WORLD HISTORY · 紀元前500〜前1年
紀元前430年代の出来事紀元前439〜前430年
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紀元前430年代に起きた主な出来事は?
紀元前430年代(紀元前439〜前430年)は、アテナイのアクロポリスでパルテノン神殿が完成し、第二次ペロポネソス戦争が始まりました。戦時下のアテナイでは疫病が広がり、中国では曾侯乙が編鐘とともに埋葬されました。
- パルテノン神殿が完成し奉献される世界
- ボスポロス王国が成立する世界
- アテナイがメガラ布令を出す世界
- シュボタの海戦が起こる世界
- 曾侯乙が編鐘とともに埋葬される世界
- メトンが19年周期を暦に導入世界
- 第二次ペロポネソス戦争が始まる世界
- アテナイで疫病が広がる世界
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紀元前430年代の出来事(年表・49件)
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マエリウスは、平民の反乱を鎮めるために再び独裁官となっていたキンキナトゥスに召喚されたが、出頭を拒んだ。程なくしてガイウス・セルウイルス・アハラ (Gaius Servilius Ahala) によってマエリウスは殺され、屋敷は焼き払われた。
裕福なプレブス(平民)であったスプリウス・マエリウス (Spurius Maelius) が、王位を得ようとして、民衆の支持を集めようとした。厳しい飢饉が生じた際に、彼は穀物を大量に調達し、市民に安く供給したが、これはローマ史上先例がないことであった。
アケメネス朝ペルシア帝国の支援を受けたサモスを陥落させるため、アテナイの軍勢は9か月の攻城戦を要したが、遂にはサモスを降伏させた。サモスはアテナイに服属する都市となった。
パルテノン神殿のためにペイディアスによって制作されていたアテーナー・パルテノスの巨大な像が完成し、奉献された。黄金と象牙で飾られたこの像の高さはおよそ12メートルであった。
アテナイのアクロポリスにパルテノン神殿が、イクティノスとカリクラテスの指揮により、9年に及ぶ建設期間を経て完成し、奉献された。奉献は、4年に一度のアテーナーを讃える祭りであるパナテナイア祭の際に行なわれた。
フィデナエがローマから離反し、ウェイイと連合した。
ギリシアの劇作家エウリピデスの悲劇『アルケスティス』がアテナイの演劇祭であるディオニューシア祭で上演された。 thumb|right|200px|3人の女神、大英博物館
高名な劇作家エウリピデスの悲劇『テーレポス』がアテナイで上演された。この作品は、現存していない。
パルテノン神殿の東側のペディメント(破風)に3人の女神(おそらくはヘスティアー、ディオーネー、アプロディーテー)の座像が作られた(完成は紀元前432年)。この彫刻は、現在はロンドンの大英博物館に収蔵されている。
パルテノン神殿の北側のイオニア式フリーズ(小壁)が作られた(完成は紀元前432年)。フリーズにおいて「行進」の一部となっていた「騎手」(ロンドン、大英博物館)や「元帥たちと若い女たち」(ルーヴル美術館)など、その一部は、現在はヨーロッパ各地の博物館に保存されている。
サムニウム勢が、カプアを陥落させた。
スパルタコス1世が自立しボスポロス王国が成立する。
アテナイと東方のギリシア系植民都市との交易の状況を憂慮し、新たな潜在的脅威となる可能性があったトラキアとスキタイの同盟に対抗しようとしたペリクレスは、アテナイの艦隊を率いて黒海に面したポントス地方を訪れ、周辺のギリシア系諸都市と友好的な関係を打ち立てた。
ウェイイとフィデナエの連合軍を独裁官マメルクス・アエミリウス・マメルキヌスが破り、凱旋式を挙行した (フィデナエの戦い)。この戦いでアウルス・コルネリウス・コッススがスポリア・オピーマを得た。
ペリクレスが黒海方面を訪れたことを契機に、アンフィポリスに大規模なアテナイの植民都市が建設された。しかしその場所は、コリントスの影響下にあった植民都市ポティダイア (Ποτίδαια、Potidaea) に、不安を与えるほど近いところにあった。コリントスは、これはアテナイによる間接的な威圧だと受け取った。
