WORLD HISTORY · 紀元前500〜前1年
紀元前490年代の出来事紀元前499〜前490年
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紀元前490年代に起きた主な出来事は?
紀元前490年代(紀元前499〜前490年)は、イオニアの反乱をきっかけにペルシア戦争が始まり、マラトンの戦いでアテネ軍がペルシア軍を破りました。中国では孔子が諸国放浪の旅に出て、ローマでは聖山事件を経て護民官が置かれました。
- イオニアの反乱からペルシア戦争へ世界
- 孔子が魯を去り諸国放浪へ世界
- 越が呉を破り呉王闔閭が死去世界
- ローマがレギッルス湖畔で勝利世界
- ローマで聖山事件、護民官を設置世界
- ペルシアが最初のギリシア遠征世界
- マガダ国が都パータリプトラ建設世界
- マラトンの戦いでアテネが勝利世界
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紀元前490年代の出来事(年表・91件)
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紀元前502年にナクソス島の反乱の鎮圧に失敗した後、アケメネス朝ペルシアからの報復から自身を守ろうとしたアリスタゴラスは、ミレトスやその他のイオニア人とともに反乱を企てた。
アリスタゴラスは、スパルタ王クレオメネス1世に反乱への支援を求めたが、スパルタから返事はなかった。
宋の景公の弟の公子辰・公子仲佗・公子石彄・公子地が陳から蕭に入って、宋にそむいた。
ガリポリ半島を治めていたミルティアデスは、紀元前514年頃からペルシアの宗主権の下に入っていたが、イオニアの反乱に加わった。彼はペルシアからリムノス島とギョクチェアダ島を奪還した。
魯と鄭が講和した。
イオニアの反乱よりペルシアとギリシアの間でペルシア戦争が始まる(〜紀元前449年)。
魯の定公が成を包囲した。
現存する最古のギリシア語の詩であるピンダロスのepinikion (Pythian ode 10)が書かれた。
アテナイとエレトリアは、イオニアからの請願に応えてペルシアに対抗するためにエフェソスに軍を送った。ここでイオニア軍と合流し、リディアのサトラップであるアルタフェルネスの治めるサルディスに侵攻した。アルタフェルネスは軍の大半をミレトスの包囲に送っており不意を突かれたが、要塞に逃げ込むことができた(イオニアの反乱)。
アレクサンドロス1世はアミュンタス1世の後を継いでマケドニア王国の王になった。
斉と魯が黄で会盟した。
孔子が魯の三桓氏排斥に失敗して追放される。
魯の子路が季孫氏の宰となり、三桓氏の拠点である費・郈・成を取り壊そうとした。費の宰である公山不狃と叔孫輒が曲阜を襲い、定公は三桓とともに季孫氏の宮に入り、武子の台に登った。孔子が申句須と楽頎に命じて費の兵を攻撃すると、費の兵は敗走して、公山不狃と叔孫輒は斉に亡命した。費の城は破却された。
カウノスとカリアもビュザンティオンやダーダネルス海峡の町に続いてペルシアに対して反乱を起こした。また、オネシルスが非ペルシア系の兄弟であるゴルゴスからサラミス王の座を奪うと、キプロスも反乱に加わった。
ジェーラの僭主Cleanderが暗殺されると、代わって権力を握った弟のHippocratesは、シラクサの植民都市カマリナを征服したが、コリントやケルキラの介入により、シラクサを占領することはできなかった。
衛の公孟彄が曹を攻撃し、郊を攻め落として凱旋した。
湾まで退却したところで、ギリシア軍はアルタフェルネスの率いるペルシア軍と出会い、エフェソスの戦いでこれを破った。
斉と衛の連合軍が晋を攻撃した。
孔子が魯の官を辞し、弟子たちとともに放浪の旅に出た。孔子は衛に入った。
晋の范氏と中行氏が趙氏の宮を攻撃し、趙鞅は晋陽に逃れた。智躒・韓不信・魏侈が定公を奉じて范氏と中行氏を攻めた。范氏と中行氏は定公を攻撃して国人の反感を買い、敗北して朝歌に逃れた。趙鞅は絳に帰還した。
アケメネス朝はダーダネルス海峡への遠征に出発した。
山西省侯馬晋城遺跡から出土した誓約文書「侯馬盟書」が書かれる。
Artybiusがキプロスの反乱を終結させた。
越が呉軍を欈李で破り、呉王闔閭は戦傷を受けて死去した。
楚の公子結と陳の公孫佗人が軍を率いて頓を滅ぼした。
晋軍が范氏と中行氏の軍を潞で破り、籍秦と高彊を捕らえた。また晋軍は鄭軍と范氏の軍を百泉で破った。
