルリア人を扇動して共和政ローマとの協定を破棄させた。ウァディモ湖の戦いで、クィントゥス・ファビウス・マクシムス・ルリアヌスに率いられたローマ軍はエトルリア人を破った。
ケルト人の移住によって、アウタリアタエ族(:en:Autariatae)が消えた。
シラクサのアガトクレスがカルタゴによる包囲から脱出し、カルタゴの領土に戦線を移した。
秦の武王は甘茂に命じて蜀の宰相の陳壮を殺害させた。
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よくある質問
紀元前310年代は何年から何年まで?
紀元前310年代は紀元前319〜前310年です。
紀元前310年代に起きた主な出来事は?
紀元前310年代(紀元前319〜前310年)は、インドでチャンドラグプタがナンダ朝を倒してマウリヤ朝を開き、セレウコス1世はバビロンを回復してセレウコス朝シリアを開きました。中国では秦が五国の合従軍を撃退して蜀を併呑し、ローマではアッピア水道が完成しました。
参考にした Wikipedia の記事(11 件・CC BY-SA 4.0)
Wikipedia 日本語版の記事。文章は CC BY-SA 4.0 で提供されています。
各行の要約は inv-world による独自の文章です。Wikipedia 以外の出典は各行に、参考にした Wikipedia の記事はページの下にまとめて載せています(Wikipedia の記事は CC BY-SA 4.0)。日付は資料の表記を優先し、ユリウス暦・旧暦の日付にはグレゴリオ暦の換算日を併記しています。このページには広告(アフィリエイトリンク・Google AdSense)を含みます。広告には「PR」または「スポンサーリンク」と表示しています。