ギリシアの植民都市であったエピダムノス (Ἐπίδαμνος、Epidamnos) で、寡頭制体制と民主派の間に紛争が起こった。この植民都市の市民の大部分は、コリントスかケルキラ島の出身であった。エピダムノスから追放された寡頭派はケルキラに助けを求め、民主派はコリントスに支援を求めた。
独裁官クィントゥス・セルウィリウス・プリスクスがフィデナエを陥落させた。
ペイディアスによりオリンピアのゼウス像が作成される。
前年から続く疫病が更に蔓延した。
マケドニア王ペルディッカス2世の弟ピリッポスが、アテナイやエリミア王デルダス (King Derdas of Elimea) の支援を受けて、王座に挑んだ。これに対してペルディッカスは、ポティダイア (Ποτίδαια、Potidaea) などアテナイに従って朝貢していた諸都市に、アテナイへの反乱を促した。
ペリクレスが主導していたアテナイは、メガラがデーメーテールの聖域を犯したとして、経済制裁としての禁輸措置などを課す一連の方策を打ち出した(メガラ布令 (Megarian decree))。この布令の定めによれば、メガラの商人はアテナイや、その支配域の諸港の市場から排除されることになっていた。
投獄されている間、アナクサゴラスは定規とコンパスを使って、円積問題(円の正方形化)に取り組んでいた。
アナクサゴラスが、アテナイの宗教上の教義に反対した咎で、ペリクレスの政敵たちに捕らえられた。ペリクレスはアナクサゴラスの解放を求める演説を行なって、解放を実現した。しかし、それでもアナクサゴラスはアテナイからの退去を強いられ、イオニアのラムプサコス(Λάμψακος、Lampsacus)へ引退した。
独裁官マメルクス・アエミリウス・マメルキヌスがケンソルの任期を5年から1年半に短縮する法を成立させた。
現在の湖北省随県で、戦国時代の周(東周)代の人物である曾侯乙の墓から後に出土した、65個の編鐘一式が製作された。この編鐘は、現在は武漢市の湖北省博物館で保存されている。
コリントス系の娘市エピダムノスと母市ケルキュラの紛争。 アテナイと組んだケルキュラがコリントスと衝突するシュボタの海戦が起こる。
曾侯乙墓の被葬者が埋葬される。
ペリクレスは、コリントスの宿敵で、イオニア海に強力な艦隊をもっていたコルキュラ(Κόρκυρα、Korkyra、現在のケルキラ島にあったポリス)との防衛同盟を結んだ。
ペリクレスは、イタリアの南西の隅に位置するレギオン(Ῥήγιον、現在のレッジョ・ディ・カラブリア)や、シケリア(シチリア)南東部のレオンティ・ノイ(Λεοντῖνοι、Leontinoi、現在のレンティーニ)との同盟を更新し、シケリアからスパルタへの食料供給路を脅かした。
アテナイの行動に驚いたコリントスは、スパルタに働きかけて、反アテナイに立つよう説いた。この訴えは、ペリクレスによる経済制裁によって深刻な影響を受けていたメガラや、ペリクレスに重税を課され、自治を奪われていたアイギナからも支持された。
ペイディアスが、アテナイのアクロポリスのパルテノン神殿の一部を成す彫刻群を完成させた。
アテナイの提督ポルミオンは、コリンティアコス湾を封鎖して、ポティダイア (Ποτίδαια、Potidaea) への攻城戦を継続した。その間、アルケストロス (Ἀρχέστρατος、Archestratus) に率いられたアテナイ艦隊が、ポティダイアへと向かった。
イタリア南部に、ターレス(Τάρᾱς、現在のターラント)とトリオイ(Θούριοι、現在のトゥリ (Thurii))からの入植者たちによって、ギリシアの植民地ヘラクレイア (Heraclea) が創設された。
スパルタは、ペロポネソス同盟の会合を招集した。この会合には同盟諸国のほかに、アテナイの代表者たちも参加した。コリントスからの訴えを受け、同盟諸国の大半は、アテナイが和平を破ったとする宣言に賛同した。
戦国時代の周(東周)代の人物で、楚出身の曾侯乙が埋葬され、その墓に5オクターヴの音域、2種類の音色を奏でる65個の編鐘一式などが副葬された。(おおよその年代)