晋軍が范氏と中行氏の拠る朝歌を包囲した。
紀元前508年に追放された王政ローマ最後の王タルクィニウス・スペルブスは、レギッルス湖畔の戦いで新しい共和政ローマの軍に敗れた。この戦いの結果は、ラテン世界に対するローマの優位性を確立した。
紀元前6世紀の僭主ペイシストラトスの親戚でカルモスの息子ヒッパルコスは、アテネのアルコンの選挙に勝利し、ペルシアへの抵抗は無意味だと主張した。
斉と魯と衛が牽で会盟した。
斉と宋が洮で会盟した。
カルタゴとローマは条約を結び、ローマの船はカルタゴの西部と貿易を行わず、カルタゴはラテンの政治を邪魔しないことが合意された。
衛の公叔戌が魯に亡命し、趙陽が宋に亡命した。
レギッルス湖畔の戦い(第一次ラティウム戦争)で共和政ローマがラティウム人に勝利。
鄭の罕達が宋軍を老丘で破った。
楚が胡を滅ぼした。
メルクリウスを称えた神殿がチルコ・マッシモに建設された。
夫差が父の闔閭から王位を継ぎ、呉の最後の王となった。
アエディリスが初めて設置された。
ローマで「聖山(モンテ・サクロ)事件」(第一次プレブス離脱事件)。 この事件後にプレブスとパトリキが和解。平民会と護民官が置かれる。 呉王夫差が会稽で勝利し、越王勾践は降伏する(会稽の恥)。
スパルタ王クレオメネス1世は、ティリンス近郊のセペイアの戦いで、アルゴス軍に大勝した。
元老院とローマ市民は、マニウス・ウァレリウス・マクシムスを独裁官に指名した。
楚が陳・随・許を従えて蔡を包囲した。
魯の仲孫何忌(孟懿子)が邾を攻撃した。
反抗するギリシアのいくつかの都市国家を成功裏に占拠すると、アルタフェルネスに率いられたアケメネス朝ペルシア軍は、ミレトスを包囲した。ミレトスの港近くのラデ島で、決定的なラデ沖の戦いが行われた。数では劣っていたが、サモス島とレスボス島からの船が撤退するまでの間は、ギリシア軍が優勢であった。
ペルシアは、ディディマのアポローン神殿を焼き払った。
呉王夫差が越を夫椒で破った。越王勾践は会稽山に立てこもって、呉に講和を求めた。夫差は伍子胥の反対を押し切って講和を許した。
トラキア人及びスキタイは、ミルティアデスをケルソネソスから連れ戻した。ミルティアデスは、5隻の船に宝を載せ、アテナイに向かった。ミルティアデスの長子メティオコスが船長を務める1隻の船は拿捕され、メティオコスは生涯、ペルシアの牢に入れられた。
軍事遠征の終わりに当たり、ローマ軍を構成するプレブス(平民)は、ローマ外側の聖山(モンテ・サクロ)に撤退した。いわゆる「平民分離派」と呼ばれる兵士は、新しい街を築く恐れがあった。この分離を終わらせるため、プレブスはパトリキ(貴族)から、2人の護民官を選ぶことを認められた。
呉が陳に侵攻した。
ペルシアの同盟国であるフェニキアは、海賊と見なしたギリシア人に対して、膨大な賠償金を請求した。
ペルシアの指導者アルタフェルネスとマルドニオスは、イオニアの都市に自治権を認めた。彼らは賠償金を放棄し、これまでと同程度の税金だけを取った。ペルシアは、イオニアにおけるギリシアの暴政を廃し、民主主義を認めた。
ミレトスの前僭主ヒスティアイオスは、ペルシアに捕まり、アルタフェルネスによってサルディスで処刑された。
斉と衛が晋の范氏を救援するために邯鄲に出兵し、五鹿を包囲し、棘蒲を奪った。
蔡が国を呉の州来に遷した。蔡の昭公は反対派の大夫の公子駟を殺害した。
フェニキア人で構成されたアケメネス朝ペルシアの軍が、キプロスにおけるペルシアの支配権を奪還した。
ガイウス・マルキウス・コリオラヌスは、ウォルスキ族の町コリオリをローマ側に奪還した。
晋の趙鞅が衛の太子蒯聵を送って戚に入城させた。
アテナイ人は、テミストクレスをアルコンに選出した。彼は、ペルシアに対する抵抗を支持した。
魯の季孫斯(季桓子)・叔孫州仇(叔孫武叔)・仲孫何忌(孟懿子)らが邾を攻撃し、漷東の田と沂西の田を奪った。
2度目の執政官となったスプリウス・カッシウス・ウェケッリヌスは、周囲の部族との間に相互防衛条約を結んだ。ローマは、ラティウム同盟における覇権を主張しない代わりに、同盟における支配的な街と見なされるようになった。
テミストクレスは、ピレウスに拠点を置く海軍の要塞の建設を始めた。
イオニアの反乱の鎮圧後、イオニアからの難民の中に兵士として評判の高いミルティアデスがいた。テミストクレスは、彼をアテナイ軍の将軍にした。
アテナイの詩人プリュニコスが悲劇Fall of Miletusを書いた。アテナイの当局は、不信心という理由で、これ以上詩を作ることを禁じた。