ギリシアの数学者で天文学者、アテナイのメトンが、太陽と月の相対的な周期を正確に計算した。これにより、メトンは19年のメトン周期を、日付を数える基となっていたアテナイの暦に導入した。6月27日には、エウクテモン (Euctemon) との共同作業によって、夏至(至点)の観察を行なった。
アテナイは、トラキアの王シラルケス (Sitalkes) と同盟を結んだが、これは、アテナイに影響力をもっていたアブデラのニュンポドロス (Nymphodorus of Abdera) がシラルケスの妹を妻とした後に成立したものであった。
エウリピデスの悲劇『メデイア』が、アテナイの有名な演劇祭ディオニューシア祭で3位に入賞した。
スパルタ王アルキダモス2世率いるスパルタ軍は、アッティケー(アッティカ)を侵略し、アテナイ帝国とも称されたデロス同盟と、ペロポネソス同盟との間で、(第二次)ペロポネソス戦争が始まった。スパルタ軍はアテナイ近郊の農村地域を荒し回った。
共和政ローマは、アルギドゥス川の戦い (battle of the River Algidus) でアエクイ族とウォルスキ族を破った。 <!--「Anatomy」節の記述では、四体液説をエンペドクレスが唱えたかのように記述されているが、これは四体液説を四大元素説と混同したものかと思われる。節ごとコメントアウトとする。:
テーバイがボイオーティアにおける唯一の親アテナイ都市であったプラタイアを攻撃したが、これは失敗に終わり、プラタイアが捕虜とした180人は全員が処刑された。アテナイはプラタイアを支援し、スパルタはテーバイ側に立った。スパルタは、イタリアやシケリア(シチリア)のギリシア系植民都市の支援も受けた。
第二次ペロポネソス戦争が起こる(〜紀元前404年)。 アテナイのペリクレスによる「戦没者追悼演説」が行われる。
The Greek physician and philosopher Empedocles articulates the notion that the human body has four humours: blood, bile, black bile, and phlegm, a bel…
義渠が秦を攻撃し、渭水の南までやってきた。
アテナイで疫病が発生し、人口密度が高かったこの都市で猛威を振るった(古代の墓から得られた検体による現代のDNA分析から、この疫病はチフスと推定されている)。3万人以上の市民、船員、兵士が死に、ペリクレスの2人の息子も犠牲となった。アテナイの人口の概ね4分の1ほどが、この疫病で死んだ。
スパルタ軍が再びアッティケーを荒らし回ったが、ペリクレスはこれにひるまず、当初の戦略を変更しなかった。ペリクレスはスパルタ軍との地上戦を避け、再びペロポネソス半島沿岸を海から襲うべく、今回は艦隊の規模を100隻ほどに増強し、海路での遠征を行なった。
ペリクレス自身も罹患したが、一時は回復を見せた。ペリクレスは将軍職を一旦解かれたが、後に再任された。
ポリュクレイトスが、代表的な彫刻作品のひとつである大作ディアデュメノス (Diadumenos) を完成させた。
アテナイに攻城戦を仕掛けられていたポティダイア (Potidaea) が、冬場になって遂に降伏した。
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よくある質問
紀元前430年代は何年から何年まで?
紀元前430年代は紀元前439〜前430年です。
紀元前430年代に起きた主な出来事は?
紀元前430年代(紀元前439〜前430年)は、アテナイのアクロポリスでパルテノン神殿が完成し、第二次ペロポネソス戦争が始まりました。戦時下のアテナイでは疫病が広がり、中国では曾侯乙が編鐘とともに埋葬されました。
参考にした Wikipedia の記事(11 件・CC BY-SA 4.0)
Wikipedia 日本語版の記事。文章は CC BY-SA 4.0 で提供されています。
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