趙鞅が鄭の罕達の軍と鉄で戦って撃破した。
衛の霊公が死去し、夫人の南子が公子郢を後嗣に立てようとしたが、郢に固辞されたため、太子蒯聵の子である輒が即位した。
斉の国夏と衛の石曼姑が軍を率いて戚を包囲した。
宋の楽髠が曹を攻撃した。
シチリアの植民地であるカマリナが反乱を起こした際、ジェーラの僭主ヒポクラテスが介在して、シュラクサイに対して戦争を起こさせた。ヘロロス川でシュラクサイの軍を破った後、彼は街を包囲した。しかし、コリントスの軍の介入を受け、カマリナの領有権と引き換えに撤退することとなった。
マルドニオスは、アトス山沖の嵐で約300隻の船を失い、アテネとエリトリアの攻撃を中止せざるを得なかった。
魯の桓宮と僖宮が火災に遭った。
晋の趙鞅が范氏と中行氏の拠る朝歌を包囲した。
マルドニオスに率いられたペルシア軍は、トラキアとマケドニアを制圧し、占領した。
義理の息子マルドニオスの指揮の下で、アケメネス朝ペルシアの王ダレイオス1世の最初のギリシア遠征(ペルシア戦争)が始まった。ダレイオス1世は、アテナイとエレトリアを攻撃する使命を与えて、マルドニオスにイオニアとアルタフェルネスのサトラップの座を引き継がせた。
斉の国夏が晋を攻撃し、邢・任・欒・鄗・逆畤・陰人・盂・壺口を奪った。
ローマの飢饉の間、ガイウス・マルキウス・コリオラヌスは人々に、護民官の廃止に同意できないなら穀物を受け取るべきではないと助言した。そのため、護民官は彼を非難し、追放した。コリオラヌスはウォルスキ族の王のもとに隠れた。コリオラヌスは、ウォルスキ族の軍を率いてローマに反抗したが、母と妻の懇願を聞き入れて引き返した。
斉の陳乞・弦施と衛の甯跪が晋の范氏を救援し、五鹿を包囲した。
ジェーラの僭主ヒポクラテスは、シチリアの原住民との戦争で殺された。僭主の座は騎兵隊の隊長だったジェロが継いだ。
アイギナ島は、貿易の停止を怖れ、アケメネス朝ペルシアに従った。スパルタ王クレオメネス1世は、ペルシアに屈服したアイギナを罰しようとしたが、共同統治者のデマラトスはそれを妨げた。
趙鞅が邯鄲を包囲し、邯鄲は降伏した。荀寅(中行文子)は鮮虞に逃れ、趙稷は臨に逃れた。
ペルセポリスにある宗教複合施設であるアパダマでレリーフの製造が始まった。レリーフには、朝貢を受けるダレイオス1世とクセルクセス1世が描かれており、現在はシカゴ大学のオリエント博物館に展示されている。
晋の士蔑が戎蛮子赤を捕らえて楚に引き渡した。
蔡の昭侯が殺害された。
クレオメネス1世は、賄賂を送ってデルフォイの神託に神意だと言わせることで、デマラトスを退けて自身の従兄弟のレオテュキデスを即位させようとした。2人のスパルタ王は、アイギナのペルシアへの協力者を捉えることに成功した。
ダレイオス1世は、ギリシアの全ての都市に使節を送り、彼の臣下のための「土地と水」を求めたが、アテネとスパルタはこの要求を拒絶した。
鄭の駟秦が殺害された。
晋の趙鞅が衛を攻撃した。
マガダ国のアジャータシャトル王が都パータリプトラを建設する。
斉の景公が死去すると、萊に幽閉されていた公子嘉・公子駒・公子黔が衛に亡命し、公子鉏・公子陽生が魯に亡命した。
晋軍が柏人を包囲し、荀寅(中行文子)と士吉射(范昭子)は斉に逃れた。
★主な出来事マラトンの戦い
ギリシア本土に上陸したペルシア軍を、アテネ軍がマラトンの平野で破った。ペルシア戦争の流れを変え、アテネが力をつけるきっかけとなった。
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よくある質問
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紀元前490年代は紀元前499〜前490年です。
紀元前490年代に起きた主な出来事は?
紀元前490年代(紀元前499〜前490年)は、イオニアの反乱をきっかけにペルシア戦争が始まり、マラトンの戦いでアテネ軍がペルシア軍を破りました。中国では孔子が諸国放浪の旅に出て、ローマでは聖山事件を経て護民官が置かれました。
参考にした Wikipedia の記事(11 件・CC BY-SA 4.0)
Wikipedia 日本語版の記事。文章は CC BY-SA 4.0 で提供されています。
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